6月の美術館便り

5月は社会的なビッグイベントが続きました。
まず21日の金環日蝕がありました。これを日本の多くの土地で見ることができました。その現象は、173年ぶりの出来事とか。 子どもの頃に、下敷きに蝋燭のススか何かをつけて、小学校の校庭から皆でみた覚えがありますが、それは金環日蝕ではなく、部分日蝕かなにかだったのでしょう。時代は変わり、天体ショー用の専用グラスなどのグッズが販売され、それがないと目を傷めるということも事前の解説で紹介されていました。
グラスを購入しなかったので、太陽の一部がかけ始めてときに、ちらっと太陽をみて、そのまぶしさに、金環日蝕はテレビで見ることになってしまいました。でも、各地で歓声があがっていましたが、その不思議さに感動の声を上げるのも無理ないことだと思いました。

続く22日には、生憎の雨の中をスカイツリーのオープンがありました。美術館の建物の2階、3階部分からもツリーを見ることができますし、建設中のツリーを見学にも行きましたので、この騒ぎの中での見学は無理と諦めムード。曇りの日は、下からツリーを見上げるにも、雲の中ということがありましたので、雨の日のオープンでは、何もみることができなかったろうと残念に思いました。開館から5日で、100万人を突破したそうですが、地下鉄半蔵門線の中でスカイツリーの買い物袋をもっている人々を大勢見かけましたので、人気のほどを実感します。天気の良い日に、東京ソラマチに行ってみたいと思います。

5月23日、2020年に開催のオリンピックの候補地にむけ、日本の東京がトルコのイスタンブール、スペインのマドリードと共に選ばれました。最終決定は、2013年9月に開催地が決まりますが、いずれの国の開催も見てみたいなという気持ちで一杯です。

ぬりえ美術館のビッグニュースといいますと、「大人のぬりえサロン」が大変人気となっているということです。ぬりえサロンでは、昨年の6月から「デコぬりえ」というものをしているのですが、このデコぬりえのことをNHK Eテレの団塊スタイルやテレビ東京の"「Mプラス」で放映された影響かとおもいますが、ぬりえサロンのお申し込みがとみに増えてきました。 お申し込みの理由をお聞きしますと、「デコぬりえ」という回答が帰ってきますので、間違いなくデコぬりえが人気故のサロン人気となっているようです。 
デコぬりえは立体的な作品の仕上がりと制作しているときのキラキラ、フワフワの素材のときめき感と集中力による気持ち良さが魅力です。作品も素敵な装飾になりますので、是非皆様も一度「大人のぬりえサロン」でデコぬりえに挑戦してみてはいかがでしょうか。(館)

投稿者 Nurie : 15:25 | コメント (0) | トラックバック

2012年06月02日

3月~5月合併号美術館便り(2)

3.お姫様・舞妓さんのぬりえ
   
きいちの人気のぬりえにお姫様、花嫁さん、舞妓さんがあります。
昭和20年~30年代、まだまだ素敵な服は出回ってはいませんでした。東京のデパートにはあったかもしれませんが、地方のいわゆる田舎には、無かったであろうそれは素敵なお洋服や着物姿をお姫様、花嫁さん、舞妓さんの姿に表現して、描いてくれていました。
今ではインターネットも普及し、世界中と繋がっていますので、世界中の情報が瞬時に入手可能です。パリで開催される「パリコレクション」がすぐにネットの記事として広まり、新しいファッションの流行を知ることができます。
しかし、昭和20年~30年代には、このぬりえに描かれていたものが全て少女たちの身の回りに
あったのではありませんでした。それ故に、遠い映画の世界か外国の世界に存在するものを夢みて、少女たちがぬりえを塗っていたということを理解していただきたいと思います。そのことは可愛そうなことではなく、大変楽しかった時間であったのです。

4.相撲の力士のぬりえ

きいちは映画スターやスポーツ選手など肖像画的なぬりえを残しています。原画では、横綱大鵬と柏戸の原画ぬりえが展示されています。
まるで写真でとったような絵の出来栄えに驚かされます。大鵬にそっくりに完成した絵を見ると、きいちは絵が上手い人なのだと、今更ながらに思ってしまいます。
顔もよく似ていますが、体のてかり具合など、生き生きとした相撲取りの様子を描いています。
昭和36年(1961)の流行語に「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉がありました。当時は巨人の長島と王の活躍と、昭和36年に横綱になった大鵬に子どもたちの人気が沸き、子どもの好きなものを挙げたこの言葉が流行語になりました。

5.きせかえ
   
   
きせかえは昭和23年から描かれています。
今回ご紹介しているものは、昭和30年代もものです。
きせかえは、少女を中心にお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、おじいさん、おばあさんなど、家族を作って遊ぶものです。
紙ですから着せ替えのお人形を立てることはできませんので、きれいなお菓子の箱を使って、お人形を立てたりしたものです。
着せ替えについている洋服や着物も素敵なものが描かれていますが、付属で隙間に描かれている小物が面白いですし、又小物でその当時の時代がわかってしまうということもあります。そんなこともチェックされると楽しいと思います。
きせかえは一人の主人公にいくつもの服を描いていますので、ぬりえより手数がかかると思いますが、きいちは「ガリバーの気分になって」、喜んで着せ替えを描いていました。
原画が描かれた時代から約50年ほどになりますが、今でもその色彩は鮮やかで、生き生きとしています。ぜひこの機会に原画をご覧になって下さい。(館)

投稿者 Nurie : 15:24 | コメント (0) | トラックバック

2012年03月17日

3月~5月合併号美術館便り(1)

ぬりえ美術館10周年記念企画
「きいちのぬりえ・きせかえ原画展~鮮やかな色が、今よみがえる~」
24年3月3日(土)~5月27日(日)
ぬりえ美術館では、今年8月に10周年を迎えます。これも偏に皆様方のご支援の賜物と心より御礼申し上げます。これからも皆様方が楽しんでいただける企画をご紹介していきたいとおもっております。

今回10周年を記念して、当館初のぬりえときせかえの原画をご紹介いたします。
きいちのぬりえは昭和22年の開始当時は、原画を描いてそれを印刷していたようですが、
その後の印刷技術により、亜鉛版(ジンク版)に直接描くようになりましたので、ぬりえには原画がなくなりました。今回展示いたしますのは、そのぬりえが入っていた袋の表紙絵になります。又きいちのきせかえは、昭和23年から描かれています。今回展示いたします原画は、昭和30年代のものになりますが、今みてもきいちの特徴のひとつである原色が大変鮮やかで、生き生きとした躍動感が伝わる作品ばかりでございます。

1.きいちのぬりえ原画

きいちは毎月2つの版元(今でいうメーカー)に各4袋、合計8袋のぬりえを描いていました。
一袋に10枚、12枚などありますが、紙の取り都合が一番よかったことから8枚入りが長い間続いたようです。そして昭和30年代後半には、5枚入りになっていきます。 袋の表紙絵を、きいちは一枚、一枚丁寧に色を塗って完成させています。
「喜一さんの絵はていねいですよね。他の絵描きさんは、絵の具をかいあわせて、ちょっとぬって、「ここがピンク」とか指定してくるだけなの。喜一さんは全部塗って、仕上げてくれるのよ。細かい所までね。」と版元の女将さんが書いています。(草思社「きいちのぬりえ」)

この絵を見たとき、私の好きな速水御舟の「炎舞」を彷彿させる絵だと思いました。日本画の山川秀峰に影響されて日本画を勉強しはじめたきいちにとって、大正14年(1925)に描かれた速水御舟の「炎舞」を見ていても不思議ではなく、ぬりえと炎舞がコラボレーションしている表紙絵と言っていいかもしれません。

2.子どもの遊びがテーマの表紙絵
      
ボウリング、キックスクーターなど当時の流行の遊びから近所の公園にあるブランコまで、その時の話題に合わせて、自在に絵を描いています。
ボウリングは、古くは1861年(文久元年) 長崎の大浦居留地に初めてのボウリング場がオープンしたと書かれています。その後昭和27年(1952)、日本で始めての本格民間ボウリング場 「東京ボウリングセンター」が、東京・青山に開業し、昭和30年(1955)、現在の全日本ボウリング協会の前身「日本ボウリング連盟」設立されたという歴史がありますので、ボウリング場の開設を見て、子ども向けのボウリングのオモチャが開発されたと思われます。輪投げと一緒に遊ぶ様子が描かれています。
キックスクーターは、私は見た覚えがないのですが、一緒に描かれているぬいぐるみの形状は昭和30年代のぬいぐるみ、そのものですので、やはり当時に流行していたもとの思われます。私はスクーターよりも、ホッピングという遊び道具を買ってもらい、ジーンズのつなぎを着ながら、跳ねていたのを思い出します。

投稿者 Nurie : 15:19 | コメント (0) | トラックバック

2012年03月17日

2月の美術館便り

今年は1月から大変厳しい寒さが続いています。雪の降り方も半端ではなく、地域によっては生活に影響を与えているようです。この異常さは日本だけのものではなく、ヨーロッパでは日本以上に寒く、反対にアメリカのワシントンでは、桜が咲いているという暖かさだそうで、世界的に異常気象といえるでしょう。今月2月はまだまだ寒い季節ですから、どうぞ気をつけてお過ごしください。

■きいちのぬりえ本の新刊発売
2006年にきいちの大判ぬりえが発売されてから2007年まで12種類のぬりえ本が発売されました。そして今年、きいちファンにとっては待望のぬりえ本の新刊が発売されました。実に5年ぶりのことです。
新刊は、「昭和の暮らし編」と「おしゃれ編」の2冊です。きいちファンにとって、昭和20~30年代の懐かしい暮らしが描かれたぬりえは、とても人気になる1冊だと思います。それは、既刊の「お手伝い編」が一番人気でありますので、昔の生活を思い出させる具体的なものが描かれたぬりえは、「懐かしい!」と幅広い年齢の方々からお声が上がるテーマだと思います。

今回の本には、「しょうじはり」をしている少女や、おもちゃの電気洗濯機でお人形の服を洗濯する少女、焚き火や火鉢にあたる少女、すごろくをする少女など昭和20年~30年代に少女たちがしていたことを思い出させるぬりえで構成されています。
「おしゃれ編」は、もう一つのきいちの人気の絵柄です。きいちの可愛いファッションが沢山集められています。豪華な着物姿の少女や素敵なドレスの少女、おしゃれなナイトガウンを着た少女、パーティにおでかけする毛皮で着飾った少女など、憧れのおしゃれをした少女の絵が満載です。

来館されるきいちのファンの方々は、すでにすべてのぬりえ本を持っていらっしゃる方が大勢いらっしゃいます。その方々から、「新しいぬりえ本は発売されませんか?」というお声をたびたびお聞きしていました。ファンの方には、新刊が発売されただけでも嬉しいことですが、さらにこの2つのテーマは、見ても懐かしく、胸のキューンとさせる塗り甲斐のあるぬりえであること請け合いでしょう。
そして、ぬりえ美術館にとってうれしいことは、この新刊の表紙には、「デコぬりえ」が使われたことです。進化した21世紀のぬりえとして、ぬりえ美術館では、昨年から「デコぬりえ」を作成していますが、ぬりえ美術館の10周年にあたる今年、このデコぬりえが使われたぬりえ本の発売されたことは大変嬉しいことです
2012年が「デコぬりえ」元年となり、日本の大勢のきいちファンの方々が「デコぬりえ」をしてくださることを心より願っております。(館)

投稿者 Nurie : 18:20 | コメント (0) | トラックバック

2012年02月03日

1月の美術館便り

新しい年が始まりました。今年は穏やな年になるといいですね。ぬりえ美術館もぬりえを通じて、皆様との絆がさらに深められますように、楽しい企画を計画していきたいと思っておりますので、今年もよろしくお願いいたします。

平成24年は、ぬりえ美術館が開館して10周年になります。月日は過ぎてしまえば、アッという間のことかもしれませんが、スタート時には皆様に楽しんでいただけるのだろうか、来館していただけるのだろうか等、どうなるのだろうかという不安で一杯でした。それが10年続けてこれたのは、ひとえに皆様方のご支援のお蔭と、心より感謝しております。
今年を起点としまして、また新たな気持ちで次の10年に向けまして歩みを進めていきたいと思っておりますので、これからもご支援をどうぞよろしくお願いいたします。

さて10周年の計画ですが、毎年2回、3月~5月と8月~10月に開催しています企画展において「原画展」を開催予定ですので、ぜひお楽しみにていただきたいと思います。

「ぬりえには原画はないのでは?」と「きいちのぬりえを」ご存知の方は、疑問に思われるかもしれませんね。黒の線で描かれたぬりえはジンク版(亜鉛版)に直接ぬりえの絵を描いたものを印刷をしましたので、原画は残っていず、印刷されたぬりえが残されているだけです。直接描いたジンク版は、砂で磨くと何度か使用できたようで、それが出来なくなると破棄したようです。
私がいう原画とは、ぬりえが入っていた袋の表紙絵の原画のことなのです。きいちのぬりえの特徴の一つには、きいち独特の原色のカラフルさが挙げられると思います。その美しい表紙絵が残っているのです。今回はそのいくつかを展示する予定です。
この原画は、他のぬりえ作家の方の中には、色指示を書いただけという方もいらしたようですが、きいちはほとんどすべての色を丁寧に塗って、印刷所に渡したそうですので、きいちの生の絵の良さを見ていただけるのでないかと、是非期待しえいただきたいと思います。カラフルさは、時間がたった現在でも大変色鮮やかですよ。
ぬりえと一緒にきいちが描いたきせかえの原画も残っていますので、きせかえ原画もご一緒に展示する予定です。きせかえファンの方は、是非この際に来館していただきたいと思います。
後半8月からの企画展では、原画のほかにきいちの日本画で絹地にぬりえのような少女を描いた絹絵や美人画を加えて、きいちの世界を楽しんでいただきたいと思っております。

今年もぬりえ美術館をよろしくお願いいたします。(館)

投稿者 Nurie : 15:54 | コメント (0) | トラックバック

2012年01月02日

12月の美術館便り(2)

11月3日(祝)
・青森から来て、ちょうど祝日でもあったので念願のぬりえ美術館に入館することが出来ました。小さい頃1袋10円(?)に3~4枚のぬり絵の入った袋を買ってもらったのが宝物でした。実際の生活とはほど遠い夢の世界をきいちのぬり絵は見せてくれました。「ありがとう」の言葉を贈ります。青森 61才女性
―遠い所からご来館ありがとうございました。本当に「夢の世界」を見せてくたのですよね。(館)

11月5日(土)
・終戦(20年8月)日暮里(谷中)に居た頃を思い出します。母が買ってくれたぬりえを思い出し涙がでました! あれから60余年過ぎましたが子供の頃ってわすれていないのですね。母の居た思い出にひたれたひととき、ありがとう きいちさん。 娘と一緒に!八潮市 憲子
―ぬりえ美術館では、重大な思い出というより日常的な、普通の思い出がフッと出てくるようです。お母様を思い出されて、いい時間でしたね。こちらこそありがとうございました。(館)

・子どもの頃を思い出し、とてもなつかしく見させていただきました。子どもの頃は、とても大きな紙でぬっていたような気がしましたが・・・ ありがとうございました。
―ぬりえの紙がこんなに小さかったですか?とおっしゃる方はとても多いです。自分が小さかったので、ぬりえの紙は大きくみえていたのでしょうね。(館)

11月6日(日)
・念願の「ぬりえ美術館」に来ることができました。きいちのぬり絵に励まされて幼い頃一人遊びの楽しい世界を知りました。きちのぬり絵の女の子は可愛くていつも素敵なお洋服や着物を着て、ほっこりとしています。バリエーションが豊富で飽きないんです。もう夢中で毎日毎日ぬり絵を楽しみました。きいちさん ありがとうございました!
 上手な絵を描かなくても、ぬり絵なら小さな私にも素敵な世界を描けるんです。「きいちのぬり絵」は心の友でした。 まりこ
―ぬりえを心から楽しんでくださっていたのですね。きいちもきっと喜んでいると思います。(館)

11月13日(日)
・きいちさんは、こんな可愛さを見る目を持っていて、良かったです。多くの人の幸せを増やしました。今も観れば嬉しくなる、貴重な絵ばかりです。ラインホルト・グリンダ
―外国の男性に、きいちのぬりえのよさを理解していただき、大変嬉しいです。(館)

・きいちさんの作品は、私が小学校の頃よく学校でみんな(女の子が)ぬりえで遊んでいました。私は友達と一緒にどちらが早くぬりえを完成させられるかをきょうそうしました。ありがとうございます。たのしいおもいでです。
―ぬりえの競争をされたのですね。そういうことをした方が他にも大勢いるかもしれませんね(館)

11月23日(祝)
・おもしろかったです。また見にきたいです。しばたゆいま
―ゆいまちゃん、来てくれて有難うございました。また遊びにきて、ぬりえをしてください。(館)

いつも皆様とのお話や感想ノートのご意見に、明日も頑張ろうと大変励まされています。又皆様の子どもの頃の思い出の大切さがひしひしと伝わってきて、子どもの時代をいい加減に過ごしてはいけない、大事な時代なのだと解ります。
来年も皆様が喜んでくださるよう、楽しい企画・展示をして参りますので、来年もご来館くださいますよう、よろしくお願いいたします。(館)

投稿者 Nurie : 11:42 | コメント (0) | トラックバック

2011年12月03日

12月の美術館便り(1)

今年も一年ご来館ならびにご支援をいただきまして、心より感謝申し上げます。
日本にとって大変厳しい年でした。そして世界的にみても様々な災害や社会的な変化があった年でした。2012年は、少しでも明るい年になりますよう、前向きに歩いて行きましょう。

一年の終わりにご来館いただきました来館者の声をご紹介したいと思います。
10月1日(土)
・今日、はじめてぬりえ美術館にきました。私は東京新聞のきいちのぬりえ(コンテスト)でこの美術館を知りました。新聞のぬりえコンテストに出させていただきました。いろいろなぬり絵が見れて、楽しかったです。ぬりえもしました。(笑) また来たいと思います。清水美里
―清水さんは、ぬりえコンテストに姉妹して参加し、美里さんは昨年は次点、今年は優秀作品に選ばれました。妹さんは初参加で優秀作品に選ばれた、ぬりえ大好き姉妹です。美術館にはお父様、おじい様とご一緒に来館されました。おじい様は、偶然にもきいちの柔道家のお兄さんのお弟子さんでした。こういうご縁もあるのだなと私も驚きました。
そのおじい様のお話によりますと、柔道家のお兄さんが亡くなったとき、きいちが画家だとおもったのは、お兄さんの亡くなった顔を描いていたことが印象に残っているということでした。
このご縁を大切に、また来年もぬりえコンテストに参加してください。(館)

10月8日(土)
・板橋区から来ました。自分は男性だけど幼い頃女の子たちがよくぬりえをしていたのを見たことがあるので、なつかしく、いいものだとおもいました。萩 弘明
―女の子たちはぬりえが大好きですからね。(館)
・5歳の娘を連れて2回目の訪問です。娘がぬりえ大好きで、プリキュアも好きですが、「きいち」も大好きのようです。かわいらしい女の子の笑顔が安らぎを与えてくれて優しい気持ちになれます。また来ます。 みのる(42)ひなえ(5)
―小さいお嬢さんも、きいちが好きと聞いて、大変うれしいです。みのるさんが書いていらっしゃるように「かわいらしい女の子の笑顔が安らぎを与えてくれて優しい気持ち」をお嬢さんも感じるいるのでしょうね。(館)

10月9日(日)
・ずっと行ってみたいと思い、本日来ることができました。時間が経つのを忘れるくらい見とれました。
―こういう方のために、これからもずっと頑張っていきたいと思います。(館)
・小学校4年生の娘と初めて来ました。やさしい気持ちになれる絵ですね。ありがとうございました。 みゆき(43) ももか(9)
―ももかちゃんもぬりえをしてくれるといいですね。(館)

10月10日(日)
・新聞を切りとって大切にとっておきいつかと思ってやっと見に参りました。なつかしいですネ。
えいこ
―いつか行ってみたい!という方がとても多い美術館です。又いつかいらしてくださいね。(館)

10月15日(土)
・4歳の娘と5回目です。「きいちのぬりえ」がまたほしいと来ました。いつ来ても本当に落ち着きます。(町屋っ子)ななみとパパ
ー5回目の来館ありがとうございます。ななみちゃんもぬりえを沢山してくれてありがとう(館)
・初めて来てビックリしました!きちさんは、すごいなぁーと思いました。 Cさん
―きいちは毎月100枚くらいのぬりえを楽しんで描いていたんですよ。又いらしてください(館)

10月30日(日)
・テレビの横の二つのぬり絵(デコぬりえ)が綺麗ですごかったです。
   
―ぬりえも進化をして、今年はデコぬりえ(デコレーションぬりえ)を楽しんでいます。(館)

・母の実家にいったときに、おばあちゃんの家にぬりえがありました。「きいち」は5枚、「ひでを」が10数枚、「まつお」も10数枚。私の宝物です。食べ物がなくても、ぬりえ持っていきます。なにか災害があったら。2011.38才、S48・5・19 女性
―ぬりえをみせてくださって、ありがとうございました。これからも大切にしてください。(館)

投稿者 Nurie : 11:40 | コメント (0) | トラックバック

2011年12月03日

11月の美術館便り

毎年今頃になりますと、「一年の過ぎるのが、早いこと」と年末を思い、気ぜわしくなりますが、
11月、12月と季節の移ろいを楽しみながら、大事に今年の残りの時間を過ごしたいと思います。

今月は、最近のぬりえ美術館の「大人のぬりえサロン」で実施しています新しくて、しかも楽しいぬりえの「デコぬりえ(デコレーションぬりえ)」について、ご紹介をしてみたいと思います。
「大人のぬりえサロン」は、毎月第三の木曜日に開催しています。2004年から開催しておりますので、今年で7年目になります。講師も二人交代され、現在は三人目の講師に指導をお願いしております。

□講師のプロf-ル:お名前 YUN
牡羊座・O型。文化服装学院→大手ファッションデザイナー→イラストレーターへ。
得意分野:和、レトロモダン、ファッションイラスト(ジャンル問わず)、スタイル画。
主なモチーフ:女性&植物。
お仕事:装丁:「牡丹と薔薇」 「真珠夫人」それぞれ上下巻・中島丈博著書(文庫本)徳間文庫
art活動:ギャラリー、ショウルーム等での展示多数。アートプロジェクト、他。
装丁やギャラリーでのアート出品など幅広く活動されているYUN講師の若々しい、アイデアのある発案、ご指導で、昨年から毎月テーマを設けて、ぬりえを塗ってきました。そして、今年の
6月からは「デコぬりえ」というぬりえを始めました。

□「デコぬりえ」とは、何か?
お若い方の携帯電話にキラキラしたラインストーンなどが貼られているのを見たことがあるかと思いますが、あのキラキラのラインストーンをはじめ、様々なシール、レース、ビーズ、布、紐など平面的なものばかりでなく、立体物も含めて、ぬりえの女の子や服装のイメージにあわせて、上述の物をぬりえの上に貼り付けていって、完成させるぬりえのことを私は、「デコぬりえ」と呼んでいます。ぬりえの進化系、新しいぬりえですね。

1)例えば、次のページのドレスの絵の場合、材料は、パール、リボン、レース、バラの花、ハートのラインストーン、縁取りのレースなどです。
・仕上げの手順は、まず簡単にドレス、手袋、帽子などを塗り、顔メイキャップをするように、塗っていきます。
・その上に、どのようなドレスにするかをイメージして、レースや縁取りを張っていきます。大きなハートのラインストーンは、ネックレスの飾りとしてつけます。
・ドレスには、一番下に大きなフリルのレース、その上に縁取りようの布を貼り、ドレスの豪華さを演出します。
・さらに、ウェストにはバラの花をつけて、レースとリボンをつけます。
イヤリングは、パール。きいちのぬりえがすでに5つのまるい粒のイヤリングをしていますので、とてもエレガントな印象になっています。
 ・帽子にはバラの花とシリコンを絞り出してお花のような演出にしています。
 ・手袋の上に、パールをつけて、指輪をしているに見せています。

2.ぬりえの少女をケーキのようにが、テーマの絵です。

・ケーキがテーマのこの絵の画材は、まず紙粘土をケーキ型につめて、ケーキを作っておきます。紙粘土ですから、軽いので、画用紙の上にはりつけても大丈夫です。紙粘土をまぜるとお好きな色がつくれます。ケーキの形のほかに、バラ、蝶々、チョコレート等の型があります。
・シリコンを搾り出して、クリームのような形をつくります。
・タイトルについているみかんは、金太郎飴状態になっているもので、それをカットしておきます。他にいちごやキューイ等もあります。
その他、リボン、レース、パール、ビーズ、シールなど。

・まず少女のドレスや顔、髪などを塗ります。ぬりえのケーキにも色をつけておきます。
・次にケーキの上に紙粘土のケーキやホイップドクリーム、パールなどを貼り付けます。
・ドレスにもケーキやチョコレート、ホイップドクリームを貼ります。少女自体がケーキというテーマですから、髪の上にもホイップドクリームやバラなどを張ります。
・エプロンにレースを貼り、腕にはビーズのブレスレットをつけます。
・仕上げは背景ですが、全体に色をぬって、その上にハートのシールを貼り、エンジェルやシャンデリアのスタンプを押して完成です。スタンプなら、簡単に背景の雰囲気を演出できます。

完成した作品をご覧になって、いかがでしょうか。
ここで使用している飾りのアイテムは、いずれも100円ショップで売られているものばかりです。簡単に手に入りますし、お値段も手ごろです。様々な種類が発売されていますので、ここの紹介した以外ものでも、自由に、いかようにも、使えると思います。
何かを新しく描くことは、なかなか難しいのですが、上述のようなラインストーン、シール、レースなどがあれば、貼ることは難しくありませんので、楽しく絵を演出することができます。
是非、一度お試しくださいませ。(館)

投稿者 Nurie : 10:29 | コメント (0) | トラックバック

2011年11月03日

ぬりえ美術館便り8月~10月合併号

お蔭さまで、ぬりえ美術館は開館9周年を迎えることができました。これも偏にきいちのぬりえを愛してくださる皆様のご支援の賜物です。来年の10周年に向かって、これからも楽しんでいただける企画を展開してまいります。

「少女の憧れ、夢。ぬりえがすべてだった展」
23年月8日6日(土)~10月30日(日)

今年の春の企画展では、「きいちのモード」と題しまして、さまざまな少女の憧れの中の最大のものとして、きいちが描いたお洒落なモードの世界をご紹介いたしました。
このモードに限らず、きいちのぬりえに描かれたものは、少女の様々な憧れと夢が一杯でした。
戦後アメリカからアメリカ文化が急速に普及し、アメリカに追いつき、追い越せと経済的な発展を拡大させ、日本の復興がなされていきました。貧しい中にも、文化的には従来の生活を一遍させるような情報がもたらされ、少女達の憧れや夢は膨らんでいきました。
少女達の憧れや夢を、ぬりえの中に具体的に描いていったきいちのぬりえ。昭和20~30年代の少女にとって、「ぬりえがすべてだった」と言っても過言ではないでしょう。
 
夢がなくなったと言われる現代、この絵に描かれたものがすべてある現代ですが、きいちの絵の中に、あの頃の胸がワクワクするようなときめきと目の輝きを感じていただければ幸いです。

お姫様と花嫁さん
   

昭和20~30年代の少女の将来成りたいものといえば、花嫁さんでした。
綺麗な着物やドレス姿で、女性の一番美しい姿であったからだと思います。

昔は花嫁さんは自宅から嫁いでいったものです。小さい子ども達は、綺麗な花嫁さんの行列の後をついていったりしたものでした。その美しい姿に、すっかり心を奪われ、私も花嫁さんになりたいと思ったことでしょう。
今では花嫁さんの衣装は、ウェディング・ドレスが多いようですが、昭和の20~30年代は、現在のような打掛(うちかけ)の花嫁姿は裕福な家庭の子女にかぎられ、一般には黒縮緬の裾模様で、袖も留袖か中振が着用されていました。
その後打掛や白無垢などが流行となり、一般家庭の子女でも着られるようになりましたが、今ではすっかりウェディング・ドレスが主流となり、結婚式も欧米のようにジューン・ブライドの6月が望まれるようになっています。きいちのぬりえには、着物姿だけでなく、ウェディング・ドレスの花嫁さんも描かれています。流行の最先端だったのですね。
今また流行し始めている、着物に日本髪ではなく洋風のヘアスタイルにするスタイルは、「洋髪の花嫁さん」と呼ばれたそうですが、そのような花嫁さんも描いていました。昔の流行がまた蘇っていることも面白いものですね。
   
長いスカートのドレスなど、当時の日本で身に付けている人は、映画の中の主人公くらいでしたので、誰でも一度は着てみたいなと思ったことと思います。
そのロング・スカートの一番の似合う人といえば、童話や絵本にでてくるお姫様でした。白雪姫、シンデレラ姫等など、素敵なドレス姿に目は絵本に釘付けでした。


豪華な着物
   

きいちの着物は、豪華さの理由でとりわけ人気です。昭和20~30年代には、子ども達も浴衣や寝巻きなどを始め、着物を現在よりも日常的に着ていた時代でした。
当時の子ども達は着物を着慣れていたとはいえ、それでもぬりえの中の少女達が着ている着物姿には、うっとりとしていたものでした。
きれいな着物姿の代表として、豪華な飾りや着物の柄粋も大振り舞妓さんや踊りの舞台衣装などがよくきいちのぬりえには描かれています。
アクセサリーをはじめ、飾りがたくさんついていればいるほど人気となり、それらのぬりえが飛ぶように売れたそうですから、少女達が喜ぶような絵を喜んできいちは描いたことでしょう。

お人形と遊び
   
少女なら誰でも、お人形が好きでしょう。お人形も昭和20~30年代の間に随分と進化をしました。
"文化人形"という丸い帽子を被った布製のお人形から、セルロイドのお人形が出てきました。その後は、
"ミルク飲み人形"、"カール人形"とソフトビニール製のお"人形になり、
ミルクを飲んだり、人形の髪をいろいろととかしたり形を変えたりすることができる人形などになりました。 ぬりえには、「歩くお人形」とタイトルがありますが、歩く人形まで誕生していたのですね。
バービー人形は1962年に発売されました。バービーは今も大変な人気を誇るお人形ですが、発売当初はあまりにもその体型や顔から、人気がなかったそうです。あまりにも大人すぎた人形の顔立ちだったのでしょうね。日本人は、「可愛い」というのがお好みですね。バービーに変って、リカちゃん人形がでてきました。 
皆さまの思い出のお人形はどれでしょうか。

トラベル
   

旅行というのは、非日常の世界への特別なイベントですね。
家族で旅行をする等、なかなか当時はできませんでした。子ども達は、学校の遠足で学校の近隣にでかけるだけでも、大変楽しいできごとでした。
夏休みには林間学校や臨海学校が開かれ、そこに参加することも楽しみでした。誰が一番真っ黒になって、学校に戻ってくるかを競ったものでした。
今では修学旅行や家族旅行も海外までも行かれるようになりました。本当に幸せなことですね。

憧れのお稽古
   

昭和20~30年代、団塊世代が子どもの頃、お稽古事が流行しました。特に音楽のお稽古でした。ピアノ、バイオリン、バレーなどです。
伝統的な日本のお稽古事ではなく、洋風のお稽古事を習う子ども達が多くなりました。
バレーは松島トモ子さんが映画や雑誌でバレリーナの姿を見せていましたので、少女達にはトーシューズへの憧れが膨らんでいました。
私の育った埼玉の田舎でも、幼稚園でバレーを教えるようになり、1年生の頃に通った覚えがあります。
ピアノを習った方も多いのではないでしょうか。
小さい頃にお稽古を始めるのはいいことですね。

これらのテーマのほかにも、「食べ物、おやつ」、「お洒落な暮らしの風景」、「楽しい行事」など、少女達の好きなもの、憧れていたものが様々に描かれています。
どうしてきいちがこのような子ども達が好きなものが描けたのか、きいちは下記のように話をしています。
「ぬりえをやってみたら、らくな道だった。子どもと一緒に遊んでいるような気持ちでいられた。気張らなくてもすんだ。私はそこで、うんと日本画を勉強して、切磋琢磨して、将来は・・・と、構えることも無く、素直な心に返ることがきできた。少年の頃、妹達や、妹の友達のために絵を描いてあげてた気持ちになれた。子ども達の喜びそうな絵を思いながら描いた。
お姫さま、お嫁さん、下町の女の子、ままごと、おとぎの世界・・・・。私は子どもの世界に入り込んでいた。」
きいち自身が、子どもになって、子どもの世界に飛ぶ、これだから20年間も少女の好きな世界を表現することができたのだと思います。
きいちのぬりえによって、少女達も「これが私の好きな物、これが私の憧れのもの」というものを、はっきり自覚することができたのかもしれません。
 
あの頃は、ぬりえがすべてだったのです。

投稿者 Nurie : 12:11 | コメント (0) | トラックバック

2011年08月03日

7月の美術館便り

□スイス(チューリッヒ、ジュネーブ)でのぬりえ調査報告
ぬりえ美術館では、ぬりえの資料を収集、展示するばかりでなく、海外でぬりえの調査を継続して行っております。
「ぬりえの調査って、なあに?」と思われるかもしれませんね。
日本にいれば、日本でのぬりえがどのようにされているか、子どもやお孫さん、ご近所の子どもさんたちを見ていて、今の子どもたちはぬりえをするの、とか、どんなぬりえをしているのか等知ることができます。
そこで、まず海外では、ぬりえがされているのか。されているのであれば、どのようにされているのか、海外の幼稚園などで調査をしているのです。
今年は、5月24日(火)~6月6日(火)まで、スイスのチューリッヒ、ジュネーブの幼稚園、保育園を見学、調査をしてきました。

□チューリッヒ

チューリッヒ湖

スイスには、ドイツ語圏とフランス語圏、イタリア語圏と3ちも言語の違う都市があります。今回はドイツ語圏のチューリッヒとフランス語圏ジュネーブの2地区で調査を開始しました。
ウィキぺディアに拠れば、チューリッヒは、"スイス北部にあるスイス最大の都市で、金融・経済・商業・文化の中心地である。2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第8位の金融センターと評価されており、欧州ではロンドンに次ぐ第2位である。金融ではひときわ有名であり数多くの金融機関・投資ファンド・投資家が存在している。また国際サッカー連盟(FIFA)を初めとし、多くの国際機関・国際団体の本部も存在する。"
 チューリッヒ湖畔にある街は、とても清潔で、落ち着いた街でした。湖や川などの水があるところは、何か情緒を感じる場所でもありますね。

幼稚園は、ホームブレヒティコン村のブライトウレン幼稚園の1&2、グマインドヴィス用幼稚園、モンテッソーリ私立幼稚園を訪問しました。 市内から30分も車で行くと、そこはもう村です。

□ブライトウレン幼稚園1&2では、春から夏にかけてスイスの画家パウル・クレーの絵を学んでいるそうで、私が訪問したヒは、パウル・クレーの絵「さえずり機械」という鳥の形をした音のでる機械の絵を子ども達にみせ、この絵を使って、子どもたちに様々なことを想像、表現させました。音のする楽器を子どもたちに演奏させる遊びをした後で、パウル・クレーの「さえずり機械」の絵のような楽器を子どもたちにイメージさせて、絵を描かせました。さらにその下絵を元に、青いインクをぬった紙に、白のインクで自分のイメージの絵を描きました。

パウル・クレー 「さえずり機械」

   
左:スケッチした絵を青い紙に描く 右:パズルのぬりえ

水場のタイルが大変モダン

自国の有名な画家を小さい頃から触れさせながら、子ども達に関連の絵を描かせるという絵の時間は、とても重要なものだと思いました。
この幼稚園の先生は、今日のように白い紙に絵を描かせますが、マンダラをつかってぬりえをすることがあるが、ぬりえに対する考えは、「きちっと枠にそって、丁寧に、綺麗にぬりえを塗るために、ぬりえをする」とのことでした。

□グマインドヴィス用幼稚園では、私のためにどのようにぬりえをするか見せてくれました。
まずども達に一枚のぬりえを配布します。その絵に、具体的にどの絵に何色をぬるか指示します。ぬりえにはないものを、先生が「カタツムリを2つ」と指示します。これらは、先生の言っていることを子ども達がどこまで理解しているかに役立つそうです。子ども達それぞれの成長を理解することもできるそうで、その子の成長によって、先生は要求をして、ここまででいいよと指導されていることが若い先生でしたが、素晴らしいと思いました。
ぬりえに対する考え方は、「手先のためによい。そしてきちっと枠の中を、ちょうど良い圧力で塗っていくことを学ぶ。効果は子どもによって、いろいろです。一概に効果はこうだとは言えないが、フラストレーションを感じないように、楽しいものだと思って欲しい」と考えられていました。
   
自由な格好でぬりえをする子供たち

□モンテッソリー私立幼稚園
モンテッソリーは独自の教育方針を掲げる幼稚園で、感覚教育、子どもの自主性などを重んじて教育をしています。園内に入り、子どもたちが何をしているのか観察をしていますと、3才~6才までの子ども達が自分のやりたいことを各自自由にしていました。4才の少女が針をもって縫い物をしている姿にビックリしましたが、この少女なら出来るということで、針を持つことをゆるされているとのことでした。

モンテッソリーでは、ぬりえがよくされていました。1.形を認識し、2.理解し、3.それを自分で再現する(ぬりえの線を描く)、その結果、仕事、動物など言葉を覚えて認識していく。
色は同じ色を塗るようにしているが、それは子どもにとって簡単であるから。白紙からするには、子どもにとて、要求度が高すぎると考えている。簡単であれば、子どもにとって達成感を感じることができると考えられているからだそうです。
ここでは、28人の園児がいましたが、大変静かでした。これは毎日の訓練の賜物だそうです。
   
子供たちは自分の自主的な意志で好きなことをしています。

台所道具やミシン等も子どもたちのために置かれています。

スイスの調査の続きは、ぬりえ美術館のホームページで後日ご報告をさせていただきます。
チューリッヒでの親達のインタビュー、ジュネーブの幼稚園の調査と親のインタビュー、その他雑感などをお伝えいたします。(館)

投稿者 Nurie : 16:39 | コメント (0) | トラックバック

2011年07月05日

美術館便り合併号(3月~5月) 2

Autumn

肩に切り替えのあるワンピース。確かトッパーとか言ったのではないかと思います。
冬の季節には、暖かいウールの生地で作ったと思われます。
現代の子どもたちは、パンツ姿が多いので、少女の可愛らしさも昔とは変化していますが、スカート姿の少女は可愛さがグンと増すのではないかと思います。

ニットのカーディガンにプリーツスカートを穿いています。
カーティガンには刺繍が縁取りされていて、
手が込んでいますね。
このカーティガンより短いボレロというスタイルも昭和20年代には流行していました。


学校の制服でしょうか。
尼さんのように襟のところに切り替えがあります。ショールカラーに襟元のリボンと学生らしさがでています。
セーラー服や背広タイプの学生服が一般的なときに、エレガントなデザインです。

「とうりゃんせ」
このぬりえは昭和20年代のものです。少女のワンピースが大変華やかです。遊んでいるときの姿ですから、靴ではなく下駄を履いている少女もいます。
ちょうちん袖やギャザーのたっぷり入ったスカート姿は、子ども心にも大変素敵に見えたことと思います。

Winter

全体的に、コーディネートがお洒落ですね。襟ぐりのあいたワンピースで、襟と袖口がたぶんビロードかベルベットの青でアクセントがついています。
セーターと帽子の色をお揃いにし、それに似合う色の黄色の手袋をアクセントにしています。この絵のタイトルは、「黄色い手袋」です。
きいちのぬりえを見ていると、服のデザイナーであり、紙面的なデザイナーでもあると思うことがあります。

「まんとのおじょうさん」
マントといえば、赤頭巾ちゃんではありませんが、赤という色が浮かびますね。マント自体がお洒落な上、裏にチェック柄の生地を合わせています。裏に凝るのは、日本人のお洒落ですから、若い頃から好きなようにお洒落を楽しんできたきいちならではの絵だと思います。

「ちょっとおつかいに」
アーガイル模様の変形のようなデザインのニットセーターにチェックのスカートを穿き、前掛けにまで縁取りがあります。
20年代は、セーター類も洋服と同じように、手編みや機械で編むなど手作りが一般的でした。袖口のゴム編みなどをきいちははっきりとした線で描いているものがありますが、それらは手編み等で作られたセーターであることがよく分かります。

「おやすみなさい」
めくるタイプのぬりえ本になりますと、これは昭和30年代の終わり頃のものになります。
チャイナ服にニットのタイツを合わせています。今であればスパッツというものだと思いますが、タイツには刺繍かアップリケがしてあり、子供服らしくデザインされています。

この他にも館内には、四季別に素敵なファッションを展示していますので、楽しんでください。(館)

投稿者 Nurie : 15:47 | コメント (0) | トラックバック

2011年03月03日

美術館便り合併号(3月~5月) 1

「きいちのモード」
23年月3日5日(土)~5月29日(日)
 
きいちのぬりえの世界には、さまざまな少女の憧れが詰まっていましたが、その中の最大のものは、きいちが描いたお洒落な洋服であったのではないでしょうか。
その憧れは、何故か? 街や洋品店の店先に絵に描かれたような、素敵な、又可愛い服が販売されていなかったからです。
平成23年の春の企画展では、「きいちのモード」と題しまして、昭和20年~30年代に少女たちを夢中にさせた素敵なモード、お洒落なファッションを四季毎にご紹介いたします。
貴方が夢見て、着てみたいと思ったドレスのぬりえがあるでしょうか。自分の着ていた服と同じような服の少女がいたでしょうか。
どのようなモードが描かれていたのか、お楽しみに。
Spring

"サブリナ・パンツ"のようなパンツをはいて、花壇の世話をする少女。
このパンツの元になると思われるものは、オードリー・ヘプバーンの「麗しのサブリナ」です。1954年(昭和29年)に制作された映画で、衣装デザインはイデス・ヘッドでした。この衣装デザインで、アカデミー衣装デザイン賞を受賞しています。
彼女はサブリナ・パンツや日本ではサブリナ・サンダルと呼ばれるサブリナ・シューズなど普段着としても十分に通用する衣装をデザインし、これらは「サブリナ・ファッション」と呼ばれてファッション界にセンセーションを巻き起こしたものでした。

   
左:ジャンパースカートにアップリケのチューリップがついています。昭和30年代には、フェルト素材のスカートによくアップリケが施されていました。
右:ネッカチーフを頭にかぶるスタイルはこの当時におなじみの着こなしです。
   
左:30年代、私は文京区の小学校に通っていましたが、その頃学校でもお出かけするときにも、このようなお洒落な帽子を被っていました。
今でも少女たちは、可愛いバッグを持っていますが、お出かけするときには、やはり小さいバッグを提げていました。
右:ストライプの服に、裾が半円に縁取られています。縦ストライプの服はなかなかお洒落でないと着こなしが難しいと思いますが、きいちはあえて描いています。それにしても足の組み方など、エレガントですね。

Summer

昭和20年~30年代は、現在のように素敵な既成服が店頭で簡単に手にいれることができませんでした。洋裁のできる人に縫ってもらうことになりますが、そのデザインを選ぶ時には、婦人雑誌に必ず子供服のデザインが掲載されていましたので、その中から好きなデザインを選んで、作ってもらいます。
夏になると必ずでてくる定番の柄が、ストライプや水玉でした。
上記の春のぬりえには、縦ストライプでしたが、こちらの夏の絵は、横と縦のストライプの組み合わせです。生地は木綿でしょうか。

    

「おつかい」:ワンピースに向日葵のアップリケがついています。
 1958年頃から世界的に袋のようなサックドレスがウェストラインをマークしないドレスが発表されて、新しさを気安さで流行しました。
「ナイトガウン」とありますが、ネグリジェと思われます。今でしたら、パジャマかネグリジェを着るのは当然のことですが、あの当時子どもが寝るときに、浴衣のような着物スタイルの寝巻きなどで、このようなお洒落なものを着ていた人はすくないと思います。

投稿者 Nurie : 15:43 | コメント (0) | トラックバック

2011年03月03日

2月の美術館便り-2

□きいち生誕97年
今月はきいちのお誕生月になります。2月18日生まれのきいちは、2005年に91歳でなくなりましたが、今年はちょうど生誕97年になります。この機会にきいちの人生を紐解いてみたいと思います。

大正3年、9人兄弟の5男として、築地に生まれました。
父親の家業は新聞社向けの紙の納入する紙問屋。父親は津軽出身で20歳で上京し、一代で蔦谷商店築きあげた人でした。本拠地の築地の店のほかに、麻布や品川に工場を構え、大磯の別荘や人形町の何百坪もある土地に加え、いくつか土地や建物を所有していたといいます。そんな裕福な環境の下で、子ども時代を過したお坊っちゃまでした。
下町に生まれ育っても、下町独特の喧騒にはなぜか溶け込むことができなかったきいちが特に好きだったことが、絵を描くことであり、人物画が好みでした。
17歳の時、帝展で見た山川秀峰の「素踊」の絵を見て画家の道に入ることを決意。文京区春日にあった川端画学校で美人画を学び、川端画学校を3年ほどで卒業すると、昭和10年、21歳で有楽町の日劇の前にあるクロッキー研究所の夜間に通い、デッサンを7~8年学びました。

○ぬりえとの出会い
昭和15年、きいちが26歳の時に、川端画学校の友人がぬりえの仕事を紹介してくれ、良く見ていた歌舞伎をテーマに「フジヲ」の名で描いてみると、たちまち人気となりました。しかし昭和16年には太平洋戦争が勃発、戦争の激化に伴い、いつしかぬりえも消えていき、昭和19年にはきいちも召集されることになりました。

○きいちのぬりえの誕生
昭和20年、終戦。兄の紹介で築地に駐留中の米軍の兵士の恋人や妻の肖像画を描く生活を1年ほどしました。きいちのバタ臭さの原点はここにあるのではないでしょうか。
昭和22年、今度は本名の「きいち」でぬりえを石川松声堂・山村山海堂と一緒に共同経営を始め、その後きいちは絵専門になり、上記の二社にぬりえを描いていきました。
昭和23年ごろからは、袋入りでぬりえを売り出し、「きいちのぬりえ」は、平均すると月に百万セット、最高時には160万セットの大人気のぬりえとなりました。
ぬりえの収入で裕福なその頃のきいちの暮らしぶりといえば、伝統的な稽古に没頭する日々であったそうです。茶道、華道、長唄、お三味線、日舞、時に日舞には力を入れ、40歳で名取となっているほどです。きいちの趣味が全てぬりえには生かされていることが分かります。

○ぬりえの衰退
昭和34年の皇太子殿下のご成婚、昭和39年の東京オリンピックの開催等で、一般家庭にテレビが普及しました。昭和35年、NHKと民放各局がテレビのカラー放送を開始し、テレビ界ではアニメーションブームが起きていきました。
この頃から、ぬりえの人気は下降線を辿り始め、昭和40年頃にはぬりえブームは去っていくことになりました。

その後時代が進めば進むほど、こころの豊かさを求めるようになり、きいちのぬりえが見直され、現在に至っています。

これからも「きいちのぬりえ」の良さを皆さまにご紹介していきたいと思います。(館)

投稿者 Nurie : 12:31 | コメント (0) | トラックバック

2011年02月15日

2月の美術館便り-2

□きいち生誕97年
今月はきいちのお誕生月になります。2月18日生まれのきいちは、2005年に91歳でなくなりましたが、今年はちょうど生誕97年になります。この機会にきいちの人生を紐解いてみたいと思います。

大正3年、9人兄弟の5男として、築地に生まれました。
父親の家業は新聞社向けの紙の納入する紙問屋。父親は津軽出身で20歳で上京し、一代で蔦谷商店築きあげた人でした。本拠地の築地の店のほかに、麻布や品川に工場を構え、大磯の別荘や人形町の何百坪もある土地に加え、いくつか土地や建物を所有していたといいます。そんな裕福な環境の下で、子ども時代を過したお坊っちゃまでした。
下町に生まれ育っても、下町独特の喧騒にはなぜか溶け込むことができなかったきいちが特に好きだったことが、絵を描くことであり、人物画が好みでした。
17歳の時、帝展で見た山川秀峰の「素踊」の絵を見て画家の道に入ることを決意。文京区春日にあった川端画学校で美人画を学び、川端画学校を3年ほどで卒業すると、昭和10年、21歳で有楽町の日劇の前にあるクロッキー研究所の夜間に通い、デッサンを7~8年学びました。

○ぬりえとの出会い
昭和15年、きいちが26歳の時に、川端画学校の友人がぬりえの仕事を紹介してくれ、良く見ていた歌舞伎をテーマに「フジヲ」の名で描いてみると、たちまち人気となりました。しかし昭和16年には太平洋戦争が勃発、戦争の激化に伴い、いつしかぬりえも消えていき、昭和19年にはきいちも召集されることになりました。

○きいちのぬりえの誕生
昭和20年、終戦。兄の紹介で築地に駐留中の米軍の兵士の恋人や妻の肖像画を描く生活を1年ほどしました。きいちのバタ臭さの原点はここにあるのではないでしょうか。
昭和22年、今度は本名の「きいち」でぬりえを石川松声堂・山村山海堂と一緒に共同経営を始め、その後きいちは絵専門になり、上記の二社にぬりえを描いていきました。
昭和23年ごろからは、袋入りでぬりえを売り出し、「きいちのぬりえ」は、平均すると月に百万セット、最高時には160万セットの大人気のぬりえとなりました。
ぬりえの収入で裕福なその頃のきいちの暮らしぶりといえば、伝統的な稽古に没頭する日々であったそうです。茶道、華道、長唄、お三味線、日舞、時に日舞には力を入れ、40歳で名取となっているほどです。きいちの趣味が全てぬりえには生かされていることが分かります。

○ぬりえの衰退
昭和34年の皇太子殿下のご成婚、昭和39年の東京オリンピックの開催等で、一般家庭にテレビが普及しました。昭和35年、NHKと民放各局がテレビのカラー放送を開始し、テレビ界ではアニメーションブームが起きていきました。
この頃から、ぬりえの人気は下降線を辿り始め、昭和40年頃にはぬりえブームは去っていくことになりました。

その後時代が進めば進むほど、こころの豊かさを求めるようになり、きいちのぬりえが見直され、現在に至っています。

これからも「きいちのぬりえ」の良さを皆さまにご紹介していきたいと思います。(館)

投稿者 Nurie : 12:31 | コメント (0) | トラックバック

2011年02月15日

2月の美術館便り-1

□東京スカイツリー
とうとう東京スカイツリーの見学をしてきました!高さは569メートル。感激しました。
昨年の美術館ニュースでは、都電荒川線から熊野前付近から見えるスカイツリーを掲載しましたが、やはりスカイツリーの下から見る実物は迫力満点のものでした。
初めて都電荒川線の熊野前付近でスカイツリーを発見したとき、「あれは、何かしら?もしかしてスカイツリー??」という印象で、テレビの映像でしかみたことがありませんでしたので、すぐにはそれとわからなかったので、実物をみてみたいと思っていました。

百聞は一見にしかず!素晴らしかったです。日本の技術力の凄さを感じました。
スカイツリーは、マスコミ報道もあり、完成前から大変な人気になり、見学者やツアーなどがありますが、昭和33年に完成した東京タワーが作られるときには、今のように騒がれたものなのでしょうか。
当時は、まだテレビも普及しておらず、今のようなことはなかったのだろうなと想像します。

きいちのぬりえにも、完成してからのものと思われる東京タワーを背景に描いたぬりえがあります。全国で販売されていたきいちのぬりえは、地方の少女たちにとって、この絵を見れば、東京には東京タワーというものが出来たのだ、ということが分かったことでしょう。

タワーの前には、チェック柄のワンピースとソックスには、当時流行していたソックスの足首のところに柄の入ったものをはいた少女がゴム風船をもって立っているという絵です。タワーの上には、沢山の風船が飛んでいる様子も描かれています。
ぬりえは子どもたちの憧れを描いたものが多いのですが、当時の流行やその時代を映すものも描いていたのです。
タワーは昭和33年の12月23日正式オープンですから、このぬりえはそのオープン当初のものか、翌34年の春のころのものと思われます。子どもたちの喜んでいる姿が想像できますね。

投稿者 Nurie : 14:34 | コメント (0) | トラックバック

2011年02月11日

1月の美術館便り

新しい年を迎え、夢や抱負にあふれていることと存じます。
今年もぬりえ美術館では、皆様の顔や心が緩んで、温かくなるようにぬりえを楽しんでいただきたいと思っております。今年もよろしくお願いいたします。

□ぬりえでダイエット
昨年いただいたアンケートの中に、"ぬりえで10kgダイエットしました!"というものがございました。大変な報告だと思います。
ぬりえをしているときの、一番の効果は、「すぐに集中できる」ということが挙げられます。
実にこれは脳を調べたときにもでていた効果なんですが、その集中をダイエットにつなげられた訳です。
この方は間食をしたくなったときにぬりをしていたら、10kgもやせたそうなのです。食べたくなったらぬりえすると、ぬりえに集中できるので、食べ物に手がのびることもないですし、食べたいということを忘れることができるからだと考えます。このすばらしい成果を「ためしてガッテン」にでもお知らせしたいと思うほどです。
ぬりえは脳の活性化に役に立つと言われて、老人保健施設など様々な場所で高齢者向けにぬりえが使われていますが、また新しいぬりえの使い方の発見となりました。
やせたいと願っている方は、ぜひぬりえにトライしてみてはいかがでしょうか。

□ぬりえの調査
昨年5月に「ぬりえの不思議」という本を株式会社ぎょうせいという出版社から発売させていただきました。日本、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、中国でぬりえがどのようになされているのかを報告しています。
子どもたちはぬりえが大好きですが、それぞれの国の歴史や文化によって、教育現場でぬりえをどのように取り扱っているかは違いがあります。
他人との違いを理解させるためにぬりえをするというニューヨークの幼稚園。様々な人種が集まり、クラスアメリカでは、違うということが前提であり、それを認めていく教育が小さい子どもの頃からなされていることを実感させられました。
さらに使い方としては、自分で鉛筆で絵を描いて、それに色づけするということをニューヨークもサンフランシスコの幼稚園でもしていました。この使い方もアメリカ独自の使い方で、他の国ではまた見たことがありません。
ロシアでは、かなり積極的にぬりえをしています。モスクワのかなり余裕のある幼稚園では、一人に一冊のぬりえ本をつかって、ぬりえをしていますが、小さい園児が色などを間違うと先生が指導をされていますし、絵やダンスなど子どもの才能を伸ばす場所が様々にあり、無料や教材費程度で学ぶことができるようになっています。また図書館でもぬりえの本がおかれ、見るだけでなく、塗ってもいいのだそうで、これも大変珍しいことでした。
多くの図書館では、"図書館は本を読むところであるから"という理由で、ぬりえの本を収集していない図書館が多いですし、まして置いてある本に色をつけるということは、他の人がつかえなくなるので、塗ることは禁止になっていると思います。

ドイツでは、残念なことにぬりえに対しては積極的ではありませんでした。母親が自分の子供の頃にぬりえをしていないと、子どものぬりえに対しても余り関心がなくなるということも体験しました。しかし、マンダラのぬりえが1990年代にでてきて、マンダラは癒しということで
子どもたちに塗らせていました。マンダラの本をみるとぬりえとどこが違うのかと思いますが、ドイツの方からみると分類というか範疇が違うということでぬりえとは分けて考えているようです。
 
フランスでは、ドイツとは反対に積極的にぬりえが使われていて、とくに年少の園児には有効だと活用されています。鉛筆、クレヨン、マーカーなどの画材の使い分けなども教えられています。フランスは歴史もあり、芸術の国ですから、小さいときから美術館なども見学し、美術教育がしっかりなされていると思いました。
フランスを始め欧米では、アルファベットを使いますが、アルファベットは流れるような文字ですから筆圧がいりません。それに比較して日本語は、筆圧が必要な文字のようで、日本人は2,3歳児でも十分色鉛筆でも色を出すことができますが、欧米の子どもたちは指の力がないため、色鉛筆では色がでません。そのため、ちょっと触っただけで色がでるマーカーをよく使っています。日本では、マーカーでぬりえというのは余り見かけませんね。

中国でも幼稚園でぬりえがされています。ぬりえは絵画に入る前の入り口という捕らえ方で、ぬりえをしています。一人っ子政策の中国では親たちが子どもの教育に力をいれているので、幼稚園の授業のほかに絵画、スポーツ、音楽などの課外授業も盛んになされています。中国は日本と同じように手先が器用ですから、2歳、3歳児でも上手に塗ったり、折り紙を折ったりすることができます。お箸をつかう国の共通点かと思いました。

それぞれの国でどのようにぬりえをしているのか、今年も継続して、調査をしていきたいと思っております。(館)

投稿者 Nurie : 15:07 | コメント (0) | トラックバック

2011年01月09日

12月の美術館便り

荒川区功労者を受賞

11月25日、荒川区よりぬりえ美術館の活動に対しまして、荒川区功労者として表彰をされましたので、ご報告申し上げます。

ぬりえ美術館は、2002年に開館し、今年で八年目を迎えました。昭和20~30年代の人気ぬりえ作家、蔦谷喜一の姪として、「きいちのぬりえ」を日本のぬりえ文化として残し、広く海外にも紹介すると共に、海外のぬりえの活用状況を調査して、発表をしてきました。
そのぬりえ美術館の活動が荒川区の芸術文化向上に多大な貢献をしたと評価をいただき、「活動賞」を受賞いたしました。
これも偏に皆様方のご支援の賜物と、大変有難く、心より感謝申し上げます。
今回の表彰が更なる地域の文化交流を産み、世界を結ぶ契機となるよう、これからも充実した活動に努めて参りたいと存じます。

今後とも皆様方のご支援、ご協力をよろしくお願い申し上げます。

平成22年度の活動報告
1月 月刊「クロワッサン」女の新聞の介護蘭
 "昭和の女の子の心と脳を甘く懐かしくノックする「きいちのぬりえ」の魅力"
2月荒川区町屋文化センターにて「ぬりえ美術館ニューヨーク展」開催
3月企画展「ぬりえに見る昭和のノスタルジー」(3月~5月)
3月荒川区産業展「ぬりえの世界展」出展
3月荒川区自民党区議団チェジュ市・ソウル市視察の際に、ソウル陸谷三星療養病院 に脳の活性化の一助にきいちのぬりえを寄贈。
4月12日(月)テレビ東京「ものスタMOVE!」「町屋ぶらり」で美術館紹介
5月「ぬりえの不思議」(株)ぎょうせいより出版
6月「散歩の達人」6月号北千住・町屋特集
6月「東京都交通局・NANNKAI・阪堺電車」沿線ガイドに掲載
8月企画展「昭和40年代のぬりえ展」(8月~10月)
8月東京新聞ぬりえコンテスト開催(8/27~9/22)
 103通の応募あり、優秀作品16点を10月から12月まで展示。
9月日経23+「小さな散歩道」に掲載
10月パリにて「日本のぬりえ展」開催
11月「東京ミュージアムグッズ図鑑」(株式会社TOKIMEKOパブリッシング)にぬりえ美術館掲載
11月FM江戸川生出演
11月春日部ロビンソン百貨店内本屋にてきいちの写真展ならびにぬりえ展示

今年は上記のような活動をし、また様々な分野のマスコミにも取り上げていただきました。ぬりえの魅力について、まだまだ発信がしきれていないと満足はしておりません。
これからも様々な形でぬりえについて、情報発信をしていきたいと思っております。

冬になると、炬燵に入りみかんを食べながら、ぬりえをして過ごすということがあったと思いますが、久しぶりに冬の寒い一日には、きいちのぬりえを出して、机で塗ってみるという冬の過ごし方はいかがでしょうか? きっとのんびり、そして心温かくなることができるのではないでしょうか?
どうぞ良いお年をお迎えください。(館)  

投稿者 Nurie : 16:28 | コメント (0) | トラックバック

2010年12月04日

11月の美術館便り

10月に無事海外でのぬりえ展が盛会のうちに終了いたしました。今回はぬりえ展の追加のご報告とパリの雑感をご報告したいと思います。

パリのぬりえ展の感想
ホームページでもご報告をしていますので、ご参照していただきたいと思いますが、
ぬりえ展の感想をご紹介したいと思います。
2度目のパリですが、パリの方の感想が日本の方とほとんど同じという点が大変うれしいことです。繊細な部分を大変よく理解してくださっています。
●とてもきれいでなつかしい!! Noriko
●すごいです! きれいでうす! ありがとうございました。レア
●子ども時代の香りを穂コンでくれました。思いがけないノスタルジックな時をありがとうございます。ナタリー
●とても綺麗に描かれていて、色も素敵でした。
●チロリン村ってシュールだなと思いました。加藤 梨華

●とても綺麗な展覧会です!
●これは詩(ポエジー)ですね!
●この展覧会をみせて頂いて、感謝します。ありがとうございました。メリーサ
●娘たちがとても喜んでおりました。ありがとうございました。

パリの方も、きいちのぬりえを楽しんでくださったようです。

パリ雑感
世界的に異常気象なのでしょうか、9日に到着したときには、昼間は夏日状態。パリの人々は、半袖やノースリーブ姿で日向ぼっこを楽しんでいました。その後、16日頃から急に寒くなり、ダウンコートにマフラー、手袋という冬支度になりました。

今年はフランスの年金問題に反対するストライキやデモがオープニングがあった
12日から始まり、列車のスト、車の渋滞があり、地下鉄も大混雑でした。オープニングもワークショップもその影響を受けてしまいました。

最近日本では、ストライキも少なくデモ行進も余り見かけなくなりましたが、パリでは、高校生が授業をボイコットして地下鉄の駅構内で気勢を上げたり、サンジェルマンデプレ付近で旗を振り、大きな声を挙げているのを見ました。高校生のデモには大変驚きました。その後、年金の改革法案は元老院を通過したようです。

何故パリが好き?
パリでは、日本とは勝手が違うことがあり、どうしてそういう対応になるかしらと思うこともしばしばありますが、小さいことでも、「ああ、これこそがパリ!」というものに出会うと、やはりパリは素晴らしいと許してしまいます。
今回の「これがパリ!」の1つ目は、花屋さんの紫色の微妙な色の配色のあじさいとアザミを見たとき。どうして、このような色の組み合わせができるのかしらと感激。
2つ目は、同じく花屋さんのローズ色のバラでした。その色と花の開き加減にうっとり。
3つ目は、サンジェルマンの有名な傘屋さん「アレクサンドラ・ソジュフェール、(創業1834年)」で見た、ミンクが付いた傘でした。雨が降ったときに使う傘なのに、ミンク!!??
「いつ使うのかしら?」と聞きたくなりますが、「使わなくてもいい、もっているだけで美しい傘」というものです。こういうものを考えるアイデアに、「パリって、素敵!」とパリに悩殺されてしまいます。
こういうアイデアや色合いは、環境と伝統なのだと思います。回りにいつも優れたものがあり、それらをみて育った人は、おのずと美に対する完成が培われて、開いていくのではないかと考えます。

パリで今流行しているもの
それは、「こけし」です。
ある文房具屋さんのウィンドーが、こけしだらけでした。こけしとその絵を使った文房具の展開でした。子どもだけでなく、ワークショップに参加した30~40代の女性もその絵が描かれたバッグをもっていましたので、大人にも人気のようです。
パリは日本のアニメや漫画が人気ですし、コスプレのイベント(ジャパンエキスポ)も開催され、年々参加者が増えて16万人、今年は18万人を目標にするほど集まるそうです。
このような日本熱から生まれた「こけし」なのでしょう。 不思議と思いながら、"日本的"が人気で嬉しいと思います。

毎回パリに行くたびに、「ああ、これがパリか」と頭を悩ませつつ、「さすがパリと感激させられる」。パリの魅力に今年も魅了されたのでした。(館)

投稿者 Nurie : 17:18 | コメント (0) | トラックバック

2010年11月02日

ぬりえ美術館便り 8月~10月合併号

「昭和40年代のぬりえ展」
22年月8月7日(土)~10月31日(日)
 
ぬりえ美術館は、平成14年の8月に開館いたしまして、今年で8年目を迎えることができました。これもひとえに皆様方のご支援の賜物と感謝いたしております。

ぬりえ美術館の活動といたしましては、美術館のぬりえ展示を中心に、様々な形でぬりえに関する情報を発信していきたいと思っております。
その一つとして、今年5月に、「ぬりえの不思議」を株式会社ぎょうせいより出版いたしました。美術教育、 幼児教育、発達心理、脳科学の専門の先生方との共著でございますが、海外でのぬりえの現状を書かせていただきました。日本のぬりえの状況に新しい認識が広がっていくことを願っております。
また10月13日よりパリのエスパスベルタンポアレにて、ぬりえ展を開催する予定です。パリでの開催は2度目となります。今回は、ぬりえのワークショップを開催し、日本のぬりえを楽しんでいただきます。
今後ともぬりえ美術館にご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

平成22年の8月からの企画展では、「昭和40年代のぬりえ展」を開催いたします。
日頃は昭和20年~30年代のきいちのぬりえを中心にご紹介していますが、この度初めて、きいち時代以降のぬりえをご紹介いたします。
ちょうど今NHKの朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が放映されていますが、その時代のぬりえになります。
どうぞお楽しみください。

時代背景
昭和31年「週刊新潮」の創刊をきっかけに大人週刊誌ブームが起きる。サラリーマンたちの時間の隙間にはまり込むことで、週刊誌は雑誌メディアの中心へとあっという間におさまった。前後して「漫画読本」のヒットをきっかけにした大人漫画ブームも起きており、都市生活者の中によりスピード感のある娯楽が求められていたことがわかる。テレビ放送はジワジワと受信契約を増加させ、生活そのものが週単位への変化しだしていた。子ども雑誌がこうした状況に敏感に反応したのは当然だった。大人の世界より三年送れて、初めて子ども向け週刊誌「少年マガジン」「少年サンデー」は創刊されることになる。記事・読み物・漫画で構成されたそれは、週刊誌の特性をまだ捕まえていなかったし、とまどいも見られた。・・・・・・・・・
週刊誌そのものは隆盛期の中にあった月刊誌には部数的に遠く及ばなかった。およそ三、四年は、十万部前後だったといわれている。
しかし、テレビ時代の進行とともに、子どもたちの生活も週ごとのものに変化していった。週刊誌は子どもたちのブームを取り入れ、またブームを作ることで少しずつ気の置けないものへと変化していく。・・・・・
テレビの刺激の前に、月間マンガ誌は娯楽の王座をすべり落ち始めていたのだ。
(別冊太陽 少年マンガの世界Ⅱより)


昭和34年の皇太子様のご成婚、昭和39年の東京オリンピックという二大イベントを機会に、テレビを購入する家庭が増え、一般家庭にテレビが入ることにより、大人はもとより子どもたちの生活が変化していくことになります。
ラジオであれば、ラジオを聴きながら手を動かし、ぬりえをすることができますが、テレビとなりますと、見ながらぬりえをするという訳にもいきません。新しい文化が入ってくることにより、きいち時代のぬりえを始め、紙芝居、貸本漫画、映画などが衰退していきました。新しい文化の前には「古臭い!」というものに写ったのでしょう。
 
しかしぬりえは昭和40年代にも、現代にも存在して、子どもたちが遊んでいます。昭和40年代のぬりえとは、どのようなものであったのでしょう。
 大きく分けて、4つほどに分類ができると思います。
1.キャラクターぬりえ: マンガ、テレビのキャラクターのぬりえ本
2.童話、物語
3.ファッション系
4.ノート

キャラクターぬりえ現在のぬりえにつづくキャラクターのぬりえです。テレビで放映されていれば、その主人公たちに共感を覚えていくものでしょう。日本のみならず欧米、東南アジアでもキャラクターぬりえは人気です。遠いギリシャで、ドラゴンボールZのぬりえ本を見つけましたが、ポケモン、ドラえもんなどテレビアニメから人気となったキャラクターがぬりえになっています。
   

魔女っ子メグちゃん』は、1974年4月1日から1975年9月29日までNET日本教育テレビ(現・テレビ朝日)系列にて放送されたテレビアニメ。『魔法使いサリー』、『ひみつのアッコちゃん』に続く「東映魔女っ子シリーズ」の第3作である。

『魔法のマコちゃん』(まほうのマコちゃん)は、1970年11月2日~1971年9月27日の毎週月曜日19時~19時30分にNET(現・テレビ朝日)系列にて全48話が放送された日本のテレビアニメである。

『柔道讃歌』(じゅうどうさんか)梶原一騎原作、貝塚ひろし画の漫画作品。
週刊少年サンデー1972年21号~1975年14号まで連載された。またそれを原作
としたテレビアニメで、柔道を主題にしたスポーツ漫画です。
アニメ版 は、1974年4月1日~9月30日まで日本テレビ系で放送された。


童話・物語
シンデレラ、白雪姫、アンデルセンなどの童話や物語のぬりえ本です。昭和10年代にも「青い鳥」のぬりえが数多くみられましたが、塗りながら童話や物語を覚えていくぬりえです。
現在ではディズニーのアニメ映画のぬりえに続いていっているぬりえではないでしょうか。ディズニーのぬりえは、日本ばかりでなく、海外のどこの国でも見られます。ロシアの幼稚園でも、ディズニーのぬりえを幼稚園児が楽しんでいました。
日本のアニメキャラクターとディズニーはぬりえの双璧ではないでしょうか。
      

ファッション系
高度経済成長期になり日本経済も復活してきて、テレビドラマとしてアメリカのドラマが豊かさの象徴のような形でテレビを通じて日本社会に入ってきます。子どもたちの憧れは当然のようにアメリカ文化に向けられることになります。
きいち時代からぬりえは子どもたちの憧れを描いたものでしたが、この時代の少女に提案する「憧れ」がアメリカの生活から生まれてくるような素敵なファッションであったのでしょう。
経済も発展してきて、既製服の良いものが生まれてきて、ファッションにも関心が持てるようになり、どのようなファッションが流行しているのか、自分の好きなもの、
着てみたいファッションはどれか、ぬりえを塗りながらいろいろ想像することができたのではないでしょうか?
      

ノート系
ぬりえ専門のノートではなく、ノートにぬりえやきせかえがついたものです。ノートは罫線のない白紙タイプで、自由な使い道ができるようになっています。ぬりえは1ページから2ページほどで、裏表紙はきせかえやカード等になっています。
ぬりえで遊んでいた子どもたちが大きくなって、学校に行くようになり、学校でも使えるように企画されたノートではないでしょうか。表紙の絵柄でノートを選んだり、
勉強の合間にぬりえをするなどして楽しんだものだと思われます。
      

昭和40年代のぬりえには、漫画家さんが描いたものがでてきます。あたらしいぬりえの作り方の特徴であると思います。又きいち時代には男性作家が描いていたものが、キャラクターぬりえ以外のぬりえに、女性の方が描くようになっているのも特徴のひとつであります。

さあ、この中に見覚えのあるぬりえ本があったでしょうか?
8月~10月まで開催の企画展「昭和40年代のぬりえ展」をどうぞお楽しみください。                                

投稿者 Nurie : 12:24 | コメント (0) | トラックバック

2010年08月10日

7月の美術館便り

今年の梅雨は、地区によってはゲリラ豪雨のようになったりして、大変不安定な
天候です。梅雨はもうしばらく続きますが、梅雨の晴れ間を利用して、健康的に過ごしていきたいものです。

■チベット曼荼羅の世界
7月2日に相田みつを美術館の第2ホールで開催されていました「チベット曼荼羅の世界」展を見てきました。
曼荼羅をどのように描かれているのか知りたかったことと、先日DVDで「セブンイヤーズインチベット」を見ていたことから、チベットのことにも興味があったことから、見学をしてきました。
今回の曼荼羅は、「ダライ・ラマ法王生誕75年 祝賀特別記念行事「チベット砂曼荼羅の世界」と題して、ダライ・ラマ法王のご長寿と世界平和を願い、タシルンポ寺院の僧侶たちが南インドから来日し、チベット仏教美術の頂点「砂曼荼羅」を公開制作したものでした。

会場内にあります製作現場には、ダライラマを祭った祭壇を前に、僧侶4人が曼荼羅を制作中でした。制作は6月29日から7月4日までということでしたので、ほぼ完成に近い形でした。丸い円を4分割して4人で制作を担当していました。
曼荼羅は下図のようなものが描かれているものではなく、描き始めだけは、コンパスのようなものを使うようですが、その後はひたすら色砂を入れた金属の棒を静かに擦って色砂を棒の先から出して曼荼羅の一つ、一つの絵を描いていくというものでした。
その現場は、大変静謐な世界でした。

案内状にある曼荼羅についての解説によりますと、
・・・~チベット仏教における大日如来の砂曼荼羅について~・・・・
大日如来を教主とする「大日経」は、弘法大師空海が日本に伝来した密教のひとつの柱であり、チベットの仏教では密教経典の四類のカテゴリーのうち二番目の行タントラの主要な経典とみなされています。
チベット密教における「大日経」の相承はインドの学者ジターリから、チベットのバリ・ロツア―ワ伝わり、それから何代かをへて現在のダライ・ラマ法王にまでその伝統は継続しています。
チベット仏教では様々な形で曼荼羅を作成しますが、中でももっとも正式な曼荼羅の描き方は、各種の色砂を組み合わせて描くこの砂曼荼羅です。大日曼荼羅はより多くのの人が見ることにより、多くの利益をもたらすものと言われています。
この曼荼羅の本質は、一切の仏たちの「すべての生きとし生けるものの苦しみを取り除きたい」という慈悲の心(大悲)と「空を理解する知恵」(空)の二つであるが故に、名「大悲空胎蔵曼荼羅」と呼ばれています。
そして「大日経」には、「この曼荼羅を見る人は、無限の過去から積んできたあらゆる悪業が浄化され、地獄、餓鬼、畜生などの悪趣に生まれ変わる罪障が浄化される」と説かれています。是非この素晴らしい機会に、大日曼荼羅を参拝されることをおすすめします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私自身は描いているのではなく、描いている僧侶の手元を見ていたのですが、制作している僧侶と同様に、集中している自分がいることに気がつきました。
曼荼羅の解説の中「大日曼荼羅はより多くの人が見ることにより、多くの利益をもたらすものと言われています」とありますが、そのようなものであるとは知らずに見に行ったのですが、その大きな力によって惹きつけられ、集中をさせられてしまったのではないでしょうか。

今回は本物の大日曼荼羅を見ましたが、ぬりえの世界でも曼荼羅、マンダラのぬりえがあります。日本では、春秋社等から曼荼羅のぬりえが出版されています。まさにこのチベットの曼荼羅のような絵がぬりえになっています。
ところが海外では、特にドイツ、フランスなどで見かけるマンダラは、子どもたちが塗るものとして1990年代から流行しているそうですが、チベットの曼荼羅とは全く別物のデザインです。妖精やお花、海賊、月や星など子どもたちが喜びそうな絵を丸の中に左右対称に描いたものをマンダラと呼んでいます。その目的は「癒し」と謂われています。特にドイツでは、いわゆるぬりえは余り歓迎されずに塗られていませんが、このマンダラだけは「癒し」だからという理由で、幼稚園でが子どもたちがマンダラを楽しんでいます。
目的はさて置き、ドイツやフランスのマンダラは、とても可愛らしいデザインの絵で、
このようなぬりえであれば、日本の子どもたちも喜んで塗るだろうなと思います。

曼荼羅に集中し、心の中がすっきり、清々しい気持ちになることを体験した1日でした。(館)

投稿者 Nurie : 11:38 | コメント (0) | トラックバック

2010年07月07日

6月の美術館便り

ぬりえ美術館のある荒川区町屋では、都電沿線の薔薇が5月の半ばから咲き誇り、
6月も引き続き楽しめそうです。そして荒川自然公園では、カブト虫やオオムラサキの蝶の観察ができる時期になりました。荒川自然公園内も緑が豊富ですので、一度足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。下車駅は、都電荒川線の「荒川二丁目」です。

■「ぬりえの不思議」発行 
株式会社ぎょうせいより、―「ぬりえの不思議」こころと体の発達に見るその力―が5月に発行されました。
幼児教育・美術教育、発達心理、脳科学分野の研究者の方に、私、ぬりえ文化研究家を加えた4名の執筆者が、それぞれの専門分野から「知られざるぬりえの世界」に迫るというぬりえの専門書でございます。
内容としては、
1.おもに1歳~6歳の乳幼児の発達段階に応じた絵柄の選び方、
ぬりえを応用した表現遊びのアイデア、
筆記具操作(手指の運動機能)の発達、遊戯療法、脳波測定など、
多彩な切り口で、ぬりえの魅力と効用、心身の発達との関係をわかりやすくご紹介してます。
2.ぬりえ美術館関連では、現在も人気の「きいちのぬりえ」をカラー口絵等で掲載するほか、今まで私が調査をしてきました海外の幼稚園・保育所におけるぬりえ活用事情などや、ぬりえにまつわる珍しい話題も書かせていただきました。
3.さらに今話題の"ぬりえと脳"の関係についても、脳の関連部位や効果などが
詳しく書かれています。

ぬりえ美術館では、今まで3冊のぬりえ関連の本を発行しております。そこに何度も書きましたが、ぬりえは誰にでも知られているものにもかかわらず、ぬりえの研究はなされてきませんでした。
「ぬりえの不思議」の序に、尾崎康子先生が、その経緯を書かれています。
「保育や教育の現場では、ぬりえは、画一的な作業であり、創造性を欠くものとして、長らく、保育や教育の中で正当な位置づけがなされてきませんでした。保育者や教育者は、ぬりえは子どもの手慰みであるという発想から抜け出ることができないままでいます。
・・・・想像性と創造力を育むために、子どもに真っ白なキャンバスを与えることをよしとしてきました。しかし、創造性は、子ども自らが無から作り上げるものでしょうか。子どもは、周りの人的物的環境から多くの影響を受けながら発達していく存在であり、人とのかかわりの中で様々な能力を習得していきます。
・・・白いキャンバスを前にイメージや描画技術を持たない幼児は、何をどのように描いたらよいか戸惑うことが見られます。そのような時には、ぬりえでイメージを与えてあげると、容易にイメージの世界を表現する体験ができます。
・・・・ぬりえは、創造性の枠を固定するのではなく、創造の世界への導入になると考えられます。」

「保育者や教育者が、ぬりえを評価していないのは仕方がないことかもしれません。なぜなら、これまでぬりえの研究が世の中に広まることがほとんどなかったからです。そこで我々は、本邦で初めてのぬりえの学際的な専門書を刊行しました。・・・・
本書を一読して、ぬりえの秘密と新たな世界を知って、教育や保育の活動の中に正当に位置づけてもらうことが、著者一同の、そして何よりもぬりえが大好きな子どもたちの願いです。」

従来まで、保育や美術教育の先生方から研究書、専門書が出されていませんでした。
ぬりえ美術館では、ぬりえの魅力、ぬりえの効果などを考えてみますと、「創造性のないもの」として否定されたままでいいとは思えませんでした。そこで海外での教育現場でぬりえがどのように認識されているのか、効果をどのように捉えているのかなど、調査をして、発表をしてきました。
そして、今年この「ぬりえの不思議」で専門者4名によるぬりえの専門書が誕生することとなりました。
海外では、積極的にぬりえを教育プログラムに採り入れている国があります。
今後日本でどのようにぬりえが捉えられ、考えられていくのか、ぬりえを考える一つの契機になってくれればと思います。
 
どうかこれを機会に、「ぬりえの不思議」をご一読していただければ幸いです。
尚、本は、ぬりえ美術館にも置いてございます。(館)

投稿者 Nurie : 16:18 | コメント (0) | トラックバック

2010年06月06日

3月~5月 ぬりえ美術館便り合併号(2)

テレビ時代
テレビが始まってもテレビを購入できる家はまだまだ数すくなく、街頭テレビのあとは、
テレビを持っている人の家に行って、テレビを見せてもらう時代が次に来ました。私は町の電気屋さんがテレビを購入して、その家がたまたま同級生ということがあり、その電気屋さんの居間におかれたテレビを見た経験があります。子どもから大人まで、座敷一杯になるほど人が集まっていた記憶があります。大変テレビが貴重な時代でした。
その番組といえば、子ども番組としては海外のテレビドラマシリーズやNHKの子供向け番組があげられます。今回は、NHKの「チロリン村とくるみの木」「まほうのじゅうたん」「ハリマオ」「スーパーマン」などのぬりえを展示しています。

『チロリン村とくるみの木』は、NHKで1956(昭和31)年4月16日から1964年(昭和39)4月3日まで放送されていた人形劇作品で、1963(昭和38)年4月1日放送の第558回よりカラー放送。

タマネギのトンペイやピーナッツのピー子、くるみのクル子など、主人公が野菜や果物たちというユニークな設定で人気を集めた人形劇です。素朴なヤサイ族と都会的なクダモノ族という対比に、憎めない悪役の熊やいたちを絡ませ、チロリン村の村作りを楽しく描いた作品でした。
キャスト(声の出演者)は、黒柳徹子(ピーナッツのピー子)、横山道代(タマネギのトン平)、一龍齋貞鳳(イタチのプー助)、熊倉一雄(クルミのがんこじいさん)、藤村有弘(オンマのホワイト)、若水八重子(りんごのおはなちゃん…くるみ家の女中)等。

「魔法のじゅうたん」は、同じくNHKで1961(昭和36)年4月~1963年10月放送まで放送された番組でした。アニメーションや、当時の最新特撮技術であったクロマキーを駆使した映像で子供たちに大きな夢を与えた番組。
アラビア風の衣装を着けた黒柳徹子と、ターバンをかぶってガウンを羽織った小学生2人が、魔法のじゅうたんに乗ると、場面は人形アニメーションに切り替わり、じゅうたんがNHKの屋上から飛び立って東京の市街を飛行する場面になりました。
空とぶじゅうたんというとアラビアのイメージがあるので、そのアラビア風の衣装の黒柳徹子さんが子ども達と一緒に空を飛んでいくというところが面白い番組でした。

「アベック歌合戦」「♪あなたのお名前なんてえの」
この番組も人気でしたが、ぬりえにまで描かれていました。
「アベック歌合戦」を、1966(昭和41年)年によみうりテレビがテレビ化して日本テレビ系全国ネットで放映されました。
出場者がリズムに乗って舞台に出て、司会のトニー・谷が「♪あなたのお名前なんてえの」と出場者に聞き、出場者はリズムに乗って答える、というスタイルの番組でした。トニー・谷はソロバンをはじきながらの話術が芸であったが、そろばんの代わりに拍子木を両手に持ってリズムを刻んでいたものです。

美智子様のぬりえ
昭和34年(1959年)のご成婚に日本中が沸きました。ぬりえにも美智子様のぬりえというものが誕生をしていたのですね。
ミッチーブームといわれ、白いカチューシャや襟巻きが流行をしました。大人の世界でさえ、流行を巻き起こしたのですから、子どもの世界にぬりえがあっても不思議ではないと思います。テニスコートの美智子様やご成婚時の正装のお姿などが描かれていました。

風俗
きいちのぬりえは毎月2社から各4袋、合計8袋新発売されていました。毎月、その時代やその月に相応しいぬりえを描いていました。昭和の風俗もぬりえの中に描かれることになります。
日常的な生活にまつわるものは絵の題材としては取り上げられないことが多いかとおもいますが、ぬりえのことですから日常的なものが数多く残っています。
銭湯、美容院(パーマ屋さん)、流行のペット類など、その時の様子が分かります。
  
お風呂屋さんの脱衣籠やパーマ屋さんのドライヤーのお釜(大きなお釜のようなドライヤーの中に頭をいれて、髪を乾かすもの)などが描かれています。
現在もペットブームで変わった種類の犬や猫などが飼われていますが、昭和30年代を代表するペットといえば、白い毛並みの「スピッツ」でした。その他に、インコやカナリヤなどの小鳥も人気でした。

電化製品など
1950年代後半、「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」の家電3品目が『三種の神器』として喧伝されました。
これら3品目の家電は、努力すれば手が届く夢の商品であり、新しい生活の象徴だったのです。テレビ本放送開始は1953年で、それ以前は電気釜(炊飯器)、あるいは掃除機が代わりに入っていたこともあるそうです。
これらのうち最も早く普及したのは白黒テレビで、逆に一番遅かったのは冷蔵庫だったそうです。田舎の家には、冷蔵庫の前の時代には、氷をいれて冷やす冷蔵庫があったものです。
高度成長時代にはいり、様々な電気製品が普及していきました。ステレオ、8ミリカメラ、公衆電話など、当時の製品がぬりえに描かれています。
    
昭和の30年代が"こころの原風景"としてよく取り上げられますが、現代は直接的な触合い少なくなっているために、時に問題が起きているので、触合いが多く会った昭和30年代が懐かしく思われるからではないかと思います。
電化製品が増えて便利になった分だけ、体が退化し、こころも退化しているのではないでしょうか?
メールがない時代には、手書きの手紙をだしました。その人の筆跡からその人となり、またその時のこころの状態まで読み取れたかもしれませんが、現在はパソコンや携帯電話からメールで済んでしまう時代です。文字は一律で、そこに送った人の心の状態を知ることができなくなりました。又メールを送りなれると、電話をかけるということも遠慮するというか、しにくくなります。メールでしたら、相手の都合のよい時間に見てもらえますが、電話はその人の状況がわからずに掛かってくるものですから、その人の時間にかってにお邪魔することにもなるからです。
努めて、コミュニケーションをとる、話しをする、コンタクトをするということが大事なときになってきていると思います。

今回の「昭和のノスタルジー」の展示から、そのきっかけをつかんでいただければと思います。(館)

投稿者 Nurie : 18:29 | コメント (0) | トラックバック

2010年03月11日

3月~5月 ぬりえ美術館便り合併号(1)

平成22年春の企画展
「ぬりえに見る昭和のノスタルジー」
22年月3日6日(土)~5月30日(日)開催

平成22年の春の企画展では、「ぬりえに見る昭和のノスタルジー」と題しまして昭和30年代に人気であった映画スターやテレビ番組などを始め、日本人のこころのふるさとである昭和30年代の昭和のノスタルジーを感じさせるぬりえを展示いたします  

映画スター
このところ日本映画が人気を盛りかえしておりますが、昭和の庶民の娯楽といえば映画であり、映画の黄金時代といわれておりました。
昭和33年映画人口は史上最高の11億2745万人を記録し、昭和35年には映画関数が史上最高の7457館を記録しています。11億2745万人という数字は、日本人一人当たり年間10本以上の映画を見ていた計算になり、いかに人々の楽しみが映画であったかがわかります。

映画黄金時代をリードしたのは東映映画の時代劇映画(チャンバラ映画)で、特に東映は「2本立て」というシステムでリード役であったそうですが、そのためでしょうか、あの当時男の子が家にでもいようものなら、「外でチャンバラでもしておいで!」と親たちから言われ、みんな棒を刀にみたててチャンバラごっこをしていたものです。
東映の時代劇映画からは、大川橋蔵、東千代之介、市川歌右衛門、嵐寛寿郎、日活の石原裕次郎、大映の長谷川一夫、市川雷蔵などの男性俳優のぬりえを展示しております。女性スターには、美空ひばり、松島トモ子、浅丘ルリ子を展示しています。

私が住んでいた埼玉の田舎の町には、映画館が1軒ありました。たまたま映画館がすぐ近くに住んでおり、招待券がもらえたことから、子どもながらに頻繁に映画を見ることができました。子どもには東映のチャンバラが面白かったのでしょう、ファンになった俳優さんは、東映のチャンバラスターの中村錦之介、次に大川橋蔵、そして最後が大映の市川雷蔵でした。田舎のことですから、3本立てでチャンバラを見て、映画に夢中になっていたものです。
    
長谷川一夫 (1908年2月27日- 1984年4月6日)
戦前戦後の長きに亘って日本の二枚目俳優の代名詞として大スターに君臨した。
石原裕次郎 (1934年12月28日 - 1987年7月17日)
日本の俳優・歌手、石原軍団初代総帥。1956年に、『太陽の季節』の映画版でデビューした。昭和の太陽(日本人(中)が最も愛した(された)男)と称される。
市川雷蔵(1931年8月29日 - 1969年7月17日)
1958年『炎上』(1958年8月19日公開)(原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。
雷蔵はトップスターとしての地位を確立した。1963年に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。

スポーツ選手
巨人・大鵬・卵焼きといわれ、昭和30年代は野球や相撲などのスポーツが人気でした。昭和33年に入団した長島選手を始め、初代若乃花、プロレスの力道山らが活躍をしていました。
前述で、映画の黄金時代とお伝えしましたが、昭和28年にテレビ時代の幕が開きました。
それにともない街頭にテレビが設置され、プロレスなどが始まると人々が街頭テレビに集まってきて番組をみたものです。
東京では、駅前や公園、商店街などにテレビが設置されたようです。私の田舎でも、駅前に設置されていました。大人が群がり、子どもの私には見えないので、肩車をしてもらって、駅前テレビでプロレスなどを見た覚えがあります。
    
長島茂雄(1936年2月20日 - )
千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身のプロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。現役時代のポジションは内野手。右投右打。1958年 読売ジャイアンツ入団。2001年より、株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督。
初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、(1928年3月16日 ~ )
大相撲の力士、第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋、1953年に花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。土俵の鬼と呼ばれた。
第65代横綱・貴乃花、第66代横綱・3代若乃花は甥にあたる。
力道山(りきどうざん) (1924年11月14日~ 1963年12月15日)
日本のプロレスラー。大相撲の力士出身。第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。
シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップ(アメリカではジュードーチョップと呼ばれていた)でばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始されたことも重なり日本中のヒーローとなる。
国民的ヒーローとして熱狂的な人気を得たという点ではスポーツに限らず後にも先にもこれだけの存在はいない。

投稿者 Nurie : 18:24 | コメント (0) | トラックバック

2010年03月11日

2月の美術館便り

2月は一番寒い時期でもあり、春の息吹も感じられるようになる季節ですね。
中庭にウコン桜の木がありますが、葉はなくても芽が少しづつ膨らんでいますし、花壇でも土を押しのけ青々とした芽が伸び始めているものもあります。春に咲くために、準備をしているということがひしひしと感じられます。
さあ、春はもうすぐですよ。

■昭和30年代人気
1月の美術館便りに、昭和30年代人気をとりあげましたが、今月もお伝えしたいと思います。
はとバスが1日限定のツアーで、昭和の名曲を一緒に歌って東京を一めぐりするツアーを発表しました。東京の各地区にちなんだ「有楽町で逢いましょう」や「神田川」といった歌を流し、東京の街を走る「あの歌この歌東京ドライブ」コースと銘うって、3月19日限定で運行するそうです。
ガイドさんも、昭和時代にはとバスガイドだった40~70代の女性13人も1日限定で復帰し、当時の復刻ユニホームを着てマイクを握るのだそうです。

コースは昭和20~30年代の歌謡曲と、昭和40~50年代のフォークソングとニューミュージックの2コースがあります。「なつかしの歌謡曲」コースは、「高校三年生」や「銀座カンカン娘」など昭和20~30年代の歌を流し、上野や銀座を廻ります。「フォークソング・ニューミュージック」コースは「いちご白書をもう一度」や「お嫁サンバ」など昭和40~50年代の歌で青山や御茶ノ水を走るのだそうです。

はとバスは、昭和24年の3月19日に定期遊覧運行を始めたので、今年で創業61年目になります。それを記念したツアーとしての企画です。
昨年にははとバスの定期遊覧運行開始60周年を記念して、「昭和の名ガイドと行く都内半日コース」を企画し、5万人ものお客様のご応募があったそうで、この年代への人気のほどが分かります。
 
今回の企画のメインは、「歌」で都内をめぐるになっていますが、歌というものは、人々の人生のある時期、時期の思い出と結びついているものだと思います。ある歌を聞いただけで、思い出がよみがえってきて、胸がきゅんとしたり、ほのぼのしたということがあるのではないでしょうか。
 
昭和20年、30年代というと戦争が終って、明るい歌がラジオを通して流れ、人々が同じ歌を聞いて生きていた時代です。ヒット曲をだれもが知っていて、歌えるという
時代でした。
はとバスツアーもそのような背景があっての企画だと考えますが、コースの定員は220名だそうですが、その歌の歌われた時代を思い出しながら、220人の人がみんな共感して、一緒に歌っているということが想像されます。
 
私も友人を誘って参加したいと思いますが、昨年の企画に5万人の応募があったそうですから、今回220人の中にはいれるかどうか分かりません。もし参加することができましたら、実施日が3月19日ですので、4月の便りにでもご報告をしたいとおもっています。
「歌唱予定曲リスト」
・「東京のバスガール」 昭和32年コロンビア・ローズ (浜松町)
・「お富さん」 昭和29年 春日八郎 (人形町)
・「下町の太陽」 昭和37年 倍賞智恵子 (墨田区を走りながら)
・「ああ上野駅」 昭和39年 井沢八郎 (上野)
・「りんごの唄」 昭和20年 並木路子 (上野)
・「いつでも夢を」 昭和37年 橋幸夫・吉永小百合 (上野から本郷にむかって)
・「高校三年生」 昭和38年 舟木一夫 (本郷)
・「ニコライの鐘」 昭和30年 藤山一郎 (湯島)
・「九段の母」 昭和14年 塩まさる (靖国通り)
・「東京ドライブ」 昭和35年 大津美子 (内堀通り)
・「有楽町で逢いましょう」 昭和33年 フランク永井 (晴海通り)
・「君の名は」 昭和28年 織井茂子 (晴海通り)
・「銀座カンカン娘」 昭和24年 高峰秀子 (銀座通り)
・「東京音頭」 昭和8年 三島一声 (京橋から日本橋)
・「東京の灯よいつまでも」 昭和39年 新川二郎 (お別れ間際)
・「ここに幸あり」 昭和31年 大津美子 (合唱)

どうですか、皆様も参加したくなったのではありませんか?(館)

投稿者 Nurie : 17:45 | コメント (0) | トラックバック

2010年02月07日

2010年1月の美術館便り


明けましておめでとうございます。麗しい新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
今年も厳しい経済環境が予測されていますが、気持ちだけは前向きに、穏やかな気持ちで過ごして生きたいものです。
ぬりえ美術館では、館内は昭和30年代のように時間が静かに、豊かに過ぎています。
ぬりえ美術館で、子ども時代の気持ちに戻って、リフレッシュして、新しい年を過ごしていただければと思います。

■昭和30年代人気
きいちのぬりえが盛んであった時代は、昭和20年代~30年代ですが、昭和30年代は、いまだに人気のようです。
昨年12月に講談社から「なつかしの少女夢ふろく」という昭和30年代の少女クラブの付録の復刻版が出版されました。昭和30年代の少女クラブについていた付録の
絵物語や漫画など3冊の本類と絵葉書やしおりなどがセットになって発売されました。

昭和30年当時、私も「少女クラブ」や「なかよし」「りぼん」などの少女の月刊誌を楽しんで読んでいたものですから、迷わず復刻版を購入してしまいました。
私が小学生の時代には、月刊誌を購入している生徒はクラスの何人でもありませんでした。ですからそれらの月刊誌を友達同士で回し読みをしたものです。月刊誌は、その本体も魅力ですが、付録も購入する際には大きなポイントで。素敵な付録が欲しいために月刊誌を購入するということもあったほどです。今では考えらないことですが、近所の縁日では、付録だけを販売している屋台もありました。
女の子は、可愛い小物類が大好きですから、そのような魅力的な小物が付録に展開されていたものでした。いわゆるグッズというものが、まだ商品として販売ルートに乗っていなかったということもあったのではないでしょうか。
グッズ類が流通するようになるのは、私が中学生の昭和37年頃(1962)ではないかと思います。内藤ルネさんのコップやハンカチなどを購入した覚えがあり、いまだにマグカップが残っています。

■内藤ルネ
その内藤ルネの展覧会も、1月27日(水)から東京駅の大丸百貨店で開催されるそうです。
"内藤ルネ"とは、1952年、中原淳一に呼ばれて上京し、ひまわり社に入社。
昭和29年(1954)、「ジュニアそれいゆ」創刊と同時に主要メンバーとなり、イラスト・人形作品を掲載。この頃から昭和39年(1964)まで、少女雑誌各誌の口絵・付録・イラスト作品も多数手がける。昭和36年(1961)頃から1980年代まで、マスコット人形・食器・インテリア雑貨・キャラクター文房具などをデザイン、多数製品化され人気を博す。

内藤ルネもきいちと同じ頃に活躍されていますが、小学校の上級生から高校生までのきいち世代よりお姉さん世代に人気の作家でした。中原淳一に師事していた人ですから、イラスト作品を通じて少女たちに新しい、時代のファッションを教えていました。
白い家具の流行などは、内藤ルネからの発信でしたし、インテリアというものに関心をもったのも、内藤ルネの影響でした。
今再び、内藤ルネの作品が再評価されているのは、やはり今の社会の閉塞感を、昭和30年代の時代性が打ち破ろうとしているからかもしれません。

■平成22年度の計画
1.年2回の企画展の開催 
春(3月~5月)「昭和のノスタルジー」
秋(8月~10月)「昭和40年代のぬりえ展」~きいち以降のぬりえ本の展示~
2.海外のぬりえ展 パリにて、10月11日~23日開催
3.出版 「ぬりえの不思議」春頃 株式会社ぎょうせい より
4.その他の展示会
(1)2月19日(金)~26日(金)町屋文化センターにて
ぬりえ美術館ニューヨーク展(案)~なつかしぬりえ文化再発見~
(2)3月13日(土)~14日(日)荒川総合スポーツセンター
荒川区産業展 ぬりえコーナー

5.サロン活動
(1)童謡の会   毎月第三の水曜日 13:30~15:45 
(2)大人のぬりえ 毎月第三の水曜日 13:30~15:30
参加費:各1500円

今年も来館者の方に楽しんでいただけるよう、計画をしております。館内には、「ぬりえ体験コーナー」があり、いらした方はきいちのぬりえを楽しむことができます。

どうぞ今年もぬりえ美術館へいらしてください。ご来館をお待ちしています。(館)

投稿者 Nurie : 13:47 | コメント (0) | トラックバック

2010年01月01日

12月の美術館便り

今年の冬は暖冬という予報がでました。寒いと体が硬くなり年末の忙しい時期を動きにくくなりますが、スムーズに暮れのお掃除などもできるかと思います。きれいにして新年を迎えたいものですね。

■大学で講演
11月の末に、ある大学でぬりえに関する講演をさせていただきました。キャリアデザイン講座ということで、様々な分野の職種の方からその分野のお話しを聴くということがテーマの講座でした。
一般的にはぬりえのことをお話しをすればいいのですが、キャリアデザインということであれば、今現在しているぬりえ美術館のことだけでなく、ここに至るまでの私のキャリアも学生さんが就職を考える際にはご参考になるかもしれないと考え、ぬりえ美術館以前のお話も含めて講演させていただくことにいたしました。

本題に入る前に、今、巷で話題になっていることについて学生さんに質問をしてみたことがありました。
1.マイケル・ジャクソンの「This Is It」の映画を観ましたか?
私はビートルズ世代でありますので、マイケル・ジャクソンに関しては、彼の歌に関しての情報よりスキャンダラスな話題が多かったものですから、ファンではありませんでした。
ところが今年の9月に開催したニューヨークでのぬりえ展に、「This Is It」のジャケット、ポスターのデザインをした日本女性のデザイナーのふーこさんが来てくれたことによる縁により、映画を観ることになりました。

映画は大変感動的なものでした。天才が仕事をするということは、どういうことなのか、一流の人がこぞって集まり、今までみたこともない舞台を作り上げようとする姿に胸打たれました。歌、ダンス、演奏、映像、照明、衣装などなど、すべてが最高のものを目指していました。アメリカには一流の人があつまってくるという、アメリカの素晴らしさにもため息がもれました。

この映画の人気は大変高いものがあり、上映は2週間の予定でしたが、さらに2週間延期されました。日本では特に興行成績がよく、アメリカについで世界第二位だったそうです。日本では、鑑賞した人の年齢幅が広かったこと、リピート客が多かったことから、来場者の数がダウンしなかったそうです。
マイケル・ジャクソンはすでに亡くなっているということから、日本人の判官贔屓があったかもしれません。
日本での人気が高かったことから、日本だけ、12月19日(土)から再上映されることになったそうです。
と、とにかく話題になっていた映画でしたが、観たと手を上げた人は2,3人でした。そのうち1名は先生でしたので、若い人が観ていないことに少し驚かされました。

2.阿修羅展を見ましたか?
国立博物館の平成館で今年3月31日~6月7日まで開催された阿修羅展は今年のヒット商品番付にも入るほどの人気でした。国立博物館の来場者歴代ランクの3位で来場者数は90満人とも言われています。(1位はモナリザ、2位はツタンカーメン)
残念ながら、これには手があがりませんでした。

■高校教師の一言
高校生のときに、国語の女性教師から言われたことがあります。
「皆さんは、東京に住んでいます。東京には、海外にわざわざ行かなくても、海外の素晴らしい作品の展覧会が開催されますから、ぜひそのような機会があったら、御覧なさい。」というものでした。
そのお話しを聞いて、初めてみた展覧会が上記にもありましたが国立博物館で開催された「ツタンカーメン展」でした。夏休みでもあったのでしょうか、太陽がまぶしい日で、大変長い行列が博物館の外にまでできていたことを思い出します。それ以来
東京ならでは催しを楽しんできました。

コンサートも同様でした。ビートルズが来日したのは、1966年のこと。ビートルズの講演は歴史的な事になると思った私は、これは見なければいけないという思いで、公演を見に行きました。来日したのはこの時だけですから、本当に歴史的な記念コンサートになったわけです。
 
東京は本当に恵まれています。ニューヨークのように、世界から素晴らしい作品が集まってきます。そのような機会があったら、これからも私は見に行きたいと思っています。
私の講演を聴いてくれた学生さんの中から、一人でも関心をもって実行してくれる学生がいたら、大変嬉しく思いますし、そうであることを願った講演でした。(館)

投稿者 Nurie : 14:21 | コメント (0) | トラックバック

2009年12月04日

11月の美術館便り

今年も残すところあと2ヶ月という時期になりました。今年も思い残すことがないように、充実した2ヶ月をお過ごしいただきたいと思います。
今月はニューヨーク(以下NY)で開催いたしました「きいちのぬりえ展」の報告と最近のNY情報をお伝えしたいと思います。

■ぬりえ展の報告
Kiichi Tsutaya Coloring Pictures  Nurie: Japanese Picture Coloring Exhibition
期間:9月21日(月)~10月3日(土)
会場:ニューヨーク天理文化協会 43A West 13th Street(13丁目)
会場は、ユニオンスクウェアと呼ばれる公園のすぐ近くにありました。14丁目にある"ユニオンスクウェア"とは、1839年につくられ、世界恐慌(1929年)の際には35000人の失業者のデモや、ベトナム反戦集会などが行われるなど、様々な歴史の舞台になってきた公園です。
現在は水曜日と土曜日にグリーンマーケットと呼ばれる新鮮な野菜や生花、チーズ、パンなどの青空市で有名で、多くのニューヨークっ子が訪れる公園となっています。毎日会場に通う際に、この公園を通りますが、グリーンマーケットの日には、屋台を覗くのが大変楽しみでした。手作りアクセサリーも販売されていましたが、今年は羽を使用したカチューシャや髪飾りが流行のようでした。
又このエリアはニューヨーク大学があるため、学生街でもあり、若い人々が闊歩する活気のあるエリアでした。

オープニングレセプションは、会期の半ばの9月25日(金)に開催されました。
今回は2度目のNYでの展覧会ということもあり、ニューヨークのアート系の人々に見てもらいたいと思っていましたが、お蔭さまで、デザイナー、ジャーナリスト、プロデューサー、写真家等の方々に多数ご来場していただき、それらの方々に好評価をしていただき、大変嬉しく思いました。

来場者の一部の方をご紹介させていただきます。
アンディー・ウォーホールのアシスタントで現在はプロデューサーのLiu氏、Persons(アート系大学)の先生の小川氏、Unitede Bamboo デザイナーの美帆様、ソニーのアートディレクターのGorostiza氏、Chibo Mattoのシンガーのみほ様、プロダクトデザイナーのCohen氏、作家ののゆり様、同じく作家のスチ様、ソニーのデザイナーでマイケル・ジャクソンのジャケットなどをデザインされているふーこ様等など.
本当に皆様お忙しいなかをご来場くださいまして、ありがとうございました。

きいちのしぐさ、きいちの表情、きいちの色合い、きいちの可愛らしさはNYでもその魅力を発揮していました。この展覧会を通じて、きいちのぬりえの魅力がNYに広がっていってくれることを願っています。
 
■最近のNYの様子
2006年にぬりえ展を開催したときの報告で、NYは日本ブームだとご報告していますが、そのブームは更に拡大し、レベルが上がっているのではないかと感じました。和食は健康食であるという認識で、人気です。質的にも東京以上に美味しいものを提供しているレストランもあると思いました。和食の美味しさ、日本的サービスの良さが理解されてきていますので、本当に美味しいものを丁寧にサービスをすれば、まだまだ様々なジャンルの日本料理野の店が成功するのではないかと思いました。
食事にはお酒がつき物ですが、NYでは日本酒も大人気です。ぬりえ展の会期中には「JOY OF SAKE」というお酒のイベントのが開催されていました。80ドル(7200円)で211種類のお酒が提供され、試飲や酒のテースティングができるイベントに、大勢の現地の方々が来場されていました。テースティングをしている男性に質問してみると、「大吟醸が大好き。カナダに住んでいるので、それほどお酒の種類がないんだ。だから豊富に日本酒の種類があるNYはうらやましいよ」と言って、テースティングのリストにチェックをしていました。
居酒屋や和食のお店では、お酒の紹介がとても上手です。食事にあわせて、それに相応しいおいしいお酒を紹介してくれます。今回教えていただいたものでは、日本酒と野菜や果物をつかったカクテルが面白いと思いました。日本酒とトマトやとうもろこしや大根、かぼちゃとなどの野菜やりんごなど果物とのカクテルを想像できますか。飲んでみると、特にとうもろこしのカクテルは、ミルクのような味で飲みやすく、大感激しました。NYで生まれたお酒のカクテル、進化しているのですね。
これからNYから逆輸入で日本にお酒が入ってくるかもしれませんね。
 
ショッピングエリアのソーホーやノリータでは、空き店舗が増え、セールの時期でもないのに、どこでもセールをしているなど景気の厳しさも感じるNYでした。(館)

投稿者 Nurie : 13:05 | コメント (0) | トラックバック

2009年11月01日

ぬりえ美術館便り合併号(8月~10月)

ぬりえ美術館は、2002年8月に開館し、今年で7周年を迎えることができました。これも偏に皆様のご支援の賜物と心より感謝申し上げます。
2002年に開館以来、展示とぬりえについての関係書の出版、海外でぬりえを紹介するぬりえ展開催という3本柱の活動をしてまいりました。これからもこれらの活動を通じて、ぬりえの認識を高め、活発化するように努めてまいりますので、これからもご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

企画展のご案内
蔦谷喜一は、2005年に91歳でなくなりましたが、今年で生誕95年となります。
ぬりえ美術館7周年記念企画展は、これを記念いたしまして、「生誕95年 蔦谷喜一展」を開催いたします。


蔦谷喜一とは、きいちのぬりえとは
戦後の昭和22年から40年ころまで、少女に絶大な人気があったぬりえが
「きいちのぬりえ」でした。当時ぬりえは大変な人気で、40人ほどの作家がいたと、きいちが言っていましたが、その中でも一番人気があったのが、きいちでした。
「きいちのぬりえ」とおもちゃに作家の名前が付いたのもきいちが最初ではなかったでしょうか。

2002年、日本の現代アートの第一人者である村上隆氏がキューレーションをして、パリのカルティエ現代美術財団にて開催された「ぬりえ展」の出品を期に、きいちは今、世界からも関心を集めています。
その村上隆氏が蔦谷喜一を称して、「まだ貧しかったあの時代の、少女たちの美へのあこがれに応え、「想像力」を喚起した。芸術家です」とコメントされています。

きいちのぬりえの特徴
ちょっと四角い大きな顔に、ぱっちりした大きな目、そして太い足の三、四頭身の女の子、というものでした。
あのような少女の顔が、当時の少女の理想像だったのではないか、と私は思っています。
そして、三、四頭身が日本人が考える「可愛らしさ」ではないかと思います。
可愛いの原点は、きいちのぬりえの少女ではないかと思っています。

ぬりえに描かれていたもの
お姫様や花嫁さん、お正月や七夕などの四季の行事、バレエのレッスンやピアノなどの洋風のハイクラスな生活や、誕生日などの特別の日の素敵なファッション等、
日常の暮らしから、おもちゃや家電など当時の流行のものまで描かれていました。そこには当時の女の子が夢みて、憧れたものが沢山描かれていました。

当時のぬりえは今のようなノートではなく、シート状になったぬりえが8枚ほど、袋の中に入って売られていました。きいちのぬりえは毎月、2つの版元、今でいうメーカーから4袋づつ合計8袋発売されていました。
「きいちのぬりえ」だけで、一月に100万部、ピーク時には、160万部売れたといわれています。毎月100万人の少女たちが塗っていたということになります。

ぬりえの中に書かれている小鳥とは
きいちのぬりえには、必ず小鳥のマークが付いています。その小鳥は、「チルチルミチルの青い鳥」の鳥の意味だそうです。子供たちに幸せになってほしいという思いを込めていたのでしょう。
今回、きいちが作成した"しおり"を展示していますが、会社名として「AOITORI」
という名前が書かれています。常に青い鳥を意識していたことがうかがえる資料です。

ぬりえが売れた時期とエリア
ぬりえは毎月販売されていましたが、ぬりえが売れたのは、秋から冬にかけて、暮れの12月が一番売れたそうです。又エリアでいいますと、「北海道」が一番売れたそうです。
今は暖冬になり雪も少なくなりましたが、当時は雪がもっと降って、閉ざされた世界の一番の楽しみだったのではないかと思います。

ぬりえは子どもの大事な情報源
昭和20~30年当時「月刊誌」を購入できる子どもは、クラスの何人でもありませんでした。テレビやマンガの週刊誌もまだない時代です。そのような時代に、東京からやってくるぬりえの中に描かれた世界は、「週刊誌のような情報源」であったと、私は考えています。
東京で流行しているもの、自分と同じような遊びをしている少女など、共通のものを見つけたらり、最先端のものを絵の中に見つけては、胸を躍らせて、ぬりえと取り組んだのではないでしょうか。

きいちのぬりえの少女のパッチリお目目きいちの少女たちは、日本人なのに、大きな、ぱっちりした目をしています。
フランス人形の瞳や、外国映画の女優さんの、くるりとした睫毛の影響を受けて、ああいう目を描くようになったのだそうですが、あの目は、今で言う「マスカラ」を塗った目なのです。
マスカラのような存在に気が付くのも、きいち自身が築地育ちのお洒落なモダンボーイだったから、なせる業だったと思います。

ぬりえの衰退ぬりえは、昭和34年のご成婚、昭和39年の東京オリンピックなどで、テレビが一般家庭に普及するにつれて、古臭いものとして衰退していきます。同じ頃、映画や紙芝居が同じような運命で消えていきました。


「蔦谷喜一」とは、とのような人物だったのでしょうか。
本名は、蔦谷喜一。大正3年に東京は京橋区新佃ということころで、紙問屋の五男で、九人兄弟の七番目として生まれました。
新聞社に紙を納める紙問屋の息子として、何不自由なく育ちます。
流行のファッションに身をつつみ、お隣の銀座を闊歩するモダンボーイでした。

きいちは、子供のころから絵が好きで、特に人物画が得意だったそうです。 
昭和6年。17歳の頃です。帝展に出展されていた山川秀峰の「素踊」をみて、自分の夢は何か、ハッキリと自覚するようになったきいちは、川端画学校で日本画を習い、クロッキー研究所というところで裸婦デッサンなどを勉強しています。

昭和15年。きいちが26歳。川端画学校の友人がぬりえの仕事を持ってきました。歌舞伎が好きだったきいちは、歌舞伎をテーマにしたぬりえや美人画のようなぬりえを描き、人気となっていきました。
戦争になり、中断。
戦後の1年は築地に駐留していた米兵の、恋人や奥さんの肖像画を掛け軸に描く仕事をしていました。100枚くらい描いたそうです。きいちの絵がバタ臭いといわれますが、この頃の影響かもしれませんね。

その後、昭和22年より本名の「きいち」でぬりえを再び開始し、爆発的な人気となったのは、先にお話したとおりでございます。

昭和40年頃には廃れてしまったぬりえですが、昭和53年(1978年)私が以前勤務していました化粧品会社の銀座のギャラリーで、きいちのぬりえの展覧会が開催され、「第二次きいちブーム」が起こることになりました。
それ以来、コマーシャルに使われるなどして、人気は今に続いています。

ぬりえが大人気の時代に、「ぬりえは子どもの創造性を阻害する」とぬりえが悪者扱いをされることもありました。そんなとき、きいちは、
「ぬりえは絵画の教育ではない。幼い子どもの情操を養う、こころの遊びだ」と反論しています。
また、「もし、"ぬるための絵"を考えて絵を描いていたら、もっと違った、教育的なものを描いていたと思う。しかし、私は美しい絵を描きたいから描いてきたのだ。
色を塗っても塗らなくても、持っているだけで楽しい、という絵が描きたかったのだ」とも語っています。

生涯現役で絵を描いたきいちは、2005年91歳でなくなりました。

2006年頃より、大人のぬりえが人気となりました。老人の施設でもぬりえがなされているようですが、ぬりえ専門に描かれたきいちのぬりえはここでも人気となっているそうです。色は脳の中の、感情の部分に直接関与するものだそうですので、ぬりえをするとその色によって、心も元気になるようです。
ぜひ、この機会をきっかけにぬりえを楽しんでみてはいかがでしょうか?

投稿者 Nurie : 15:38 | コメント (0) | トラックバック

2009年08月01日

7月の美術館便り

先月は27日(土)の毎日放送をキーステーションに、TBS系列の「知っとこ!」の番組にてぬりえ美術館が放送され、大勢のお客様からお問い合わせ並びにご来館いただきまして、大変ありがとうございました。

ぬりえ美術館は来月の8月3日(月)で、開館7年目になりますが、昭和20年~30年代のきいちのぬりえは、 毎月100万部売れていたといいます。すなわち毎月100万人の少女たちが、きいちのぬりえをしていたことになります。きっと日本のどこかで、きいちのぬりえを捜し求めている昔の少女達が大勢いるのではないかと思っております。そのためにもぬりえ美術館の存在をご案内して、きいちのぬりえを見に来ていただきたいと願っています。

7年目を迎えるにあたり、改めて、「何故ぬりえ専門の美術館を開館したのか」をご説明したいと思います。普通、大人になるに従い、ぬりえをしたということも忘れてしまうものですが、私は、昭和20年代から30年代にかけて人気であった「きいちのぬりえ」のぬりえ作家、蔦谷喜一の姪であったことから、大人になってもぬりえを忘れることはありませんでした。

しかし、どうして「ぬりえ」なのかということですが、美術館を開館する以前に勤務しておりました化粧品会社の仕事で、1980年代にパリに年2回、5、6年の間、出張しておりました。その時に、「フランスの文化は素晴らしい」と感激をしたものですが、と、同時に自分が日本のことについて何も知らないことに気が付かされました。フランスに行き、フランスの文化を知ることにより、日本にも長い歴史と素晴らしい伝統、文化があることに気が付いたのです。それから、歌舞伎や骨董など、日本の伝統、文化に関心をもつようになりました。

2000年、母の病気の看病で会社を退職することになりました。その後病気もよくなり、日本の伝統、文化への関心から、「ぬりえは日本の文化かもしれない」と思いまして、2002年にぬりえ美術館を開館しました。

美術館では、ぬりえが最も隆盛であった昭和20年代、30年代の「きいちのぬりえ」を中心に海外のぬりえも広く収集、展示しております。現在「ぬりえの世界」を改めて問い直すことで、文化的な価値を高めたいと国内外において活動しております。  
ところで、美術館に来館される方はといいますと、当時実際に塗った方々が6割、20~30代が3割、小学生は1割という割合ですが、この比率は開館以来変っておりません。そのような意味で、ぬりえ美術館は、リアルタイムで塗った団塊世代を中心に、
「なつかしの美術館」として存在しております。 

館内には、「ぬりえの体験コーナー」があります。来館者の方々の感想として、「ぬりえを見ていたら、ぬりえがしたくなりました」という感想がいくつかございまして、開館2年目からぬりえの体験コーナーを設置しています。体験コーナーでは、大人の方々が、久しぶりのぬりえを嬉々として体験されていかれます。
皆様が塗ったぬりえは、ぬりえ美術館のHPに、「ぬりえギャラリー」という名前でご紹介をしています。是非HPをご覧ください。
ぬりえをされた方の感想は、
○50年ぶりくらいにぬりえをしたが、楽しくて没頭してしまいました。
○子どもの頃に戻った気持ちでぬりえを楽しめました。楽しいひと時を過ごせてとても嬉しく思いました。
ぬりえは、大人の方でも、すぐに没頭することができることに、誰もがビックリされている声をよく聞きます。

きいち時代のぬりえは今のアニメのようなキャラクター物ではありませんので、自由に、好きな色で塗ったものです。ですから、ぬりえは「十人十色」と言われていました。
ところが時代が変って、今の若い方はキャラクター物のぬりえで育っていますので、「自由に塗っていいのですか?」ときいちのぬりえを見ておっしゃることがあり、私の方が驚かされてしまうことがありました。

ぬりえは自由に、好きなように塗って楽しんでいただければいいと思います。頭を柔軟にして、実際にはないような色を塗ってみるのも楽しいでしょう。さらに主人公の少女だけでなく背景も塗ってみると更に少女が生き生きとしてきますので、塗ってみていただきたいと思います。
ぬりえには、何も間違いということはありません。怖がらずに塗っていただきたいと思います。

「大人のぬりえ」ということが言われて3年ほど経ちますが、高齢者の方が楽しむことが一つ増えて、良かったのではないかと思っています。1日、たった15分でもいいのです、ぬりえを楽しんでいただければ、脳は活性化し、心も元気になります。楽しいですよ。

ぬりえ美術館では、今でも「時」が昭和30年代のようにゆっくりと流れているようです。 

投稿者 Nurie : 17:38 | コメント (0) | トラックバック

2009年07月02日

6月の美術館便り

先月は1日(金)のTBS「はなまるマーケット」並びに22日(金)のNHK「こんにちは いっと6けん」の番組にてぬりえ美術館が放送され、大勢のお客様にご来館いただきました。大変ありがとうございました。

今月の美術館便りでは、 2008年に北京でオリンピックが開催され、2010年には上海にて万国博覧会が開催され、さらなる発展が予測される中国の北京と上海にて、幼稚園、出版社、本屋さんなどを見学、取材調査いたしましたので、中国のぬりえの状況について、ご報告をしたいと思います。あわせてHPの記事もご覧いただければ幸いです。

北京・上海の印象
北京・上海の第一印象は、東京とまったく変わらない!ということでした。中国の経済の発展に伴い、近代化が進んでいるということを実感しました。
今年の4月から豚インフルエンザが発生しましたが、私の出張直前に、アメリカに留学した学生がNYから東京経由で中国に帰り発症したということが分かり、東京から行った私にも影響がでて、幼稚園の見学ができなくなったり、自宅に来るのは中止となるということもありました。本当に世界は小さくなっていると感じました。

中国で人気のぬりえ  
今子どもたちの間で人気のぬりえがあるというので、体験をしてきました。
中国の子供たちが土日によく行くのが、親たちが勝手に「子どもの楽園」と名づけている子どもの遊戯施設です。それはショッピングモール等の中にあり、滑り台や砂場、おもちゃなどがあり、何時間でも子どもが楽しく遊べるようになっています。
子供たちに人気のぬりえは、ゴム状の黒い線(少し厚みがある)で絵が描かれています。内容は、キャラクターものが多く、日本のキティーちゃんやドラえもん、中国で大人気のヒツジのキャラクター(喜羊羊)などです。
1.絵は一枚、30元(約450円、1元=15円)けして安いものではありません。
2.黒い線で描かれた絵を紙の台紙からはがし鉄板の上に乗せます。
3.好きな色(これも黒い線と同様に特殊な絵の具)を塗っていきます。
4.完成したら熱をかけて乾燥させます。熱をかけると絵は少し厚みがあり、つやつやした絵となります。
5.乾燥した絵を紙の台紙に移して、完成です。
色鉛筆でする絵とはちがって、厚みや色のつやがあるところが新しく、綺麗で商品的な完成度が高いところが子供たちにも人気のようです。
このぬりえのほかに砂絵が人気で、同じ場所で提供しています。2歳程度の子どもも上手に砂を絵のせて遊んでいました。
私は、このぬりえをしたことはありませんでしたが、帰国後若い人(20代~30代)に聞いてみると、「子どもの頃したことがある。硝子に貼ったりしました」と言っていましたので、すでに日本にもあったことが分かりました。

ぬりえの現状
一人っ子政策を受け、子どもの教育に関しては、大変熱心だと思いました。
北京、上海の4つの幼稚園を見学しましたが、どこもそれぞれの特徴を打ち出し差別化を図っていました。
私立の幼稚園では、2歳以下の子どもも預かり、2歳になるとぬりえを始めさせています。小さい時から手先を動かし、脳を活性化させ、絵になじませ、絵を描く前段階としてぬりえに触れさせていました。
それぞれの幼稚園で、ぬりえの効用、目的についてしっかりと理解して実施していることが分かりました。
出版社の現場では、親達の要望を反映して、単に塗るだけでなく、ぬりえをしながら「漢字」「英語」「算数」などを学べるようなぬりえ本作りをしていますが、同時に
日本のアニメキャラクターのような可愛い少女の塗るだけのぬりえも人気があり、少女の好みは日本と共通していると思いました。

最近の特徴
さらに今の幼児教育の現場では、衣食足って礼節を知るという時代になったのでしょうか、子ども達がマナーを身につけることが要望されており、マナーを教える絵本などが本屋さんの棚に並んでいました。
幼稚園では、どこでも学ぶということに力を注いでいますが、アート、運動なども取り入れ"総合教育"として、子ども達の教育をしていました。更に子ども達の能力を伸ばしたいという親たちの要望を受けて、幼稚園の教育とは別に、アート、スポーツを学ぶためのクラスを設けており、ある幼稚園では全員が何らかのクラスに属しているそうです。
子どもは一人ですから、子どもの教育に対する親の要望の高さ、熱意が伝わってきました。国の発展は、子ども達の教育にかかっていますので、更なる発展が期待できると感じました。(館)

投稿者 Nurie : 16:58 | コメント (0) | トラックバック

2009年06月01日

ぬりえ美術館便り(3月~5月)合併号(2)

フジオ
   
「フジオ」も「まつお」と同じようにブランドネームです。この会社は戦前、きいちが
「フジヲ」の名前でぬりえを描いていた版元(メーカー)でした。戦後は、きいちではない他のぬりえ作家が「フジオ」の名前で、描きました。
時代に合わせて、「はくちょうのみずうみ」では、絵のタッチが少女マンガ風になっています。これも少女の要望による変化なのでしょう。フジオのメーカーは、現在も幼稚園向けにぬりえを作っているようです。

その他
      
昭和34年のご成婚当時、このようなぬりえやきせかえが販売されていました。日本全国にミッチーブームが起こり、美智子様は大変な人気でしたので、様々なグッズが発売されたものと思います。他にも当時の切手や本などを展示していますので、50年前に思いを馳せてください。

      
その他、FUJI玩具、まはる、よし子など、様々なぬりえ作家をご紹介しています。
よし子のぬりえのように、きいちにそっくりなぬりえが数多くありました。名前もきいちを真似て「せいち」などと名乗ったぬりえもありました。
まつおの項でも出ましたきいちのぬりえの版元である石川松声堂の奥様が、下記のように語っています。
『その時分は、他のぬりえもよく売れたんですよ。でも、ぬりえだけは喜一さんがうまいですよ。・・・・ ああいう商売をしていると、絵描きさんがよく来るんですよ。「こういう絵ですが、描かせてくれませんか」って。ぬりえこしらえるには元手がかかりますから、めったやたらに描かせやしませんが、ためにはね。でも、1年とつづきませんね。ずーと続いたのは喜一さんより他、ないですよ。』
喜一は毎月60~100枚ほどのぬりえを描いていました。これを毎月描いていくことがどれほど大変なことでしょうか。簡単な気持ちで描いてみても、すぐに絵のテーマに行き詰ってしまったのではないでしょうか。又、その絵が売れなければ、すぐに首を切られたことでしょう。
しかし、これらの絵の中に、「あ、塗ったことがある!」という思い出のぬりえがあるかもしれません。
昭和の思い出を探してみてはいかがでしょうか。

ぬりえの寄贈を始め、ぬりえ作家の情報などぬりえに関する情報提供のご協力を今後ともよろしくお願いいたします。

< 年 表 >
昭和20年(1945年) 
敗戦、国際連合発足  
・「りんごの歌」大流行、永松健夫「黄金バット」20万部
昭和21年(1946年) 
天皇人間宣言、日本国憲法公布
・「サザエさん」連載開始、下町で紙芝居盛ん
昭和22年(1947年) 
日本国憲法施行、教育基本法、学校教育法公布
・「黄金バット」の紙芝居がヒット
昭和23年(1948年) 
教育勅語失効、学習ざしの創刊、復刊目立つ
・戦後第一次マンガブーム、手塚治虫が人気
昭和24年(1949年) 
湯川秀樹にノーベル賞
・子供向けマンガ全盛
昭和25年(1950年) 
朝鮮戦争勃発、
昭和26年(1951年)
対日講話条約調印、日米安全保障条約調      
・少女歌手美空ひばり人気、紙芝居全国的に人気
昭和27年(1952年) 
血のメーデー事件
・坪井栄「二十四の瞳」、紙芝居形式の得物語が児童雑誌で人気
昭和28年(1953年) 
テレビ放送開始
・手塚治虫「リボンの騎士」連載開始、児童雑誌のマンガページ増大
昭和29年(1954年)
 教育二法公布施行、
・手塚治虫「火の鳥」連作開始、映画「二十四の瞳」
昭和30年(1955年) 
第一回原水禁世界大会、森永ヒ素ミルク事件
・力道山ブーム、「りぼん」(集英社)創刊
昭和31年(1956年) 
経済白書「もはや戦後ではない」と述べる
・「チロリン村とクルミの木」放送開始、横田光輝「鉄人28号」連載開始
昭和32年(1957年) 
ソ連、世界初の人工衛星打ち上げに成功
・「スーパーマン」「名犬リンチンチン」がテレビ放映開始、「赤胴鈴之助」がラジオ、テレビ、映画化
昭和33年(1958年) 
文部省、小中学校の道徳教育を義務化
・フラフープブーム、貸本マンガの出版さかn、紙芝居は凋落の傾向
昭和34年(1959年) 
皇太子ご成婚、緑のおばさん誕生
・「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」創刊、
昭和35年(1960年)
 安保反対デモ拡大、強行批准、自民党、高度成長・所得倍増政策を発表、"消費は美徳"一般化する
・ダッコちゃんブーム
昭和36年(1961年) 
文部省、全国一斉学力テスト実施、ソ連人間衛星打ち上げ成功、ケネディー大統領就任、キューバ危機
・スーダラ節無責任時代、「シャボン玉ホリデー」「みんなの歌」「ちびっこギャング」白戸三平「サスケ」
昭和37年(1962年) 
キューバ危機、堀江謙一ヨットで太平洋横断
・「おそ松くん」「てなもんや三度笠」「ベン・ケーシー」
昭和38年(1963年) 
吉展ちゃん事件、ケネディー大統領暗殺
・「週刊少女フレンド」「週刊マーガレット」創刊、 初の国産アニメ「鉄腕アトム」放映、アニメブーム    
昭和39年(1964年) 
東京オリンピック開催、佐藤内閣発足、アメリカ、ベトナムに介入
・「おばQ太郎」「カムイ伝」「ジャングル大帝」
昭和40年(1965年) 
不況深刻化、
・ベンチャーズ来日、ギャグマンガ流行

*参考図書「子どもの昭和史昭和20~35年」1987年別冊太陽 
「子どもの昭和史昭和35~48年「1990年別冊太陽

投稿者 Nurie : 15:06 | コメント (0) | トラックバック

2009年03月01日

ぬりえ美術館便り(3月~5月)合併号(1)

「昭和20年~30年代のぬりえ作家展
~きいち、まつお、ひでを、フジオなど多くのぬりえ作家が活躍した時代~」

ぬりえ美術館では、日ごろは昭和20年~30年代のきいちのぬりえを中心に展示をしておりますが、開館7年目となる今年最初の企画展では、昭和20~30年代のぬりえ作家の作品をご紹介いたします。

昭和20~30年代は、少女の間でぬりえが大変なブームでした。きいちと同時代に数多くのぬりえ作家が活躍をしていました。きいちの話によりますと40名くらいの作家がいたと聞いております。しかし、ぬりえを描いたとしても売れ行きが悪ければ、続けていくことはできないということで、継続して名前が残っているのは、きいち、まつお、ひでを、フジオなどのぬりえでした。
それらの作家のぬりえを中心に、今回当時の珍しい作品をご紹介いたします。今年は、天皇・皇后のご成婚から50年の年にあたります。その時代の人気を反映したものが、子どもの世界にも見られました。美智子様ぬりえやきせかえ、芸能人のぬりえなどが売られていたのです。

当時の風俗、伝統、文化がぬりえの中に残っています。

どうぞ当時のぬりえの数々から昭和20~30年代という時代の息吹を
感じ取っていただければ幸いです。

きいち

少女の夢や憧れの世界を、伝統の行事や当時の流行、日常生活まで描いて、少女の心を満たしました。
きいちの描く世界は、豪華で華やかさがありました。例えば着物では、舞妓さんや花嫁さんの着物姿であり、普段着のものではなく、お出かけのときに着るようなよそゆきのものを描き、それが大人気となりました。
現代アートの第一人者である村上隆氏は、このようなぬりえを描いていたきいちについて、下記のようにコメントをしました。
「人間は、芸術を欲する存在じゃないですか? まだ貧しかったあの時代の少女たちの美へのあこがれに応え、想像力を喚起した。芸術家です」
2007年にドイツのベルリンで70代の女性の方に取材をしたことがありました。ドイツも日本同様に、第二次世界大戦に負けた敗戦国です。戦後、日本では、昭和22年(1947年)から「きいちのぬりえ」が存在しましたが、ベルリンではそのようなものがあったのか、お尋ねしてみました。
「ベルリンは、瓦礫の山でぬりえどころではなかった」と、その女性は答えました。考えてみますと、陸続きのヨーロッパでは、爆撃が激しく、ベルリンは相当な被害があったのでしょう。しかし、日本人の私は、「日本の方がもっと貧しかった」と思っていましたので、その回答にはびっくりしました。
日本は、貧しかったけれど、村上隆氏がおっしゃったように、きいちのぬりえのような美しい世界を楽しむことができ、夢や憧れの世界をぬりえを通してみることができたということは、幸せだったのではないかということを再発見しました。子どものお小遣いの5円や10円で買えるアートの世界。そのぬりえの世界に自分を投影させたり、想像の世界に飛んでいき、楽しんでいた時代でした。

流行物を描いたぬりえ「おばQちゃん」
ごく普通の家庭に住み着いた、一匹の間の抜けたオバケがひき起こす騒動を面白おかしく描き大ヒット。アニメ主題歌の「オバケのQ太郎」はミリオンセラーを記録し1966年のレコード大賞童謡賞を受賞。   『ウィキペディア(Wikipedia)』
フラフープやダッコちゃんなど、流行の品々が必ずぬりえに描かれています。
ぬりえは東京の駄菓子の問屋さんから全国に送られていました。地方の子どもたちは、ぬりえを通じて、東京での流行を知ったことと思います。

「テープにうたをふきこむの」
日本では1950年に東京通信機工業(現・ソニー)が紙テープ式のモデルを発売したのが最初である。テープレコーダーは、人々の生活に多く影響を与えた。この機械の登場により、人々は音楽を録音したり、自分や家族の声を録音したりした。
『ウィキペディア(Wikipedia)』 
大きなリールのテープレコーダーです。自分の声を録音して聞いたとき、自分の声がこのような変な声をしていたかしらとビックリしたものです。
掃除機や洗濯機なども、先端の物としてぬりえに描かれました。

「はなよめさん」
「何になりたいですか?」と聞かれると、当時の少女は、「花嫁さん」と応えました。因みに、少年のなりたいものは「運転手さん」でした。
昭和の30年代、結婚式は自宅や近所の料亭でお祝いをしていましたので、花嫁さんはご近所の方々に挨拶周りをしていました。子どもたちは、美しい花嫁さんの後をついて歩いたりしたものです。美しいものは、小さい子どもでも大好きなものなのです。

ひでを      
ひでをは、大変特徴ある絵を描いています。きいちに負けない大きな顔とぱっちりした眼が特徴です。

まつお   
まつおのサインは、名前の松の葉がついているので、覚えていらっしゃる方もおおのではないでしょうか。
きいちのぬりえの版元である石川松声堂の奥様が草思社が出版した「きいちのぬりえ」の中で、下記のように語っています。
『「まつお」、「たけお」の入船堂、「フジオ」が、東京ではふるくからの塗り絵屋ということになっていた』
まつおの名前は、社長さんの名前のようで、誰が描いても、「まつお」のサインで販売していたようです。いわば会社のブランドネームです。
この2枚もタッチが違うようですので、違う人が描いていると思われます。

投稿者 Nurie : 14:43 | コメント (0) | トラックバック

2009年03月01日

2月の美術館便り

今年も早2月となりました。一番寒い月ですから、インフルエンザや風邪に十分に気をつけて、お過ごしください。
1月に続き、今月もフィンランドのぬりえ状況をご報告いたします。

プレイパーク
フィンランドには、保育園に代わるような「プレイパーク」と呼ばれる、大事な施設があります。
訪問したプレイパークでは、昔は、塗り方についての注意点や指導等言っていたそうですが、現在はこのプレイパークでは何も指導はしないとのことでした。指導的な点があるとすれば、初めに「自由に、何色を使ってもいいとか、5色だけ使う」とか言うだけだそうです。
ぬりえの効用としては、下記の点を挙げていました。
●大きい子どもには、手のスキルを磨き、小さい部分も上手に塗れるようになる。
●気を静める。●セラピーになる。
●小さい子ども達には、ぬりえというより「色を使う」という世界の中で、5ヶ月の赤ちゃんを大きな紙の上に乗せて、色を使って遊ばせる等をしている。
色を遊びながら、色の楽しさ、運筆、落ち着きなどを体感させているようでした。

フィンランドの子どもの捉え方
プレイパークの先生が、子どもとは「未来の希望」、「未来そのもの」とおっしゃっていました。「子供が未来そのものである」という考え方は、先生個人の意見ではなく、多くのフィンランド人が考えていることではないかと短いヘルシンキの滞在の中で感じました。
レストランで食事をするとき、パリではいいレストランでは子どもを連れては入れない店が多いのですが、ヘルシンキでは、レストランは子連れOKです。どんなレストランにも子ども用の椅子が準備されています。例えば現代美術館のレストランでは、「天使の椅子」と呼ばれる羽のついた子ども用の椅子が準備されていました。
その他、駅、図書館、街中で見ていても、子どもは、自分だけの子供ではない、国の子どもであるという考えがフィンランドの人にはあるようなのです。人口が少ない国ですから、子どもが大事であるので、社会全体として育てようという意識を皆がもっているように感じました。フィンランドの成績優秀の秘訣として、1月には、「社会性を見につけることが第一義であり、自分で考えさせる」とお伝えしましたが、もう一つは、"子どもを社会が育てようとしていること"ではないかと思いました。

父親の存在
そして、子どもの教育について、取材やアンケートを従来の考えで母親対象に依頼をしたところ、フィンランドの方から「母親だけが保育者ではない、父親も対象である」という回答をいただきました。
子どもを育てるのは、母親だけではなく、父親の役目でもあるということが何も特別のことでなく、それが当たり前という考え方であるのです。お父さんが子どもに食事を与える姿をみていても、いかにも手馴れているので、普段からしていることだということを見ても分かりました。
 
フィンランドの教育の秘訣
何も教えてはいない。何も特別なことはしていない。自由表現をさせる。と先生方が言っていましたが、何も特別なことがないことがフィンランドの秘訣であり、教育の前に、まず人間形成、人格形成を重視しているということがフィンランドの教育成果を上げているのではないでしょうか。
教育の成果の効率を求めるのではなく、自分で考えることのできる人間を育てることに力をそそいでいる結果が教育レベルをあげているのではないでしょうか。この点が、
一番重要なポイントだと思いました。

フィンランドには、「大人のぬりえがあった」フィンランドで、「大人向けぬりえ」の本が大変人気になっていました。この「大人のぬりえ」本の作者は、09年の春には赤ちゃんが生まれるというアンヌ・ペルトラさんという30代の女性でした。彼女は、脳とぬりえの関係については、全然知らなかったそうです。
現在、既に2冊発売され、いずれも二刷りに入っているほどの人気で、購入者は30~40代と老人たちが中心だそうです。
フィンランドの教育レベルの高さと大人のぬりえの発生は、関係がないようでいて、どこかでつながっているのではないかと思います。画一的な教育でなく、自分で考えるように育てるフィンランドの教育から、大人のぬりえも生まれてきたのではないでしょうか。
私も、フィンランドの教育の秘密を探ろうと思って視察をしに行ったのですが、秘訣とかメソッドとか簡単に答えを求めてはいけないということを、ヘルシンキの街で学んだように思います。
秘訣とかメソッドの前に人間教育、人格教育を重視することが一番人間にとって大事であるという当たり前のことを、再認識したフィンランドでした。(館)

投稿者 Nurie : 12:57 | コメント (0) | トラックバック

2009年02月01日

1月の美術館便り

明けましておめでとうございます。今年も皆様にぬりえを楽しんでいただける展示企画をしていきたいと思っております。今年もご愛顧のほどどうぞよろしくお願いいたします。
 
フィンランドのぬりえ事情
昨年のパリのぬりえ展のあとに、フィンランドのぬりえの状況を取材してきました。
1月、2月に「ぬりえ美術館便り」でご報告をしたいと思います。 何故、フィンランドに行ったのかといいますと、フィンランドは、PISA(OECDによる国際的な生徒の学習到達度調査のこと)の成績が世界一ということで、PISAの結果にぬりえが関係しているのかどうか、フィンランドでのぬりえの実態を調べてみるために行ってきました。いまやフィンランドは、学校などの視察が多くなり人気の国となっています。

日本人気
フィンランドでは、保育園(幼稚園はない)やぬりえの出版社や本屋さんなどを取材しましたが、街を歩いてこちらが驚かされたのは、フィンランドの首都のヘルシンキでも大変な日本人気だということでした。本屋さんに行けば、マンガが人気で、本棚に行ってみると、ゴシック・ロリータの服装の少女が2人、マンガを手にしていました。一人は"ナナ"、もう一人は"デスノート"でした。日本の人気がそのままヘルシンキでも人気なのです。
「写真を一緒にとってもいですか」と尋ねると、「ピース!」と言って喜んでポーズをしてくれた。「ありがとう」とお礼も完璧な日本語でした。情報は殆どインターネットでとっているそうで、日本の歌も歌えるということでした。
街には日本のグッズショップもありましたし、ただし本物と偽者が混じったショップであったことは残念でしたが、次から次へとお客様が来店され、大人気でした。

又あるライブハウスの近くで見かけた光景は、日本からのビジュアル系のバンドのライブがあるということで、ここにもゴシック・ロリータをはじめとする日本の原宿系ファッションの少女たちがずらっと行列をして開店を待っている姿でした。その中で一番びっくりしたものが、留袖姿の少女でした。どのように着物を入手したのか尋ねると、インターネットで購入したという答え。後は見よう見真似で着付けをしたようでした。インターネットのお蔭で、北欧の都市にまで、日本の情報が来ているのかと、驚きと感激が混じった感情でいっぱいになりました。

ぬりえ状況
さて保育園での様子ですが、ぬりえは子供たちに好きな絵を選ばせて、好きなように塗らせていて、先生は、特に何も指導はしませんでした。
フィンランドでは、「保育園」というのは、教育をするところではないのだそうです。学校に入る1年前の子どもたち(就学前児童)は、「丸の中を10個黄色で塗りなさい」とか、「四角の形のものは、青でぬりなさい」等の勉強をするそうですが、それまでの子供たちは、保育園は勉強をする場所ではないので、テクニカルなことは一切教えないのだそうです。
訪問した保育園では、子どもたちの興味にあわせて、テーマを半年とか1年決めており、そのテーマにあわせて学んでいくそうで、今年は「木」がテーマで、森に行ったり、森の中で算数をしたり、体操をしたり、理科をしたり、自己表現をしたりしているそうです。保育園の中も、「木」のイメージの飾りつけが至る所にされていました。

具体的には、下記のようなことをしていますが、日本とは違いがありそうです。
・就学前児童には、朗読をしながら算数をしたりしているが、朗読は国語であるというわけ方をしない。
・理科では、グループに分かれて、「白樺」を調べる、「ななかまど」を調べるというようなことをしている。
・森に行って、近くの公園との違いを探したり、詩を作って朗読などもさせている。
*フィンランドは詩の国で、子ども頃から詩を覚え、楽しんでいます。
・外国人の子どもも増えているので、詩を読み、絵を描かせている。森を知らない外国人のために写生をしたり多面的にやっている。

この保育園では、"どうやって皆と一緒にいるか"、"他人との違いを認めながらどう一緒にやっていくか"、社会性を身につけることをさせることを第一義にしているといいます。
教育をしているのではなく、学校に入ったときに、よりスムーズに学ぶ体制を子どもに身つけさせるかということをしているそうです。それが保育園の役目と皆が捉えています。そして遊びながら勉強を取り入れているが、あえて教えているものではなく、子供たちが自分で考えるようにしているのだそうです。
他の国の幼稚園では、ほとんどが子ども用のテーブルと椅子にすわっていましたが、ここでは子どもたちの一部は大人用のテーブルや椅子に座ってぬりえをしていることでした。注意をして使えば、子どもたちでも大人用が十分に使えるというわけです。
ここにも、自分で考えるということが隠されているように思います。

フィンランドの子どもたちの優秀さのひとつは、勉強の前に人間性を育むこと、自分で考えることにあるのではないかと思いました。
続きはまた来月にご報告をいたします。 (館)

投稿者 Nurie : 17:31 | コメント (0) | トラックバック

2009年01月06日

12月の美術館便り

NHKラジオ「どよう楽市」"楽市カフェ"
1月8日(土)NHKのラジオ番組「楽市カフェ」に出演をさせていただきました。
「楽市カフェ」は、ネオシニア世代を中心に、新たなチャレンジをしている方や、豊かな暮らしを実現しようとしている方などをゲストに招き、お話を伺うコーナーです。
ネオシニア世代であり、かつ会社を母親の看病のために退職し、その後新しい生き方として「ぬりえ美術館」を開館した人ということで、出演のお声がかかりました。
この番組の司会者は、残間里江子さんとNHKのアナウンサー大沼ひろみです。残間里江子さんは、1950年仙台市生まれのネオシニア世代。アナウンサー、編集者を経て80年に企画会社を設立し出版、映像文化イベントなどを多数手がける女性ですが、山口百恵さんの著書「蒼い時」をプロデユースしたことでつとに有名な方です。最近の著書に「それでいいのか蕎麦打ち男」「モグラ女の逆襲」などがあります。

「楽市カフェ」は男性の出演者が多いそうで、「それでいいのか蕎麦打ち男」を出版している残間里江子さんとしては、ネオシニア世代でも活躍する女性の出演者を希望されているそうで、11月8日は金子の出演となりました。
私の個人的感想ですが、NHKの場合、テレビもラジオも台本がしっかりあります。どのような内容で番組を進めていくか台本が作られます。元会社勤務の私としては、そのように事前準備がしっかりしていることは、どのように進めればいいか分かるので、安心して番組に望むことができます。

今回の「楽市カフェ」は、1.ぬりえの魅力、2.ぬりえ美術館とは、3.お客様の反応、4.美術館ができるまで、5.ぬりえ美術館をする前はどんな仕事をしていたか、6.母の病気をきっかけに退社、7.日本のぬりえ文化を海外に! 8.大人のぬりえブーム、9.これからの夢、という構成でお話をさせていただきました。
この日は、着物でスタジオに伺いました。ぬりえと着物というのも相性がいいと思っています。なかなか美術館の中で毎週土日に着ていることはできませんが、講演会とか
このような特別の機会の時には、なるべく着物を着るようにしています。
スタジオに入ると、司会の大沼さんから「今日はお着物ですね。」と紹介を受けましたが、着物姿というのも珍しいからでしょうね。

残間さんは私と同じ学年だったそうなので、きいち世代ですから、ぬりえが大変懐かしかったようです。音楽が流れている合間に、ぬりえをして楽しんでいらっしゃいました。
 お話の中で、ぬりえ美術館開館のきっかけになったことのひとつに、「以前の会社にいたときにフランス出張があり、そこでフランスの文化と遭遇したことがカルチャーショックとなり、日本文化を見直すきっかえになった」、ということをお話したのですが、1980年代に、「女性が仕事で海外に行っている人がいたのね」と大変びっくりされたようでした。
確かにあの当時国際部関係は別ですが、国内部門の場合は男性でも海外に出張をするということは珍しい時代でした。しかし、担当者ということで、女性でも出張をさせてくれた会社は本当に素晴らしい会社であったと思いますし、有難いことであったと思います。あの海外出張がなければ、日本文化に関心を持たず、さらに「ぬりえ」が日本の文化の一つという思いにも至らず、ぬりえ美術館の開館もなかったと思います。

2010年開催予定のパリの「世界のぬりえ展」
今まで海外を歩いて、種をまいていたことが実を結びそうな計画があります。それは、パリの子ども図書館から2010年に「世界のぬりえ展」を開催するので、日本のぬりえの協力をお願いされ、コラボレーションをすることです。
子ども図書館では、10年前から世界の古いぬりえを収集し始めたのだそうです。図書館では本を読むことがメインです。そのためぬりえは塗るものですから、ぬりえ本は図書館になかったのだそうです。

しかし、「ぬりえ本をテーマにした図書館はどこにもないし、関心がない。だからこそぬりえの展示をすることに意義がある。」と子ども図書館のディレクターは、「世界のぬりえ展」を開催しようとしているのです。
ぬりえ美術館の考え方も同じです。ぬりえ美術館の開館時の2002年、ぬりえについてだれも関心をもっていませんでした。しかし子どもの頃、ぬりえは誰もがしています。だから美術館を開館して、ぬりえ文化の提唱をしているのです。

フランスは幼稚園教育の中に、ぬりえが取り上げられています。ぬりえを使って美術教育にも生かされています。幼稚園の子どもたちや先生たちに「世界のぬりえ展」を見ていただければ、他の国のぬりえと比較して、日本のきいちのぬりえの繊細さや装飾性、情緒性そして美しさをより深く理解していただけるのではないかと思います。 

そのために、いい展覧会になるように準備をしていきたいと思います。(館)

投稿者 Nurie : 17:55 | コメント (0) | トラックバック

2008年12月05日

11月の美術館便り

パリのぬりえ展報告
日本仏友好150年を記念して、今年はフランスと日本で様々な企画展が開催されています。在仏日本大使館のHP:
http://www.ambafrance-jp.org/article.php3?id_article=2210
その企画の一環として、9月30日から、パリでぬりえ展を開催いたしました。
(その一部は、ぬりえ美術館のウェブサイトに掲載していますので、ご参考にご覧ください)
パリのエスパスベルタンポアレの会場は、パリの1区、最寄駅は、メトロのシャトレ。
この会場に、在仏日本大使館 広報文化部公使、渡邊啓貴様をお迎えして、オープニングセレモニーを開始いたしました。
公使からは、「金子館長が個人的な努力で研究をされている熱意に心打たれた」ことからご臨席くださったこと、「又研究の成果を日本文化のひとつとしてパリで紹介された」とご祝辞をいただきました。大変お忙しい中を、公使には、ご挨拶の後に続く講演、並びにコンサートの最後までご臨席いただき、誠に名誉で光栄なことでありますこと、心より感謝申し上げます。

会場の田中代表に乾杯の音頭をとっていただき、展覧会が開催されました。会場には70名ほどのフランス人、日本人の方々が集まり楽しんでいただきました。
その後、別室でぬりえの講演会を開催しました。ぬりえの歴史的、文化的背景と現在のぬりえの状況、未来までを講演いたしました。
最後は日本とフランスの子どもの歌を、ドイツのカールルーエの大学で教鞭をとられておりテノール歌手でもある有馬牧太郎氏に歌っていただきました。伴奏は奥様の江村玲子氏でした。
来場されたフランスの方々から、非常に美しい、質が高い、繊細であるなどの感想をいただき、日本のぬりえの美しさが理解されていることが分かりました。会場ですぐに反応が返ってきますので、やはりフランスは芸術、文化の国であり、子どもの頃から芸術に触れ、教育され育まれて国民であるので、日本の良さ、魅力を感じることができるであり、そのようなパリで開催できたことを本当に嬉しく思いました。
その後も、会場で多くの方にお目にかかり、下記のような感想をいただきましたので、
ご紹介いたします。
1.フランスの方の感想です。
・この美しい展覧会に伺わせて頂きありがとうございます。神秘的で繊細で、クオリティーの高さを感じました。
・全てが装飾的で、文化を感じます。おめでとうございます。
・素晴らしい展覧会です。おめでとうございます。展示されている全ての作品が繊細で本当に美を感じます。自分の幼少の頃を思い出しました。ぬりえを再確認しました。
・とても美しい展覧会で、小さな女の子がとてもきれい。
・美しく興味深いです。感動しました。
・色合いがナイーブで繊細で、ぬりえを再確認しました。
・色合い、風合い、小さな女の子、小さな女性。ぬりえに興味を抱きました。
ありがとう。
・小さな主役の女の子に幼少の頃のノスタルジーを感じました。とても興味深かったです。
・とてもきれいな展覧会で根拠のある清清しさでした。ブラボー。
・とても愛らしい女性のデザインです。はるばるやってきてくれてありがとう
・とてもきれいな展覧会を子どもたちの為にありがとう。
・つたやきいちさんは私に捧げてくれた事があります。それは鉄腕アトム同様に私の青春時代をよみがえらせてくれた事です。日本にはこのように若い頃を感じさせる文化と、ダイナミックさエネルギッシュさを持った文化があります。おめでとう。
・全てが美しく神秘的。ありがとう。
・とても美しい展覧会です。ぬりえ文化に出会え感慨深かったです。紹介の方法もとても良かったです。ブラボー(フランス語 フォンテーヌ図書館長)
・この展覧会は私の想像を絶するほどに素晴らしく美しいものでした。私はここに私の最も良い友人とやってきて素晴らしい出会い(展覧会との)がありました。
・この日本からやってきたかわいい旅行者に、ありがとう。

2.日本の方の感想です。
・とても興味深い講演を拝聴でき光栄です。ぬりえの展示等なつかしさと共にじっくり味わうことができました。パリでこのような日本文化に触れる機会を与えて下さって有難うございます。
・さらりと通り過ぎるつもりが、すっかりはまってしまいました。「わたしのきいち」を読ませていただきました。ありがとうございます。
・夢を与える作品ですね。日常生活の忙しいものをフッと忘れさせてくれます。いいものは人の心を動かしますね。
・なつかしい、あたたかい絵でほっとします。
・子どもの頃、ミスタードーナツのおまけで、きいちを知りました。大事に宝箱にしまったままです。(館)                          

投稿者 Nurie : 17:00 | コメント (0) | トラックバック

2008年11月05日

美術館便り(8月~10月)合併号(2)

キューピーさんのぬりえ
      
キューピーが最初に発表されたのは、1909年発行のアメリカの婦人雑誌「レディースホームジャーナル」誌12月号誌上で、ローズオニール自身が作ったキューピーの物語「The KEWPIES' Christmas Frolic」にイラストとして登場しました。
キューピー「KEWPIE」という名を創作したのもローズオニールです。

「ローマ神話に登場するキューピッドCUPIDは、人々のこころにいたずらをするけれど、わたしのキューピーには愛だけをはこんでほしい…」という願いで、「KEWPIE」という名前を考えだしたそうです。

日本に初めてキューピーが登場したのは大正4年頃(1915年)と考えられます。海を渡ってきたキューピーは、大ブームを起こし、土製やセルロイド製のキューピー人形をはじめ絵はがき、本、手芸、おもちゃなどに登場しました。
大正6年(1917年)、森 鴎外は、キューピーを自分の娘にプレゼントしているという記録が残っているそうですが、それ程キューピーが人気になったことを示しています。
 
和風のぬりえ
      
「弥生」「六玉川」「たけくらべの美登里」など歌舞伎のお芝居や踊り、小説のなかから題をとったぬりえが多くあります。
当時は、下町では長唄などがお稽古されていたそうですから、子どもたちもこのような歌舞伎や芝居などに出てきたものが日常的に知れ渡っていたということですね。今ならさしずめ、映画やテレビの流行り物ということでしょう。どの絵も、着物の柄や背景まで、緻密に描き込まれています。               
たけしのぬりえ
      

たけしは、昭和9年から25年まで活躍したぬりえ作家です。和製ベティーさんも、和風の着物姿も、洋風のものも幅広く描いています。たけしも優しい人柄を感じる少女を沢山描いています。70代の来館者の中には、たけしという作家名を覚えている方もいました。ずいぶん流行ったようで、たけしの偽物も沢山でたようです。
たけしのぬりえHP URL:http://www.naduna.com

擬人化ぬりえ
   
   
擬人化したぬりえも数多く描かれています。キューピー、象、うさぎ、すずめ、などです。すずめは、童謡に「すずめの学校」や「舌きりすずめ」の童話があるので、その影響と思われますが、擬人化ぬりえのなかでも、すずめが一番多く集まっています。
擬人化ぬりえは、アニメの原型ではないかといわれている「鳥獣戯画」のなかに擬人化が見られますが、擬人化という考え方は、日本人のなかに、八百万の神の信仰があるため、動物でも植物でも擬人化をするいうことが、受け入れやすい考え方であり、作りやすいものだったのではないかと思います。

昭和10年代のぬりえを楽しんでいただけましたか。初めて見るぬりえばかりで、驚きだったとことと思います。
日本のぬりえの伝統を少しでも感じ取っていただければ幸いです。

これからもぬりえの寄贈を始め、ぬりえに関する情報提供のご協力をよろしくお願いいたします。(館)

< 年 表 >
昭和元年(1926年) 12月25日 大正天皇崩御で、昭和元年となる
昭和2年(1927年) 上野-浅草間にわが国初の地下鉄開業
・モボ・モガ(断髪、ロングスカート、ハンドバッグ)全盛
昭和4年(1929年) 10月24日 世界恐慌始まる
・初のトーキー映画、洋画「進軍」封切り
昭和5年(1930年) 天長節の祝典が行なわれ、皇居で300年ぶりの天覧相撲
・高畠華宵便箋爆発的人気・松本かつぢ「少女世界」「少女の友」にデビュー
昭和6年(1931年) 満州事変始る。 東北、北海道の冷害、凶作で家族離散の悲劇続出
・中原淳一フランス人形展で評判に、「少女の友」にも執筆開始
・紙芝居黄金バット大ヒット
・米アニメでベティー・ブープが端役で初出演
・「パリの屋根の下」「モロッコ」
昭和7年(1932年) 上海事変 5.15事件
昭和8年(1933年) 国連脱退
昭和9年(1934年) 溥儀、満州国皇帝となる
・竹久夢二没
・「ミッキーマウス」人気
昭和10年(1935年)満州皇帝、溥儀来日。平均寿命男44.8歳、女46.5歳
・蕗谷虹児「花嫁人形」出版
・シャーリー・テンプル、「ポパイ」が人気
昭和11年(1936年)青年将校のクーデター(2.26事件)。第11回ベルリンオリンピック
・キューピー人形がブーム
昭和12年(1937年)日中戦争勃発。全国各地で千人針、慰問袋盛ん
昭和13年(1938年)国家総動員法公布。灯火管制規則実施
・「モダンダイムス」「舞踏会の手帖」
・「オーケストラの少女」
昭和14年(1939年)第二次世界大戦勃発。地下鉄新橋-渋谷間開通。
学生の長髪、パーマネント禁止
・中原淳一ひまわり開店
昭和15年(1940年)日独伊三国同盟。紀元2600年祝賀行事が盛大に行なわれる
・邦画「支那の夜」
昭和16年(1941年)12月8日ハワイ真珠湾空爆開始する。日米開戦
・李香蘭が日劇に出演、大人気
昭和17年(1942年)ミッドウェー海戦に大敗。みそ、醤油、塩が配給制となり、衣料が点数切符制になる
昭和18年(1943年)ガダルカナル島撤退。アッツ島玉砕・学徒動員令
・空襲にそなえ上野動物園の動物を毒殺
昭和19年(1944年)レイテ沖海戦。神風特攻隊。学童集団疎開第一陣
昭和20年(1945年)日本無条件降伏。第二次世界大戦終結

*参考図書「昭和生活文化年代記」1991年三國一郎著、 「ベティー・ブープ図鑑」、
「美しく生きる中原淳一その美学と仕事」、「松本かつぢの世界」

投稿者 Nurie : 10:04 | コメント (0) | トラックバック

2008年08月07日

美術館便り(8月~10月)合併号(1)

平成20年夏の企画展(8月~10月)
昭和10年代のぬりえ展~きいちのぬりえの時代以前にも輝いていた昭和初期のぬりえ~

08年はいろいろ記念すべき年です。
7月29日テキサス州アーリントンでのテキサス・レンジャーズ戦にて、イチロー選手が日米通算3000本安打を記録しました。素晴らしい実績です。8月8日からオリンピックが始まり、日本の選手の活躍を期待されます。
又今年は日本と外国(米国、オランダ、ロシア、英国、フランスなど)が1858年に修好通商条約を結んでから150年の年でもあります。150年を記念して、日本とフランスでは、「日仏友好150年」の記念企画展が開催されています。このような特別な年にパリでぬりえ展を開催いたしますが、大変嬉しく思っております。

私がぬりえ美術館を開館するようになった背景には、フランスに行って、フランス文化のお蔭で、日本にも素晴らしい文化があるということを気づかされたということが大きく影響していると思っております。
日本の文化に関心を持つうちに、ぬりえに結びつき、ぬりえを文化にしていきたいと、この美術館を開館しぬりえの研究を続けております。

日ごろは、昭和20年~30年代のきいちのぬりえを中心に展示をしておりますが、開館6年目となる今回の企画展では、きいちのぬりえ以前の時代のぬりえをご紹介したいと思います。そこには、日本の文化や伝統がさらに色濃く残っています。
どうぞ昭和10年代のぬりえ展をお楽しみください。

【時代背景】
大衆社会の到来
大正末から昭和のはじめにかけて、日本人、とくに都市生活者の生活は大きくかわった。(1)マス・コミュニケーションの発展によって、人々の意識の平準化がはじまり、(2)交通の発展によって、人と物の移動が容易になり、共同体意識が崩れはじめたこと、さらに83)太陽精算による安価で便利な生活用具が普及したこと、による。
和服が機能的な洋服に変わり、都市サラリーマンが中間階級として大きな比重を占めはじめた。現在の日本社会の原型は、このころに姿をみせはじめたのである。女性が職場に進出し、「自由恋愛」も多くなった。(集英社「昭和の歴史3」)

モダン風俗=ア・ラ・カルト
昭和に入ってから、様相は地正気にくらべると洗練されたものになる。それとともに、和装も洋装の影響のせいか、体の線をみせたスマートなものになる。こうしたことは、(1)女学校で洋服を着た世代が多くなってきたことのほか、(2)大正期には和服派だった上流階級や中産階級の上層部が洋装に転向したこと、さらには、(3)当時のことばでいえば、「職業婦人」が増加したことによる。様相はパリ・モードが直接日本にはいってきて、日本も国際的なファッションの一環に組み込まれる。ただし、こうした美しい女性の衣装は、②中戦争によって禁止されたから、モダン風俗の命はわずか10年に満たなかった。
(集英社「昭和の歴史3」)

10年代は、戦争の影が徐々に重く人々の生活を覆っていき、戦争に突入していった時代です。それでも、すべての生活が真っ暗だったかというと、そういうわけでもなかったようです。
「本当に食うや食わずになっていくのは、昭和19年ごろ、それも東京だけで、地方ではヤミで売る物があったのだ」と「昭和生活文化年代記」の中で山本夏彦が書いています。
モガ、モボなどが銀座に現れ、音楽、映画など日本の流行が銀座から生まれていきました。
シャーリー・テンプル、ミッキー、ベティーさん。オーケストラの少女のディアナ・ダービンなどが映画を通じて人気となりました。ぬりえの世界にも当時の流行ものが描かれて、子どもたちの心を満たしていたのです。

「ヌリエヤサン」ぬりえの販売方法

ここに大変貴重な、戦前のぬりえの販売の様子を表したぬりえがあります。昭和20~30年世代の方は、ぬりえは駄菓子屋さん、文房具屋さんで売られているものと知られていますが、戦前はどこで売られていたのでしょうか。 昭和10年代には、ぬりえはバラで売られていたのだそうです。
「縁日でぬりえを買うのが、醍醐味だった」と来館者の方の弁ですが、このキューピーさんの「ヌリエヤサン」の絵は、その当時のぬりえの販売状況が描かれています。

ベティーさんのぬりえ
      
      
ベティー・ブープは、1930年、アメリカのマックスとデーブのフライシャー兄弟の漫画プロダクションが生み出したスターです。1931年、ベティー・ブープは、パラマウントの漫画作品「ビン坊の結社加盟」でビン坊の端役として現れ、その後瞬く間に人気がでて、圧しも押されぬスターになりました。ベティー・ブープの職業をご存知ですか。彼女は、歌手であり、スターなのです。
ベティー・ブープは、日本でも大人気となり、様々な和製ベティーさんの商品が生まれています。お人形は勿論のこと、宣伝広告に、双六、かるた、羽子板、メンコ、そして今回展示しているぬりえなどに描かれました。
ぬりえには、ベティーさんの「藤娘」「お鶴」「花嫁さん」「王女様」等、あらゆる格好のベティーさんがいます。「散歩」に見られる服装には当時としては、大変モダンでおしゃれなスタイルで、エレガントな昭和10年代ファッションの時代の先端がぬりえにも表現されて、少女をとりこにしたことが伺えます。当たりくじの判が捺されたぬりえもあります。ぬりえを買う楽しみを増加させていたことと思います。

1930年代から1960年代までの和製のベティー・ブープのコレクションが本になっていますので、どうぞご覧ください。
「ベティー・ブープ図鑑」安野隆コレクション 光芸出版

投稿者 Nurie : 09:59 | コメント (0) | トラックバック

2008年08月07日

2008年7月の美術館便り

日仏交流150年
今年は日本が開国をして修好通商条約を結んで150年になります。 
NHKの大河ドラマ「篤姫」でも、ちょうど今ぺリーが将軍に会いたいという要望をだしている頃の話を放送していますが、ペリーが神奈川沖に来たのが1954年(嘉永6年)、1958年(安政5年)6月19日には日米修好通商条約を結んでいます。
アメリカに続き同じ年の7月10日には、オランダ、7月11日にはロシア、7月18日には英国と修好通商条約を結び、フランスとは、9月3日に結んでいます。
明治維新に始まる日本の近代化のため、日本はフランス人がもたらす当時最先端の技術や知識を取り入れました。又、フランスでは、浮世絵・絵画・陶磁器などの日本美術がフランスの芸術の世界に大きな影響を与え、印象派やアール・ヌーボーの基礎になりました。その後も、芸術の都として、華の都としてパリは日本人の憧れの都として存在しています。
日本とフランスでは、この修好通商条約を結んで150年を記念して、「日仏交流150年」と題して、両国で様々な記念展覧会を開催しています

今年9月30日から、パリでぬりえ展を開催いたしますが、「日本のぬりえ原画展」もこの一環で開催されるものです。
このぬりえ展は、日本大使館の後援もいただきましたので、先月の6月30日に、広報・文化担当の渡邊公使に表敬訪問をさせていただきました。
 
バガテル公園の「きもの展」パリ滞在中に、バガテル公園内で、日仏交流150年企画の一つである文化学園の所蔵する着物の展覧会が開催されていましたので見学をしてきました。会場に入るなり、日本の文化、伝統を強く打ち出した展覧会と感じました。
展覧会のリーフレットの表紙絵は、ボルドー色の桜の婚礼用の着物。衣桁にかけられた着物と御所車に桜が組み合わされた刺繍が豪華な着物が使われていました。
会場にいらしたフランス人ご夫妻が、表紙絵の着物に見入っていらしたので、感想をお聞きしてみたところ、「素晴らしい!素晴らしい!」と日本の着物に感銘を受けた様子でした。
バガテル公園がバラなどの植物で有名な公園であることから、花、草、木のモチーフを四季で表現するコーナーを中心に、婚礼の着物、宮中の方の着物、コシノジュンコさんの着物などが展示されていました。
伝統的な着物の柄の素晴らしさ、四季を意識した日本の着物の楽しみ方、例えばあやめにトンボのエスプリなどはパリの人々に、十分楽しんで、理解してもらえるものと思いました。
現に会場には入場のための行列ができるほどの人気であるそうです。
四季、草花だけでなく、まだまだ日本には着物のテーマがいくつもあるので、また別の機会にその他の着物をパリの方に紹介できるといいのではないかと思いました。
展覧会見学の後に、公園内にあるレストランに昼食をとりに立ち寄りました。訪れた日が快晴で湿気も少ない大変爽やかな日でしたので、真っ白なテントがおかれた野外のレストランは見る間に満席になりました。そのレストランには、つい先日アメリカのブッシュ大統領夫人のローラさんがお忍びで昼食を取りに見えたそうです。
日本の着物展と野外のフレンチレストラン、そこには「文化」が共通項として流れていると感じました。

「パリのぬりえ展」
日仏修好通商条約を結んだのは、旧暦の9月3日でした。新しい暦では、10月9日になります。この条約を結んだ日はぬりえ展の開催期間中に当たります。パリのぬりえ展が、150年前の条約を結んだ記念すべき年に開催されるだけでなく、条約を結んだ日に当たっているとは、何と幸運なことかと喜んでおります。
<ぬりえ展の会期、会場>
開催期間:9月30日(火)から10月11日(土)まで
会  場:エスパスベルタンポアレ
住  所:8-12,rue Bertin Poiree,75001 Paris
U R L: http://www.tenri-paris.com
 パリのぬりえ展では、「日本のぬりえ原画展」と題しまして、ぬりえが入っていました袋の表紙絵の原画を展示いたします。この色鮮やかでKAWAIIぬりえの表紙の原画は、きっとパリの人々の目を驚かし、ぬりえの線の繊細さ、洗練さに感嘆し、日本のぬりえの素晴らしさを理解していただけるのではないかと今から期待をしております。

ぬりえの講演パリでは、リセインターナショナルサンジェルマンアンレイ校ならびに、パリ大学ディデロと東洋言語大学において講演会を開催し、日本のぬりえの文化的背景や日本のぬりえ状況について、講演をする予定です。
2006年のニューヨークのぬりえ展に始まり、2007年のドイツのカールスルーエ市、そして3年目に当たる2008年はパリのぬりえ展と大学における講演会と少しづつですが、ぬりえについての情報発信も進んで参りました。
これからも、ぬりえ文化の推進のフロントランナーとして、歩んでいきたいと思っておりますので、皆様のご支援をよろしくお願いいたします。(館)

投稿者 Nurie : 18:53 | コメント (0) | トラックバック

2008年07月12日

6月の美術館便り

今月は、保育学会のシンポジウムをご報告をしたいと思います。
保育学会の報告

第61回保育学会が、名古屋市立大学人文社会学部山の畑キャンパス5月17日(土)~18日(日)に開催されました。
名古屋には、万博の時に行きましたので、早3年ほど経過しています。万博以来大変景気がいいと聞いていましたが、駅前のビルが大きく変わりモダンな建築になり、大変賑わっているのに驚きました。高島屋が若者に人気と聞きましたが、ビルの上のレストラン街はフロアも素敵にデザインされ、レストランは混雑しており、景気がよいことが実感されました。

保育学会は両日とも大変いい天気に恵まれ、特に17日は夏日という暑さの中開催されました。企画シンポジウムは5つのテーマがあり、これに加えて2つの特別企画が開催され、このほかに口頭発表497件、ポスター発表191件、VTR発表5件、自主シンポジウム20件、総計713件という大変大規模の学会でした。
名古屋市立大学人文社会学部山の畑キャンパスの広いキャンパスもシンポジウムに参加の人々で一杯でした。

17日のポスター展示

17日は、シンポジウムをご一緒させていただきました尾崎康子先生、竹井史先生がポスター発表、「子どもの表象機能を育てるぬり絵の開発」をされましたので、会場の体育館を見学しました。
子どもたちに、どんなぬりえがふさわしいか、開発されたぬりえと子どもたちがぬったぬりえとともに、ポスター展示がされていました。
参加者は展示されているポスターをぐるっと見て回り、自分の関心のあるテーマの提案者に質問をしていきます。提案者と見学者の距離が近いので、見やすく、質問も気軽にできる雰囲気でした。又、体育館の中には、保育、教育関係の出版社や保育用玩具などの販売ブースがあり、冷房のない体育館の中は熱気で一杯でした。
  
18日の自主シンポジウム18日(日)は15:10~17:10まで、「保育におけるぬり絵の意義を問いなおす」で発表させていただきました。20名ほどの方が参加されました。
当初はぬりえというテーマから、幼稚園の先生方が参加されると思っていましたが、大学の先生や学生の方々の参加が参加されたようでした。
[企画主旨] の「これまで,日本において,ぬり絵は保育の中に正当に位置づけられてこなかった。ぬり絵の意義を問うこともなく,美術教育の領域においては,それは子どもたちの創造性を損なうものとして,子どもの表現活動の領域からは排除される傾向にあった」にありますように、今までぬりえのことが提案、発表されてこなかったことが不思議ですが、今回初めて 心理学、脳科学、美術教育、美術館などの分野からぬりえについて提言がされたのでした。

発表内容●発表はまずぬりえ美術館から「歴史的背景と海外のぬりえ状況」を発表しました。海外での日本人気の中で、日本では今ぬりえが話題になっているが、これは変化する今の状況の中でぬりえが時代の流れにあっている新しいものであることをお伝えしました。海外のぬりえ実態としてはアメリカ、ロシア、イタリアの3カ国の状況をお伝えしました。
●尾崎康子先生からは、「心理学と脳科学からみたぬり絵」と題しまして、丸を塗ることの発達段階の状態やぬりえをしているときの脳の活動状態をニルス(NIRS)の装置を使って得た結果の報告等がされました。
子どもはぐちゃぐちゃ塗りをしますが、それも発達段階の一つでありますから、じっと子どもの成長を見守っていただくと、大体57ヶ月になるときちんと丸が塗れるようになってくるということが表をつかって発表されました。
●神吉脩先生は中学の美術の先生であった経験から、ぬりえのテーマについて考えられ、ゴッホのひまわりのオリジナルとレプリカの例から絵画にはぬりえ的技法が使われているという、実は美術教育の中にもぬりえ的なことをしていることが紹介され、「創造性を育むぬり絵」を提言されました。
 今まではぬりえについて語られてこなかったそうですが、今後も保育の中で、ぬりえが研究されることを願い、参加者で込み合う名古屋市立大学を後にしました。

名古屋名物
さて、名古屋名物といえば「ひつまぶし」ですが、味わってきました。お店につきますと、20名ほどの行列です。何分程度待つか聞いてみると20分程ということでしたので、行列の中に加わりました。その後もぞくぞくとお客様が来ますが、皆さん待ち時間をよく知っているのでしょう、帰る人もなく並んでいきます。
本当に20分で席につき、「ひつまぶし」を頂きました。東京でも「ひつまぶし」が食べられるようになりましたが、食べ方はまずご飯を四等分して、最初はそのまま、二膳目は薬味を加えて、三膳目はお茶づけで、最後はお好みでたべるという、なんとも飽きない食べ方で、堪能しました。

 来年の保育学会は、2009年5月16日(土)・17日(日)千葉大学で開催が予定されています。(館)

投稿者 Nurie : 15:39 | コメント (0) | トラックバック

2008年05月30日

5月美術館便り

今月は保育学会第61回の中で、「保育におけるぬり絵の意義を問いなおす」と題して、保育におけるぬりえのシンポジウムが開催されますのでご案内いたします。
ぬりえは子どものときに誰もがしているものですが、残念ながら今までは保育の分野でも、美術・絵画の分野でも見過ごされていました。ぬりえ美術館を開館して、8月で6年目を迎えますが、やっと少し研究をされるようになり、大変嬉しい限りです。
ぬりえ美術館として、今回は「保育」という分野において、「ぬり絵の意義を問いなおす」という趣旨に賛同しまして、シンポジウムのパネリストとして参加いたします。

1.保育学会とは
日本保育学会は乳幼児保育の実践者と研究者とが協力して保育研究を進めることを目指し1948年に設立された、学会で、http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsrec/

2.保育学会第61回の開催会場・日時
今回の会場は、名古屋市立大学人文社会学部山の畑キャンパス(名古屋市)で2008年
5月17日(土)、18日(日)に開催されます。
住所:名古屋市瑞穂区瑞穂町字山の畑1 (大会準備委員会:TEL:052-872-5170)
大会URL:http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsrec/hoiku61/index.html■ 「保育におけるぬり絵の意義を問いなおす」のシンポジウム開催日時
5月18日(日)15:10~17:10 開催

3.シンポジウム「保育におけるぬり絵の意義を問いなおす」の趣旨・内容
[企画主旨]
「これまで,日本において,ぬり絵は保育の中に正当に位置づけられてこなかった。ぬり絵の意義を問うこともなく,子どもの嗜好的活動として保育の合間に行われてきたにすぎない。美術教育の領域においては,それは子どもたちの創造性を損なうものとして,子どもの表現活動の領域からは排除される傾向にあった。
しかし,そのような背景とは裏腹に,ぬりえ絵を好む子どもは多く,子どもにとってぬり絵は明らかに,幼児期の遊び文化の一端を担ってきたと言える。

近年の脳科学により,ぬり絵を行うことにより脳が活性化されることが明らかになった。また,発達心理学からは,ぬり絵は決して創造性を損なうものではなく,逆に想像力を育てる手だてとして重要であることも提言されている。美術教育の領域においてもぬり絵に対する研究が始まりつつある。そこで,本シンポジウムにおいては,ぬり絵に関する脳科学や心理学の最新の研究成果を報告するとともに,表現活動におけるぬり絵の意味,さらには,日本や世界のぬり絵の歴史的側面からぬり絵を取り上げ考察することにより,保育におけるぬり絵の意義を考えたい。」
 心理学、脳科学、美術教育、美術館などの分野からぬりえについて提言をしていきます。

4.ぬりえ美術館からの提言概要
[日本のぬりえ文化の歴史的背景と海外のぬりえ状況からの提言]
今海外では,大変な日本人気である。その中心は,マンガ・アニメなどであり,従来の伝統的な歌舞伎,能,生花から,寿司などの和食,武道,建築,ファッション等,が新しい日本文化として広く海外の人々を魅了している。
今世界に受け入れられている新しい日本文化を担っている人たちは,豊かな社会に生まれ,たぶん子ども時代にしっかりとしたひとり遊びをしてきたはずであると思われる。そうでなければ輝かしい個性を発揮することはできない。子ども時代に自分ひとりで熱中する遊びをすることは重要で,それらの遊びはたくさんあるであろうが,その代表的なものが,「ぬりえ」である。すなわち,子ども時代に「ぬりえ」を塗ることは,個性を磨き,人格形成に役立ち,その結果新しい文化創造に結びつくものなのである。
 しかし,現状はぬりえは子どもが暇な時間を過ごすものという捉え方が一般的であり,専門家からは創造性をなくすものという批判文こそあれ,研究はほとんどなされてこなかった。同じ時期に子どもが好む絵本と比較すると,絵本は優秀な作家や研究者を輩出し,美術館も数多くできているという大きな差がある。
今回は,ぬりえの歴史的な背景をさぐり,また調査に訪れた海外のいくつかの国のぬりえ状況をお伝えすることにより,新たにぬりえの意義を認識し,その活用方法を今後の保育におけるぬりえの活動の発展の参考にしていただきたい。

5.他のパネリストの概要
5-1.心理学と脳科学からみたぬり絵]相模女子大学人間社会学部 尾崎康子教授
 心理学において,子どもの描画に関する研究は古くから行われており,現代でも子どもの認知発達を知る上で重要な研究課題となっている。ところが,「塗る」ことの発達研究はこれまで何故か行われてこなかった。シンポジウムでは,心理学と脳科学によって得られた研究知見をもとにぬり絵の意義を提言する。
5-2.[美術教育におけるぬり絵の効果と活用]神戸親和女子大学発達教育学部 神吉脩講師
ぬり絵はどんな人にも絵を描く意欲と楽しさを与え,描画力を高めた。ぬり絵を仕上げる集中力と達成感はきわめて大きい。たとえ同じ輪郭を使っても,着色された作品は同じものがなく,どれも個性的であった。保育におけるぬり絵の活用にあたっては,子どもが喜ぶとか,教材が手軽だとかというだけで安易に実践するのでなく,子どもの状況に合わせ,描材や配色,混色などを考慮して取り組むべきであろう。

司会・指定討論者:愛知教育大学教育学部創造科学系 竹井史准教授

子ども時代が大変重要な時代であることは誰もが認めることだと思います。保育の分野でのぬりえの意義が見直され、保育園、幼稚園において、積極的な活用がなされるよう、またこれから研究者が増えてさらに研究が深まり、進んでいくことを願って、講演をしたいと考えております。(館)

投稿者 Nurie : 14:15 | コメント (0) | トラックバック

2008年05月19日

4月美術館便り


今年の桜はあっという間にほころびました。毎年桜の開花が早まっているのではないかと思いますが、東京の桜の開花宣言があった翌日桜の開花を予報する標準木がある
靖国神社に行ってきました。標準木の周りには大勢の人がカメラを向けて写真を撮っていましたので、すぐに分かりました。(標準木の周りには緑色の柵が囲ってありますので、目印になります)午後になると更に花びらが開き、訪れた人を喜ばせていました。

ぬりえ美術館にも1本桜があります。ウコン桜といいます。漢方薬のウコンから来たもののようです。花が開花し始めた頃に、葉と花びらが金色に見えますので、そのような名前がついているのでしょう。今年は4月1日ころから一つ、二つ咲き始めましたので、4月5日、6日、12日、13日頃まで、楽しめるのではないかと思います。
全体に咲いてきますと葉が緑、花は薄緑色の涼やかな色合いになります。染井吉野が終わりましたら、美術館のウコン桜を見にいらしてください。

グローバル化?
グローバルになるとこうなっていくのかという思うことがありました。先日海外で取材、調査をしてきたのですが、そこであった方は日本人の両親の元に生まれましたので
日本人ですが、お父様のお仕事で海外生活が長かったことから、三姉妹全員が外国に住んで仕事をしていて、三女の方は余り日本語が得意ではないというのです。こういう時代になったのかと思っていたところ、今度は日本でこれとは逆の事に出会いました。
テレビの取材で、レポーターとしてアメリカ人青年が来ました。両親はアメリカ人だそうですから、外見はまったくアメリカ人です。しかし日本語はぺらぺらでした。アメリカ人と思い、ニューヨークから来てくださったお客様の感想ノートをお見せしたところ、「僕は英語はダメなんです。特に筆記体は」という返事が返ってきて、またびっくりしました。どうしても外見が外人であれば、英語は分かるものと考えてしまいますので、驚かされたのです。このレポーター青年は、日本に3歳のときから住んでいるのでで、日本語の生活圏の中で育っていますから、英語は苦手となってしまっていたのでした。
日本人でも外国の方でも、このように自分の好きなところで暮らしていくような時代になっているのだと思いましたが、国とか言葉について考えさせられた出来事でした。

荒川区産業展
3月8日~9日にかけて第29回荒川区産業展が荒川綜合スポーツセンターで開催されました。この産業展は、モノづくりの街、匠の街、荒川大発見と題して荒川区の企業、技、等を一同に紹介するものでした。又都立産業技術高等専門学校による「人工衛星」打ち上げ紹介コーナーや先進ロボットのアザラシ型ロボット「パロ」との記念撮影や、研究用人間型ロボット「チョロメテ」なども展示され、新しい研究が紹介されていました。そして女性陣には、区内の美味しい味の即売がお楽しみで、いつも大きな人だかりで一杯でした。
ぬりえ美術館では、より多くの荒川区の方に知っていただきたいと思い、今年初めてこの産業展の「ぬりえの世界コーナー」に出展させていただきました。広報的には、荒川区の観光スポットのぬりえ美術館として紹介していただきました。
内容的には、昭和20年~30年代のきいちのぬりえをケース内に展示し、ご紹介しました。その場にぬりえ体験コーナーを設け、ぬりえを塗っていただいた方には、荒川区の方からきいちのぬりえの少女の記念スタンプを押し、ぬりえの絵葉書がプレゼントされました。
お天気にも恵まれ、会場では400人ほどの方にぬりえを塗っていただきました。懐かしいという声と共に、一人30分~45分ほど積極的にぬりえに取り組み楽しまれていました。産業展という見学の場所ですが、ぬりえコーナーは参加型であることが良かったのではないかと思いました。参加者はやはりお子さんの方が多かったのですが、きいちのぬりえは、子どもから大人まで楽しめるのも良い点だと思いました。
8日(土)には「お手伝い編」のぬりえに人気が集まり、9日(日)にはドレス編のぬりえが人気でした。8日は年配者の方が、9日は小学生が自分のお小遣いで購入をしていましたので、ぬりえの人気が分かれたようですが、子どもたちが、素敵なドレスやファッションが好きで憧れであるということは、昔も今も変わらないのだと、子どもたちと接して分かりました。

ニューヨークからのお客様
3月8日(土)に、06年にニューヨーク(NY)のぬりえ展を開催したときにお知り合いになった、スペースキディットのシンシアさんが来館されました。シンシアさんは、NYの22丁目の子供服店のオーナーです。彼女の店には、日本の可愛いキャラクターが沢山装飾として飾られています。きいちのポスターはもちろん、鉄腕アトム、鉄人28号、さとうのサトちゃんなどのフィギュアです。
始めはびっくりしましたが、彼女のお店の特徴ともなっている日本のフィギュアなどが置かれている背景は、グローバル化のお話しとも通づるのですが、彼女が育った環境にありました。シンシアさんは1959年~1962年まで幼少期に日本に住んでいたことがあり、米軍のベース内ではなく普通の住宅街で暮らしていました。そのため、日本の子どもたちと同じような経験をしてきているのです。昭和の30年代の雰囲気がご自分の原点になっていたのでした。
彼女のコメントは、「子どもの頃日本のこれらのイメージと一緒に成長したことは、私に多大な喜びと楽しみをくれました。とっても素晴らしく、チャーミングで、詩的であり、力強さに溢れています。ここに来れてよかったわ。ありがとう」

大事な子ども時代
子ども時代が大事な時代であることは、どなたも依存がないことだと思います。ぬりえ美術館にいますと、来館される方は、子ども時代にもどって、昔を振り返り、楽しく、懐かしく、甘い綿菓子のようなイメージで振り返り、いい時代を過ごしたとおっしゃいます。時代的には、貧しい、物やお金のない時代でしたが、この思いはどこから来るのでしょうか。それは「夢中になってぬりえをした」その夢中ということに尽きるのではないでしょうか。夢中にさせるほど素敵な絵であったから、できたことですが、夢中になるということが、こころの思い出をつくって、人生を形づくり、彩っていくのではないでしょうか。(館)

投稿者 Nurie : 22:27 | コメント (0) | トラックバック

2008年04月03日

ぬりえ美術館便り 2月号

 ぬりえがこのところ話題になっているのをご存知ですか?
 ぬりえ美術館は2002年に開館いたしましたが2006年に「大人のぬりえ」について大変多くの取材をいただき「大人のぬりえ」が話題でしたが、今は大人のぬりえ以外にもぬりえについての話題が多くなってきました。

 いくつか例をご紹介したいと思います。
 昨年夏に科学博物館で、恐竜のぬりえを描くことが行われました。恐竜の模型がある展示室でパソコン上で目の前にある恐竜の絵に色をつけることができます。さらにパソコンの前に立って自分のぬりえした恐竜と写真をとることができるというものでした。
 科学博物館では、ぬりえが人気になっていることを知って、どうにか自分たちの展示の中で使えないということで、ぬりえを始めたそうです。今後もぬりえという形でできることをいろいろ考えていかれるそうです。

 昨年11月から川崎大師で、仏様のぬりえが販売されることになりました。川崎大師も、ぬりえが静かなブームであること、子供から大人までだれもがぬりえならできるということ、他のお寺がまだどこもしていない等から、ぬりえを取り入れられたそうです。(ぬりえ美術館のブログにも記事を掲載していますのでご参照ください)

 ぬりえのコンテストがいろいろな分野で開催されています。JOMOは2006年から夏休みに全国で展開で開催しています。車の分野でもよくドラえもんやポケモンなどのぬりえコンテストが開催されています。

 新しい捉え方のぬりえ、「携帯ぬりえ」という新感覚のぬりえもでてきました。「携帯ぬりえ」は、3月からの企画展でご紹介していきますので、楽しみにしてください。
 「携帯ぬりえ」とは、携帯でとる写真からぬりえの下絵が作れるという、誰でも手軽に楽しめるようにと言うコンセプトで生まれてきたものです。
 まず絵にしたい物を携帯電話で写真に撮り、それを添付ファイルにして下絵サーバーに送ります。10分ぐらい待つと、サーバーから作られた線画が戻ってくるので、それをプリンターで出力します。出力されたはがきサイズの下絵に色鉛筆で着彩して完成するというぬりえです。大変素敵なぬりえの下絵ができるのです。
 つまり、携帯電話とプリンターと色鉛筆さえあれば、直ぐにぬりえとは思えない素敵な色鉛筆画が描けます。下絵となる線画も単なる輪郭ではなく、ニュアンスを表現するスケッチ風の線画になっているので絵の邪魔になりません。
 「絵は描きたいが、うまく形が取れない、」「ぬりえは輪郭の線が残ってしまうので気に入らない、」「絵手紙ではヘタウマで良いと言われるがそれでは満足できない、」と感じている方々にとって喜ばれているそうです。
 このようにぬりえの捉え方が、従来の枠線の中にぬる、線画があるものという捉え方から、枠線の外にはみ出していくように、広がってきています。

 又、別の観点からみてみますと、昨年7月に「国際ぬりえシンポジウム」が開催されました。ぬりえがテーマになってシンポジウムが開催されたということが変化の兆しだったと思います。
 今年は5月に名古屋市立大学において、日本保育学会の、「保育におけるぬりえの意義を問い直す」と題するシンポジウムが行われます。ぬりえ美術館もこの場にパネラーとして参加いたします。
 従来ぬりえの研究文献は批判文はあっても、そのほかの研究書がなかったのですが、やっと保育会において、ぬりえを考える、見直すということが起こってきました。この保育のシンポジウムに関連して、幼児教育、保育のおけるぬりえをテーマにした本も出版される予定です。
 ぬりえ美術館では、ぬりえを文化に成熟させていきたいと願って活動をしていますが、その活動が少しづつ理解されてきているのではないかと感じています。

今月は久しぶりに来館者の声をご紹介したいと思います。
・自分が子供の頃は、友達と競いあって、このぬりえをしていました。昔のことを思うと、涙がでてきてし  まったりしました。53才女性
・いつ来てもとても楽しくてしようがありません。これで4回ぐらい来ました。また寄せてもらいます。K.I.
・感動しました。子供のころの、ふわ~っと包まれたような温かい気持ちになりました。ありがとうござい  ました。また楽しみにうかがいます。H.H.男性
・めちゃめちゃ可愛いかったです。美術館の雰囲気もとてもステキでした!!図工の授業の一貫で来ま  したが、とても良いレポートがかけそうです。W他3名
・昔々の小学生時代、田舎長野のえん側で友達と遊んだ頃の思い出がよみがえりました。もう一度あの 頃に戻りたく思います。T&M
・まさしく団塊世代の私は、着せ替え人形で遊びまた~遊びました~。空箱で部屋をつくり、きいちさん  のかわいいお人形を住人にして、家族にし、学校からかえって来て、遊びました~。なつかしい~。
・母がきいちのぬり絵が好きで本を買っていました。私も絵を見てすぐに大好きになりました!!ここに来 たくて来たくて、今日、やっとくることができてとてもうれしいです。母(弘前市)にも伝えようと思います。
・きいちのぬりえを、今日初めてかって、すごーーく楽しかったです。絵が全部すごくかわいくて、どれをぬ るか、すごいまよいました☆5年生A.T.
来館者の声の傾向は、開館以来ほとんど変わりありません。来館される皆様の気持ちは、同じなのですね。ありがとうございました。  

投稿者 staff : 13:24 | コメント (0) | トラックバック

2008年01月27日

ドイツのぬりえ展報告と「ぬりえを旅する」発行案内

あけましておめでとうございます。今年も皆様に楽しんでいただける企画でぬりえをご紹介していきたいとおもいます。今年もよろしくお願いいたします。

1.ドイツのぬりえ展の報告
昨年11月11日より12月2日までドイツのカールスルーエ市で開催いたしましたぬりえ展につきまして、ご報告をいたします。
1-1.ibz国際交流センター
ドイツは人口820万人ですが、トルコ人が1%になるなど移民の多い国です。そこで、カールスルーエ市の国際交流センター(以下、ibz)は、カールスルーエに来た移民の人々をはじめ外国の人が住みやすいように、又早くカールスルーエの暮らしに溶け込むように支援をしていくその中心センターであり、それぞれの国の人々が自国文化に誇りを持ち、守り、維持しようとしている様々な国の文化や伝統をお互いに尊重し、交流をはかっていく場であります。今年1年で150以上ものイベントが開催され、交流をしてきました

このibzならびに独日協会との共催で開催しましたが、まさに上述したibzの趣旨がドイツの人々に日本のぬりえを紹介し、ぬりえを通じて日本の伝統、文化を知っていただける最適な場所であるからでした。
展覧会の会期中、8回ほどロシア、オランダ、トルコなどの様々な協会や勉強会のメンバーが訪れ見学されました。ぬりえ展のDMやぬりえの用紙がカラフルでかわいいと、幼稚園などで使用されるために持ち帰えられていきました。

2.オープニングセレモニー(11月11日)
セレモニーは、独日協会のコーラス部の歌「村祭り」「紅葉」で始まり、日本語学校の子どもたちが「かごめかごめ」「はないちもんめ」などを歌い、メインとして、私の「ぬりえ文化 その歴史的背景」を約30枚のスライドを使い、ぬりえの発祥、きいちのぬりえの解説、ぬりえの現在と未来について、講演をしました。
講演後すぐに、質問をしに来られたドイツ人夫妻がいました。「美術館の建物が映っていましたが、これは公共的なものか、それともプライベートのものか」と質問されましたので、「個人でしているものです」と答えますと、「このような活動を個人的にされていることを、尊敬をします。カールスルーエに来てくれてありがとう」と感激されました。共感者がいたということは、今回の講演を理解してくれたといえるのではないでしょうか。
終了後、ぬりえを見る人びとに感想を聞いてみると、
Q.きいちのぬりえには、西洋が混じっているような気がするが何故か?(50代男性)
A.それは、このぬりえが戦後に描かれたものである。戦後、日本にはアメリカ文化がどっと入ってきた。先進国のアメリカに憧れた日本人は、西洋風なものを受け入ていたのですとご説明しました。
○僕はカワイイものが好きだから、とても興味がある。(30代男性)
○すべての絵にタイトルがついていて、そのタイトルの意味が面白い。(11歳少女)
○とてもきれいで楽しかった。(11歳少女)
○平和で純粋な喜びを伝えるもの。(60代男性)

今回ぬりえコンテストを開催したところ、ぬりえをした人からは、以下のような感想をいただきました。
○とても楽しく、ファンタジー豊かな気持ちになれた。(11歳少女)
○自由にぬりえをすることができてすばらしかった。その絵が後にどんな色彩の絵になるのか自分で決めることができた。(13歳少女)
○とても落ち着いた気持ちで集中してぬりえができた。(11歳少女)
○塗っていくうちにだんだん楽しくなってきた。(60代男性)
今回は、日本語学校の子どもたちがコンテストに多数参加してくれましたが、少しでもこのぬりえを通じて日本の文化や伝統、風俗に触れ、知ることができるので、ぬりえつかってほしいと思いました。
ぬりえは、集中できる、心の安定、創造力などの様々な効果を持っています。効用を理解していただいて、もう一度ぬりえについて考えていただきたいと思いました。

3.日本人気
ドイツのカールスルーエでも、首都のベルリンでも今、日本が大変人気です。ぬりえ展を共催してくださった独日協会のメンバーは、約200人ですが、そのうち日本人は17、18人で殆どがドイツ人です。
毎月一度、カールスルーエにある日本レストランで例会を開催しています。最近は、マンガファンの若者たちもメンバーになり、活躍をしているそうです。マンガというと、カールスルーエの本屋さんでも、「マンガの描き方」なるセミナーを開催し、小学生も参加するほどマンガが一般的になりつつあり、その普及ぶりに驚かされました。
マンガコーナーには、日本のマンガはもちろん韓国のマンガも入っており、いずれその中にドイツ人の描くマンガがはいてくる予感を感じました。

寿司も大人気で、寿司が縁で独日協会の会員になった人もいました。ぬりえ展のオープニングパーティーでも、のり巻きが提供され、真っ先に無くなるほどの、大人気の食べ物でした。
ベルリンでは、「一心」という寿司店に行きましたが、体育館ほどに広いレストランでありましたが、満席で、外に待つ人の行列が溢れていました。
寿司が健康的であると考えられていますが、お米が欧米の人にとっては、ベジタブルすなわち野菜と考えているようなのです。私の知人は、お皿にお米だけ盛って、それを食べている外人を見かけたそうですが、野菜サラダでも食べている感覚なのでしょう。
様々なきっかけを通じて、日本への関心がたかまることは日本にとってもメリットがあります。ぬりえもそのような日本の魅力の一つになれたらいいなと願っています。

4.「ぬりえを旅する」発行
「ぬりえを旅する」金子マサ・山本紀久雄 (小学館スクウェア)1200円(税込)

06年はニューヨーク、07年はドイツでのぬりえ展、その間にも海外に行き、ぬりえの調査をしています。幼稚園や子どもを持つ親たちへのインタビューやアンケート取材をしたり、出版社、図書館ならびに教育関連施設を訪問して調査をしてきました。
これまで訪問した国から、まずアメリカ、チリ、ロシア、イタリア、ベトナムの5カ国を調査、分析いたしました「ぬりえを旅する」を昨年12月21日に上梓いたしました。
日本のお客様からは「外国にもぬりえがあるのですか」とよく聞かれますが、外国では、「日本にもぬりえがありますか」とは言われたことはありません。しかし、大人のぬりえは外国にはまだありません。これはほんの一部ですが、それぞれの国によってぬりえの捉え方、認識には当然のことながら5ヶ国それぞれに違いがありました。
子どもなら誰でもするものと思うぬりえも、その国の経済状況によっては、ぬりえをしたことがないという国の人もいました。それとは反対に、積極的に、教育プログラムの中に取り入れ、子どもたちの学力向上に役立てている国もありました。
ぬりえは創造力をなくすという考え方が昔からありますが、イタリアでは、幼稚園、小学校でぬりえをしたところ、しないところで比較をしたと研究発表があり、はっきりと絵に違いが現れたと識者の方が言っています。ぬりえに創造力がないという点を、今こそ見直す時期にきているのではないでしょうか。

私たちの想像を超えた認識、捉え方には、これから日本がぬりえについて考えるときに、非常に参考になると自信をもってお勧めいたしますので、ぜひ、ご一読していただきますよう、よろしくお願いいたします。
ぬりえ海外レポートの欄をご参照ください。

投稿者 Nurie : 18:43 | コメント (3) | トラックバック

2007年12月31日

ぬりえ美術館便り 11・12月合同

11月11日(日)~12月2日(日)まで、ドイツで、「日本のぬりえ展 Japanische Nurie-Malerei」を開催いたします。

2006年、日本文化の新しい一面として、ニューヨーク(NY)で「ぬりえ展」を催し、世界に向けて初めて日本のぬりえを紹介いたしました。
最近海外では、日本が様々な分野で大変人気となっているのをご存知でしょうか。特に世界のアニメの6割が日本製といわれ、マンガ、アニメなどが日本のソフトパワーとして、世界中で大人気となり日本の魅力を広く伝播させています。
日本で生まれた大人向けのマンガが海外に発信され、子どもから大人までマンガ、アニメを楽しむことが、海外に普及して、世界中で楽しまれ、日本ブームの源になっています。

NYにおけるぬりえ展では、「きいちのぬりえ」の最大のポイントである線の美しさ、繊細さが評価されました。日本画の筆遣いを生かした揺らぎのない線、紙の中でのぬりえと余白の独特のバランス感覚、構成力を持って描かれたカワイイ日本の少女の絵のオリジナリティーがきちんと理解され、評価され、さらにはぬりえが入った袋の表紙絵の鮮やかな色彩がポップであると人気を博しました。

日本では、最近大人がぬりえをするという「大人のぬりえ」が人気となっています。
世界の中で、日本が高齢化率ナンバーワンということから、高齢者の研究が進み、「大人のぬりえ」に関しては、日本が世界最先端の国であります。しかし、世界中に高齢者の方がいらっしゃいます。ですから、日本から大人のぬりえが世界に広がる可能性があります。

そのためには、日本のぬりえの情報発信をしていくことが必要です。世界に受け入れられるぬりえとして、きいちのぬりえを、日本のぬりえの代表として、また日本文化の新しい一面として、ドイツに発信をしていきます。

今回の会場は、ドイツのカールスルーエ市 にあります国際交流センター(ibz)です。

<会場のIBZ>

<IBZのセンター長のシューハートさんと筆者>

さて、カールスルーエ市はどのような街でしょうか。
2015年にカールスルーエは誕生300年になる人口30万人のドイツ南西部に位置する都市です。近隣には高級リゾート温泉地として有名なバーデン・バーデンがあります。現在は科学、研究、先端技術の中心地として豊かな伝統を有した、学究の街であり、国の裁判所の最も重要な憲法裁判所および最高裁判がある司法の中心地でもあります。
 カールスルーエの歴史は、カール・ウィルヘルム辺境伯の時代に、星形に整備された都市の幻影を見たことから、1715年に礎石が築かれ、お城を中心に扇形に街が造られています。当時この街の都市計画は、ヴォルテール、ゲーテ、ナポレオンなどの人々を感嘆させたといわれているほど、画期的な都市造りの街でした。今でもその街並みは、周りの環境とあいまって「緑の扇の街」と呼ばれています。

カール・ウィルヘルム辺境伯のお墓のピラミッドの後ろにもお城が見えるのですが、どの道からもお城がみえるように都市計画された街です。

カールスルーエを代表するのは都市計画ばかりではありません。ヨーロッパ一と評価される100年以上の歴史を持つ先端的なトラム(市電)があり、世界各国から視察に訪れるという優れた交通システムを持っています。

<カールスルーエのトラム>
このトラムは、例えてご紹介しますと、都電荒川線が王子駅まで行くと、京浜東北線になり、東京駅まで行くと新幹線になってしまうという交通システムなのです。乗ってみないと想像しにくいのですが、一度私もこのトラムでバーデン・バーデンまで行ってみて、やっと仕組みが理解できました。

又、カールスルーエには、7つの大学がある学究の街でもあります。中でもカールスルーエ大学は、ドイツの三大エリート大学の一つであり、カール・ベンツも学びました。現在カールスルーエ大学を中心としてハイテク・情報産業が発展しています。

カールスルーエ市は上述のように、ドイツの地方分権国として、その特徴を生かした昔からの都市計画の美しい街並と緑の環境、司法・大学・最先端技術の街として、知的、文化的水準の高い街として位置づけられる街なのです。カールスルーエは文化的なぬりえ展を開催するに相応しい街でありますので、今回の開催となりました。

開催に当たっては、①ぬりえ美術館、②独日協会、③国際交流センターの3者の共催で開催いたします。
独日協会は、日本文化をドイツの方々に紹介することに従来から積極的に活動をしております。既に2005年に「日本のマンガ展」を開催しており、マンガ・アニメのソフトパワーの源流ともいえるぬりえを日本文化の一つとして、ドイツの人々に紹介することに賛同いただきました。

<カールスルーエの本屋さんのマンがコーナー 沢山の日本のマンがありました>
カールスルーエ市国際交流センターは、さまざまな国の相互理解のために、各国の文化交流に大変高い関心をもって活動をされています。今回は、ぬりえという女性なら誰もがしたことがあり、誰もが親しめるものとして、カールスルーエ市に住む様々な国の人々の関心を呼ぶ企画として、展覧会の開催に賛同いただきました。
 
ドイツにおける「Japanische Nurie-Malerei」では、ぬりえコンテスト、ぬりえに関する講演会なども開催し、日本文化を楽しんでいただきます。
ドイツでの様子は、またブログなどでお伝えしていきます。乞うご期待。(館)

投稿者 Nurie : 21:26 | コメント (0) | トラックバック

2007年11月01日

ぬりえ美術館5周年企画 8月~10月合併号 (2)

コマーシャルになったきいち・展覧会など
1970年代
1978年 「資生堂 キイチのぬり絵展」  
第二次きいちブームのさきがけ
以後、Okadaya More's (モアーズ)、LAFORE (ラフォーレ)、カルピスなど、ショップやデパートの広告をはじめ、女性や子どもに関係の深いイベントなどの広告に起用される。

1980年代
1986年 「ミスタードーナツ 」景品として使われる。昭和30年代のノスタルジー
1990年代
1993~94年 
「テレビ朝日 テレビ局のキャンペーン」  

明るく元気な広告
「バブルがはじけて、世の中が精彩を欠いたころだっただけに、明るく元気な広告にしたかった。"ON"という積極的で肯定的なコピーに、懐古趣味的な"ぬりえ"を合わせたことで、よりインパクトのあるものに仕上がった」とその起用の経緯について、テレビ朝日の当時の担当者は語っている。
この広告は、1993年度朝日広告賞の色刷広告・多色部門賞を受賞。
雑誌<広告批評>などでもインパクトの強い作品として評価され、話題となった。

1999年 「早稲田塾 入塾キャンペーン」

2000年代
2003年 
「早稲田塾 入塾キャンペーン」

駅張りポスターや車内吊り広告ならびに、JR車内の液晶テレビなどで展開され、高校生の親たちがターゲットキャンペーンでありましたが、おばあさんを含め親子三代にわたり「かわいい」と評判となった。

商品展開(商品化されたもの)
1999年~2005年 「フェリシモ トリビュート21」
世界中のこどもたちの夢をかなえるためのチャリティークリスマスチャリティーのお皿に描く。

2004年 「サントリー ぬりえ麦茶」 やかんで沸かした懐かしい麦茶がコンセプト
コンビニで販売され、花火やお祭りなどのイベント開催場所などで人気となった。
2007年 「CD おおたか清流」 
一番新しいところでは、昭和30年代のバラードの名曲をおおたか清流が歌ったCD。
表紙にきいちの絹絵が 使用されている。
昭和30年代のノスタルジー、懐かしさ、きいちの絵の少女のもつ温かさ、優しさ、心をほのぼのとさせる力などから、きいちのイメージを使って、コマーシャル展開ならびに商品に活用されてきました。
21世紀になっても、「三丁目の夕日」などに見られるように、昭和30年代をテーマに取り上げる気持ちが日本人にはあるようです。なぜなら、今生きている日本人の心の原点が、昭和30年代にあるからです。
今回はこれらのコマーシャルになったきいちをご紹介するとともに、展覧会のポスターや雑誌に掲載された記事、商品化されたもの等をご紹介しています。

展覧会ポスター

2002年パリのカルティエ現代美術財団において、村上隆氏のキューレーションによる
「Coloriage Kawaii vacanse d'ete (ぬりえ展 かわいい夏休み)」が開催されました。
きいちのぬりえの花嫁からスタートしたこの展覧会は、現代日本美術を"ぬりえ"という切り口で表現した展覧会でした。Kawaii(かわいい)という言葉が、マンガを通じて欧米に普及して行きましたが、かわいいの原点は、まさにきいちのぬりえにあると言ってもいいのではないでしょうか。


2004年福島県喜多方市美術館において、「きいちのぬりえ 蔦谷喜一の世界展」が開催されました。
きいちのぬりえと日本画の童女百態の絹絵と二つのきいちの世界が紹介されました。

2002年、2004年とぬりえ美術館以外の美術館においても、ぬりえが展示されるようになりました。
ぬりえばかりでなく、アニメ作品の原画が美術館で展示されるなど、今ではサブカルチャーとファインアートとの線引きがない時代になっています。
様々なアートが、それぞれの人々のこころを、豊かにすることができるようになることこそ素晴らしい時代、世界ではないかと思います。

美人画
今回はきいちの描く日本画の「出雲の阿国」をご紹介しています。喜一は17歳の時に、帝展の山川秀峰の「素踊」を見て、絵を学ぼうと決意し、文京区春日にあった川端画学校で美人画を学び、3年ほどで卒業すると、次に有楽町の日劇前にあったクロッキー研究所に通い、裸婦のデッサンを中心にデッサンを7~8年学んでいます。
 
きいちは子どもの頃から人物を描くのが好きでした。縁戚に大和絵の画家蔦谷龍峰(りゅうこう)がいましたので、家族からはこちらで学ぶことも薦められたようですが、あくまで美人画を志すきいちは大和絵に行かず、美人画を学んできました。
昭和40年代になり、ぬりえが売れなくなると、日本画にもどり、童女百態を中心に、童女の絵を日本画で絹に描いてきました。
その間に、時に美人画を描いていました。今回の「出雲の阿国」もその中の一枚です。
きいちの描く童女百態の童女画の可愛らしさとはまた一味も二味も違う日本画の美人画をご覧ください。日本画の一番の魅力は筆遣い、線の魅力であると思いますが、今回の美人が「出雲の阿国」を通して、喜一の日本画の技をご堪能ください。

投稿者 Nurie : 13:00 | コメント (0) | トラックバック

2007年08月14日

ぬりえ美術館5周年企画 8月~10月合併号 (1)

ぬりえ美術館5周年企画
コマーシャルに使われたきいち展  期間:8月4日(土)~10月28日(日)

ぬりえ美術館は、2002年8月に開館しました。お蔭様で今年で5周年を迎えることができました。これも偏に皆様のご支援の賜物と心より感謝申し上げます。
開館した頃は、ぬりえは何も話題に上っておりませんでした。当時は、ぬりえは子どもたちがしていましたが、大人が「ぬりえ」と聞くと懐かしく、珍しいということから、新聞、NHKのテレビ・ラジオ、政府機関誌や雑誌等に取り上げられ、ぬりえ美術館が紹介されることとなりました。
その後、特に2006年からは、日本が高齢化率世界NO.1という国柄、高齢者の認知症の関連で脳が研究されていることにより、脳の活性化によいものが多々提案され、その中でも「ぬりえ」が人気となり、「大人のぬりえ」が話題になってきました。
同年JOMOが"夏休み全国ぬりえコンテスト"を開催するなど、2006年は一般的にぬりえに対する関心が高まってきました。今年もJOMOでは"第二回夏休み全国ぬりえコンテスト"を開催いたします。今回は、子どもだけでなく、中学生以上を含めて誰もが参加できるコンテストとして展開をしています。さらにぬりえの普及に寄与するものと思います。

企画展のご案内
2007年8月の5周年記念企画展としまして、
コマーシャルや商品に展開されたきいち作品を中心にご紹介いたします。

ぬりえの人気と批判
昭和22年から再びぬりえを描き始めたきいちは、戦後の何もない時代に、少女たちに夢の世界、美の世界を描いてみせ、毎月袋入りぬりえが100万部も売れたというほどの大人気となりました。ピーク時には、160万部も売れたと言います。あの時代、きいちのぬりえをしていない少女はいないと言っても過言ではありません。
しかし、あまりにぬりえが人気となっていたためでしょうか、"ぬりえをすると創造力をなくすのでいけない"と識者によりぬりえが批判されました。
この批判に対して、きいちは、「塗らなくてもいい。美しい絵を少女たちに描いてあげたかった。ぬりえは子どもの遊びであり、幼い子どもの情操を養う、心の遊びだ。塗るための絵として考えていたならば、もっと違った、教育的なものを描いていたと思う。」と言って、色をぬってもぬらなくても、持っているだけで楽しいという絵を描き続けました。(「メリーチャン花子さんきいちのぬりえ」草思社より)
21世紀になり、日本が高齢化率世界一となった今、脳の研究が進み、ぬりえは脳を活性化するので良いという時代になりました。
 
さて、それほど人気のぬりえも昭和30年代終わり頃になり、テレビが一般家庭に普及していき、国民の意識が一億総中流となり、時代は変わり始めていきました。
時代の影響を受けて、子どもたちの環境も変化し、昭和37,8年頃からオモチャはプラスチック・ビニールなどのダッコちゃん人形、タミーちゃん人形が生まれ新しい傾向になりました。テレビはカラーになり、テレビ漫画が子どもたちを魅了し、少女の遊びは男児に近づいていき、町の駄菓子屋も少なくなり、昭和45、6年頃には、すっかり店頭から「きいちのぬりえ」は消えていきました。

"紙芝居は、アイスクリームに負けた"といわれているそうですが、紙芝居を見るのに、従来買っていた水飴などを舐めるよりは、新しく登場したアイスクリームを食べたいという子どもたちの要望に負けて、消えていきました。
現在では、インターネットや携帯電話などの普及で、本やCDなど購買の様子が変化していますが、これも時代の変化によるものと思います。昭和30年代の終わり頃も、時代の変わり目だったのです。

きいちブーム再来
その後昭和47年、おもしろ雑貨の仕掛け人、文化屋雑貨店の長谷川義太郎氏が喜一を探し出し、忘れ去られようとしていた喜一の存在を世の中にアピールしようと動き始められたのです。その活動が実を結び、昭和53年資生堂ザ・ギンザ"アートスペース"にて「キイチのぬりえ展」が開催されることになりました。

資生堂ザ・ギンザ"アートスペースの25年の活動を纏めた本に、「キイチのぬりえ展」が下記のように紹介されています。

【ぬり絵は1960年代までは駄菓子屋さんで盛んに売られていた。太めの足と目に特徴があるぬり絵に「キイチ」と印刷された当時の人気作家蔦谷喜一さんを、文化屋雑貨店の長谷川さんが見つけだし、喜一さんの所蔵品と上野の版元が所有していた原画とぬり絵を借用して展示した。
さらに、ぬり絵の復刻版をつくり、子どものころ、ぬり絵遊びをした小森和子さん、
白石かずこさんなどにぬってもらった。また、一般のお客さまにも復刻版を提供し、ぬり絵を作成してもらい、会場に展示した。ドイツ文学者の池田紀さんの「ぬり絵」に関するエッセイを会場入り口に展示、キイチファンであったグラッフィクデザイナーの佐藤晃一さんがデザインしたポスターを会場入り口の装飾とした。その後、全国でキイチのぬり絵展が開催された】と記録されています。
この資生堂のぬりえ展がきっかけとなり、第二のきいちブームが再来することとなりました。

投稿者 Nurie : 12:56 | コメント (0) | トラックバック

2007年08月14日

7月の美術館便り

5月の末から6月の初旬にかけて、モスクワにぬりえの調査に行って参りました。
今回は、外務省の日露ビジネスを支援する組織であります日本センターにご協力を得て
現地調査をしてきました。今月はモスクワについてご報告をいたします。
5月末のモスクワですから、まだ寒いのではないかと衣服の準備をしていきましたところ、なんと到着してみると30~35℃の暑さでした。まず、これにびっくり。

今モスクワは、BRICs と言われて大変景気が良いのです。2006年の実質成長率は6%台。プーチン政権が進める資源外交で、石油や天然ガスの輸出収入で国内を潤し、資金力を拡大した企業が積極的な拡大戦略をとり、中産階級にも浸透し、個人消費が旺盛となっています。この結果を証明するものとして、日本の自動車メーカーの輸出は、トヨタ・日産共に2006年は輸出台数を前年比で60%以上増やしており、ロシアの国民が自動車を買う余裕が出てきているのです。
この影響で、空港から市内に入るのに、4レーンとか5レーンある道路ですが、3時間半かかりました。車はスーと走るようにできているものですから、余りの渋滞のために、エンストをしてしまいました。私たちの乗った車だけでなく、路肩に止めている車を何台か見ました。モスクワの名誉のために言っておきますと、帰国するときには、市内から空港まで、わずか30分で到着いたしました。車の渋滞が二度目のびっくり。

モスクワでは、ミルビス日本センターで日本語を勉強されている方々に、ぬりえについての講演をさせていただきました。講演の中で、参加者の方に「きいちのぬりえ」を塗ってもらいました。30名ほどの参加者は、画材がオーバーヘッド用のサインペンの数色しかないにもかかわらず、素晴らしい作品が出来上がりました。日本では見たこともないような塗り方のもの(グラフィカルな模様を入れた作品)もあり、それは特別にいただいて帰りました。ぬりえの上手さに、三度目のびっくり。
このように多くの方が上手にが描けるのは何か理由があるのではということで、様々な施設を訪問してみました。

まず幼稚園を訪問したところ、モスクワでは、幼稚園のプログラムの中にぬりえが組み込まれているそうで、私たちのために、年齢別に子供たちがぬりえをする様子を見学させてくれました。2~3才の子供たちは、一枚に大きく描かれた一個のイチゴなどの大変簡単な絵を見本と同じように塗っていきます。先生は側について、間違いのないように指導していきます。4~5才、6~7才と複雑なぬりえの本に進んでいき、6~7才では筆を使って水彩でぬりえをしていました。
ぬりえの他にも、手先のためでしょうか、ビーズで動物やお花をつくったり、粘土細工をしたりと国のプログラム、市のプログラム、そして幼稚園独自のプログラムを組んで、子供たちの教育をしているそうです。園内には、子供たちの作品が廊下の壁やそれぞれのクラスの壁に飾ってありました。絵の先生もいらして、年齢に合わせて絵の描き方を習っていくそうです。
この幼稚園では、ぬりえをするときにコピーを使ってはいませんでした。一人一冊のぬりえ本が与えられているのです。今まで視察した所では、ほとんどコピーされたものを
子供たちは使っていましたので、驚かされました。四度目のびっくり。
ぬりえ本だけでなく、この幼稚園には、新しい玩具やその数の多さ、種類の多さには目を見張るほどリッパな幼稚園でした。

幼稚園のほかにも、子供たちの教育のために「補足教育センター」というものがありました。幼稚園や学校が終わると子供たちはこのセンターに集まり、美術や音楽、ダンスなどを習うことができ、料金は教材程度を支払うだけでよいそうです。絵の先生のお話を伺いましたが、年齢別にテキスト・プログラムを持っていて、それを使って学ばせているそうです。ある少女の成長が記録されたファイルをみせていただきましたが、6才からの彼女の作品が年齢ごとに保存されて、その成長ぶりが私たちにも分かりました。その少女は今美術系の学生になっているそうです。
このセンターでの絵のプログラムの中に、日本センターのぬりえに描かれた模様を発見しました。このようなところで、モスクワの子供たちは絵を学んでいたのでしょう。
さらに「子供の図書館」というものもありました。子供向けの図書館ですが、市立の子供の図書館が市内に100軒ほどあり、別に国立の子供の図書館もあるそうです。ここでは図書館ですが、本以外にぬりえやビーズワーク、粘土、パソコンなども教えています。

モスクワの本屋さんにも行ってみました。子供向けの美しい絵本や物語の本が大変多くありました。表紙を表にして並べられているのがモスクワの本屋さんの展示の仕方のようで、本の魅力を高めているように思いました。ぬりえは種類が多く、これも絵のプログラムと関係しているのではないかと思いました。芸術性の高い絵が描かれた本が数多くあり、これらの環境も子供たちにいい影響を与えていると思いましたが、大変恵まれた環境の中で教育がされていると感じました。
いずれモスクワの状況は、本などにして発表をしていく予定でございます。(館)

投稿者 Nurie : 17:49 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月01日

6月の美術館便り

3月~5月まで開催の企画「きせかえ展」が無事終了いたしました。大勢の方にご来館をいただきまして、大変ありがとうございました。昭和の10年代から40年代のまでの日本のきせかえと、海外のきせかえを展示させていただきました。
収集することによって、きせかえの歴史的なこともわかってきますので、これからも継続して、情報収集をして、また楽しい企画で皆様にごらんいただけるようにしていきたいと思います。

きせかえの思い出も、ぬりえと同じで10人10色です。
*展示のきせかえをみて、忘れいた思い出が蘇り、懐かしかったです。
自分で紙と色えんぴつを使って、衣装や家具を作り遊びました。それが嵩じてひな人形も全部紙で作り大満足でした。それをみて、当時は高価だったとおもいますが、両親がひな人形かざりを買ってくれたことを思い出しました。
*欲しい服のきせかえを作るときに、母がワンピーズの型紙を買っていたのをみてマネたりしていました。
*箱にしまって、いろいろきせかえをして遊んだことを思い出しました。

*自分でもマネをして作ったこともあります。どうして作ればいいかはすべてきせかえ人形を手本にして作って楽しみました。
*はっきりとは覚えていませんが、小さいころ着せかえなどで遊んだ記憶があります。
鮮やかな色彩に心がおどるような気持ちになります。
*海外にもきせかえってあるんだということも、初めて知りました。

ぬりえ、きせかえは日本だけのものとおもっている方が多いようですが、外国にもあります。内容はそれぞれの国によって、特徴があります。今、それらの特徴を調査をしているところですので、まとまりましたらまた本にして皆様に読んでいただきたいとおもっています。

さて最近は、大人のぬりえが人気になっていますが、授業にぬりえを取り入れている大学があります。先日訪問させていただきましたので、皆様にご報告をいたします。
その大学は、千葉県の天王台駅にあります川村学園女子大学で、人間文化部日本文化学科の倉澤教授のクラスでした。
西洋美術史が講義されている教室には入ると、教室は約150名の学生で一杯でした。大人気の講座なのです。若い女性の熱気に、圧倒されそうな程でした。
今回は14世紀の宗教画がテーマでした。
下準備ができると、その絵の解説をスクリーンに画像を映して講義がされました。今日の絵は、非常に細かく描いていることが特長だそうで、全体図、一部、またその中の部分を拡大して、いかに細かく描いているかを学生に画像をみせながら、講義をされました。
実物は肉眼では見えないそうですが、しかし見えないところにまで、描いていった絵が当時にはあったということを理解してほしいと講義を締めくくられました。

通常は講義がおわったらその絵を塗っていくだとおもいますが、私が訪問した日は、前の授業でだされた絵に、ぬりえをしていました。
15,6人ほどの学生の絵をざっと見せてもらましたが、大変丁寧で上手でした。いい加減には塗られていません。顔の色、髪の色は学生一人一人違っていて、元の絵は同じですが、色はそれぞれで個性があって、見飽きませんでした。

先生のお話を伺うと、なんと17年も前からぬりえを取り入れた授業を始められていたそうです。発端は、美術史をいかに学んでもらうか、学んでもらいたいために、考え出したアイデアがぬりえで、学ぶ手段であったのです。
絵の画像をみせながら講義して、講義した画家の絵を塗ってもらう。どこにその作家のポイントはあったのか、その点を理解することが、ぬりえをすることによってしやすくなり、そのポイントを意識しながらぬりえをすることで、手と頭が連動して理解しやすくなるというわけです。
「知る」一「分かる」一「行動する」一「考える」という流れをすることによって、分かったことを、塗るという行為で「行動」すなわち「体験」して、それにより具体的に考えることができるようになるのではないでしょうか。

先生は、色を「塗りこめ」と言っているそうですが、さっと一度位色を塗るだけでなく、もっともっと色を重ねて塗りこんでいくと、素晴らしい色になって、絵に深みや厚みがでてくるそうです。
1年間の授業を受けた作品を、学生たちはファイルにしているそうですが、そのファイルは1年間の自分の心の記録だとも言っているそうです。自分の感情がそのぬりえに表れているということを学生たちは知っているのです。ぬりえは嘘をつけないのです。
 
ぬりえ美術館は開館して、8月で5年になりますが、17年も前にぬりえを取り入れられた倉澤教授の授業に、ぬりえの奥深さ、魅力を再発見させていただいた授業参観でした。                           

投稿者 Nurie : 19:13 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月26日

平成19年3月~5月企画展「きせかえ展」-4-

外国のきせかえ"ぺーパードール"
『玩具の系譜』(遠藤欣一郎 財団法人日本玩具資料館)によりますと、外国では、
「1800年を迎えるころ、「印刷技術の普及化におって、紙面上にプリントすることが自由にできることから、いわゆる「きせかえ」人形が、いとたやすく、しかも安い代金で庶民たちの手の届くようになったのである。(中略)昔からマッチングをすることによって謎(パズル)を解くことに馴化されていたヨーロッパの国民にとって、こうした新しいパズル遊びは一つの画期的なものとして素直に受け入れられたのである。しかも、それ以来今日に至るおよそ二百年の間、連綿と続いている事実を無視することはできない。(中略)平面上からやがて立体化して楽しめるような着想が1850年ごろには生まれている。
ことに人気の中心となったのは、花嫁花婿のきせかえで、洋の東西を問わずこどもたち、ことに女児にとっては関心の大きいテーマであった。ことに花嫁衣装はいつもその中心であったし、それぞれの民族が独自のものを培い、大切にしたものであったので、多くの残された文献にもみられることができるが、とりわけ英国のきせかえには、花嫁、花婿の衣装が多い。(中略)

1875年、ヨーロッパ各地に起こった流行の火が、大西洋を跨いでアメリカに飛び火した。おそらくアメリカに展開された舞台はボストンかニューヨークであったであろうが、ニューヨークのマクラリン兄弟者発売の「紙人形(ペーパー・ドール)」は、花嫁、花婿の晴れ姿を描いたきせかえであった。」
と解説されています。
 日本でも、ぬりえよりきせかえの方が早く誕生しておりますが、外国でもぬりえに先駆けてきせかえがでています。これは、人形遊びの延長として遊ばれているということが関係しているのではないかと思います。
 
展示品の紹介 
「ブライダルグループのきせかえ」
今回の展示品の中にも、結婚式を題材にしたきせかえがあります。
花嫁が着るウェディングドレスの他に、花嫁、花婿とブライダルメイドの素敵なドレス姿のきせかえを展示しています。


「マリーアントワネットのきせかえ」(ドーバー社のきせかえ)
ドーバー社は1941年(昭和16年)創立のアメリカの出版社です。元の出版元では絶版となった本の再出版で有名なアメリカの出版社だそうです。その他、きせかえやぬりえを数多く出版しています。
ファッション系、有名スター、アメリカの大統領系など幅広く370種類ものきせかえが出版されています。
http://store.doverpublications.com/


「シャーリー・テンプルのきせかえ」
1930年代の世界のアイドルであったシャーリー・テンプルのきせかえ人形です。


「ジョージ・ブッシュ大統領のきせかえ」
ジョージ・ブッシュ大統領のほかにも、ケネディ大統領、リンカーン大統領などのきせかえが発売されているそうです。
イギリスのダイアナ王妃のきせかえなども発売されています。
日本では、昭和34年に皇太子様(現天皇)のご成婚の頃に、美智子様のきせかえが発売されています。


「イブ・サンローランのきせかえ」
ファッション系のきせかえで、これはフランスの服飾デザイナーであるイブ・サンローランの服を表現したきせかえです。

きせかえの魅力、楽しさがこれからも続いていきますよう願っています。(館)

投稿者 Nurie : 16:50 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月25日

平成19年3月~5月企画展「きせかえ展」-3-

展示品の紹介 
「きいちのきせかえ」
   

1947年(昭和22年)頃からぬりえを再開したきいちは、自身がきせかえも好きであったので、翌年からきせかえの制作もするようになりました。きいちのきせかえでは、おしゃれな服も楽しいのですが、周りに描かれた小物や付属品に面白さがあると思います。
左のきせかえは、「藤娘」を踊る少女を描いていますが、踊りの発表会に見に来てくださった方にプレゼントする引出物の手ぬぐいやお菓子などまで描かれています。
右のお父さんのきせかえでは、カメラやタバコケースなどその当時としては先端のアクセサリーが描かれています。
デザイン面では、藤娘のきせかえは、紙面を4分割して、右から緑、青、ピンク、赤の色を下地に付けています。右のお父さんのきせかえでは、四角の白をベースに周りに赤の色を配色しています。きいちのほかのきせかえでも、下地の色やデザインを工夫していますので、チェックしてみてください。

「ミスユニバース」のきせかえ
1953年(昭和28年)大会で、日本の伊藤絹子が3位に入賞し、「八頭身美人」という言葉が流行しました。戦争に負けた日本人に、世界的な大会で入賞者をだすことができ、少し自信を取り戻すことができたニュースでした。
このきせかえは1959年(昭和34年)児島明子が優勝した頃のものと思われます。

「昭和40年代のきせかえ」
この頃には、紙面に入った横線を切り、パラパラ紙をめくりながら、きせかえができるものが登場してきます。"きるきるファッション"などという名前のきせかえなども同じようなものです。


「マーガレット パノラマブック」(ショウワノート)
きせかえ、家具セット、ぬりえ付き
とびだす立体セット(ポップアップ)
(わたなべまさこ画 1968年(昭和43年))
わたなべまさこは、少女マンガの作家ですが、私も子ども時代に大好きだったマンガ家です。
昭和40年代にはいりますと、ぬりえもきいちのようなぬりえ作家から少女漫画の作家が絵筆をとるようになりファッションを中心に描くようになりました。
その影響から、きせかえも漫画家の絵によるものが登場してくるようになります。
左のきせかえは、スカート部分を開くと、フワフワとした紙のプリーツ状のスカートがひらくようになっていまして、立体的なきせかえになります。『少年少女ふろくコレクション』(藝神出版社)を見ますと、同じようなものが、1962年(昭和37年)の『なかよし』の付録としてつくられていたことがわかります。立体になるドレスや家具が面白いですね。

投稿者 Nurie : 16:38 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月25日

平成19年3月~5月企画展「きせかえ展」-2-

展示品の紹介
  
昭和初期の「少女の友」の付録のきせかえです。人形の下にある小さい四角いものが、カレンダーです。上の絵の少女に着物、洋服を着せることができるようになっています。なんと凝った付録でしょうか。

昭和10年に発行の「あたらしいきせかえ人形」 的場朝二案・画 
  
箱には、「新衣裳・家具いろいろ・御料理付」と書かれています。 箱の中に入って いる少女は、手も足も動くようにできています。今までにこのような人形をみたことがありませんでしたが、非常に工夫されています。箱を組み立てると家や庭までできます。
人体のつくり、衣裳の豪華さ、小物のつくりなどを考えると、このきせかえは大変高価だったことでしょう。
 

有名人のきせかえ
昭和20年代、きせかえもぬりえと同じように子どもたちの遊びとして、人気玩具になりました。きせかえは、服を替えるだけでなく、おままごとと同じように遊んだりすることができますので、少女のきせかえだけでなく、お父さん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃんなどが描かれたものもあります。それらを集めて、様々なシーンを想定して、遊びました。
今回の美術館便りの中では、珍しい有名人のぬりえをご紹介いたします。

「美空ひばり」のきせかえ
鶴田浩二と一緒に描かれています。1951年、松竹映画『あの歌超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じているそうですので、その映画を表しているきせかえと思われます。きせかえのほかに、ぬりえに描かれた美空ひばりもいくつかありますので、当時から人気者であったことがわかります。

「君の名は」きせかえ
  
菊田一夫の名作であり、1952年(昭和27年)のラジオドラマとして放送されました。「番組が始まると女湯から人が消える」という伝説を残したほどの人気番組でした。その後、松竹で真知子役に岸惠子、春樹役に佐田啓二で1954年に映画となり、真知子がショールを巻く姿が「真知子巻き」として大流行しました。又ラジオ番組の冒頭で流されたナレーション・・「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というフレーズも人びとの記憶に残ることとなりました。

投稿者 Nurie : 16:36 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月25日

平成19年3月~5月企画展 「きせかえ展」-1-

平成19年3月3日(土)~5月27日(日)開催

きせかえは、ぬりえと共に語られる少女の遊びの定番ではないでしょうか。ぬりえ美術館に来館される方からのご要望に応えまして、きせかえ展を開催することになりました。
きいちのきせかえを中心に、日本のきせかえ、アメリカのきせかえなどを展示しています。どうぞきせかえの美しさ、楽しさをご覧ください。

きせかえの歴史、背景について
ぬりえを研究してみてわかったことですが、ぬりえには批判の文章はあっても、残念ながらぬりえの研究はなされておりませんでした。そこで2005年に『ぬりえ文化』を出版したわけですが、きせかえの歴史についても、ぬりえと同様に研究をされていないようです。今回は、現時点でわかる情報をお伝えしていきたいと思います。

きせかえ遊び (おもちゃ博物館14  1997年京都書院発行 多田敏捷著)より「一般に「着せ替え遊び」とは、人物やいろいろな衣装が印刷された一枚の色刷りの紙から、人や衣装を抜きとり、衣装の着せかえを楽しむ遊びを言うが、広い意味では、市松人形やバービー人形、リカちゃん人形などの衣装の着せかえ、日本人形にいろいろなカツラをつけかえる遊びまで着せかえ遊びという。(中略)
着せかえ遊びのルーツは、人形にいろいろな衣装を着せて遊んだのが最初であろう。昭和17年(1942)刊の『日本人形史』(山田徳兵衛)に「裸人形という言葉、その絵は西鶴の五人女に見える・・・・・、
ふだんの玩び物として広く行われ、姉様や土人形にくらべると高級品であった。衣装をも着せたであろう。」とあり、江戸時代の初期には広く裸人形で着せかえ遊びが行われていた事がわかる。
また『日本人形史』には、「裸人形に次いで、衣装着の人形を子供がふだん玩ぶことが普通になった。衣装を着せてあるのを買ったり、また家庭で縫って着せたりした。それを市松人形などと呼んだ」とあり、裸人形に次いで、市松人形の着せかえ遊びが、より広く家庭に普及していった事がわかる。しかし、いかに普及したとはいえ、市松人形などの着せかえ人形は、一般庶民、特に裏店の子供たちにとっては高値の花、姉様人形に、紙製の衣装が精一杯であったであろう。しかし姉様人形といえども、姉様の製作には技術が必要であり、小さな子供達には製作が困難であろう。
そこで考えたのが紙製の着せかえであろう。まず一枚の紙に木版で刷るので、人形とくらべると非常に値段が安く、一枚の紙から人や衣装を切りとるだけですむので、姉様をつくったり、衣装をつくったりする技術も手間がかからず、その上、木版で刷るため、どんな人形でも、どんな立派な衣装や調度品でも思うままである。これらの事が、紙製の着せかえが着せかえの主流になった原因であろう。
紙製の着せかえは江戸後期頃から現われ、明治時代初期には文部省製本所発行の西洋着せ替えなどもつくられ、また、おもちゃ絵の普及にともない、木版刷りの安価な着せかえが一般に広まった。大正、昭和と、紙製の着せかえは、時代、世相を反映した図柄が印刷され、多くの幼女達に愛用された。しかしテレビの普及や、バービー、リカちゃんなどの人形の普及により紙製着せかえは廃れ、現在では駄菓子屋や、文具店の片隅でほそぼそと売られている状態である。安価な紙製着せかえが再び日の目を見る日を期待したい。」
おもちゃ博物館24巻を発行した多田敏捷氏は、本の中でこのように語っています。
お人形遊びや姉様遊びとして遊ばれたきせかえが、おもちゃ絵の普及によって、紙に刷られた紙製のきせかえに発展をしていったもののようです。

明治時代に、「教育少女きせかえ」と題された紙製きせかえがありますが、明治から大正時代にかけて完成した形として、解説されております。
(「立版古」解説=山本駿次朗 誠文堂新光社より)(尚、展示品には、このきせかえはございません)
描かれた着物姿から明治時代と時代を感じますが、その形は昭和20年代のきいち世代のぬりえと変わりません。 手ぬぐい、金魚鉢、朝顔などの小物も描かれていますので、季節感が伝わってきます。着物や小物によって、1年を通じて、季節ごとに遊ぶことができます。

投稿者 Nurie : 16:25 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月25日

1月・2月合併号

今年もぬりえに関します活動ならびに情報を発信してまいりますので、よろしくお願いいたします。1月は体調をくずし、美術館便りをおおくりできなくて失礼いたしました。2月との合併号とさせていただきます。

■日本ブーム
昨年12月の美術館便りでも、日本ブームについてお伝えいたしましたが、今回は東南アジアを中心にした日本ブームについてご紹介いたします。
○ジャカルタ、バンコクのアニメブーム 
お正月にジャカルタ、バンコクに行ってきました。いずれの都市でも、日本のアニメは人気です。中でも「ドラえもん」が大変な人気でした。
バンコクでは、私の知人ご夫妻(50代の奥様、60代のご主人)が、「私はドラえもんが大好き。うちの主人は、のび太君にそっくりなの」とおっしゃられて、私のほうがビックリしました。

のび太君は、まったく日本人の性格であると思うのですが、タイの人ものび太君の中に同じような性格を見いだすとは、それ程日本のアニメがバンコクの人びとの生活の中に入り込んで一般的になっているということではないでしょうか。 バンコクでは、ドラえもんのほかに、「一休さん」が頓知があってお利口なお坊さんということで、一休さんも人気で、子どもたちには、「クレヨンしんちゃん」が人気だそうです。

○アニメに描かれた世界を受け入れている 
アジアだけでなく、世界のアニメの60%は、日本のアニメだそうです。アニメがでているということは、日本で販売されているアニメのぬりえも海外で販売されているわけです。
バンコクでは、ぬりえを出版している会社は300社ほどあるといわれていますが、日系の本屋さんの話では、「売れているのは日本のアニメのぬりえです」と言われていました。ここにも、日本のアニメの人気度合いがわかりますね。
「ドラえもん」や「一休さん」、「クレヨンしんちゃん」などの日本のアニメに描かれた世界を違和感なく受け入れている子どもたちや大人たちが、世界には大勢いるのです。自国とは違うなと思い、驚きながらも、新しいとか、かっこいいとして受け入れているのです。

これは、日本にテレビが入ってきたころの状況と似ているのではないかと、自分の子ども時代を振り返ってみて、そう考えています。
テレビの創世記には、日本の番組が少なかったせいか、アメリカのテレビ番組が数多く上映されていました。そのアメリカのドラマの中には、アメリカの豊かな生活が映し出されていました。
リビング、ソファ、台所、観音開きの大型冷蔵庫、冷蔵庫の中にぎっしりつまった食品など、日本ではみられない光景が映っていました。
アメリカの生活は、なんて素敵なのだろう!と、アメリカに憧れた子どもたちや大人たちが沢山いたと思います。日本は、そんなアメリカに追いつき、追い越そうと頑張ってきたわけです。
あの当時のアメリカの生活にあたる部分が、日本のアニメやマンガに描かれる日本の生活ではないでしょうか。
その結果、日本食や日本の建築やファッションなどが受け入れられ、人気となり普及していくということになります。アニメやマンガのソフトパワーは、これからも日本という国を海外の人びとに理解してもらうために、大きな力となっていくことでしょう。
昨年秋のニューヨークでの日本ブームに続き、今回の東南アジアでの日本ブームで、まだまだ日本の魅力は世界に広がって行くことを感じた次第です。

■文化と教育
○国立博物館見学
ジャカルタとバンコクの両方の国立博物館を見学してきました。ジャカルタでは、日本人の方がボランティアで解説をしてくださっていました。彼女たちは、ジャカルタの博物館は「文化に一番近い博物館」と言っていました。それは、どういうことかといいますと、国立博物館ですが、展示物の仏像などが、展示ケースなどに入れられずに飾られているものがあります。ケースがなければ、なんとなく触りたくなるのが人情ですね。そこに置かれた仏像の胸などは、子どもたちや来館者に触られてピカピカしていました。文化ということの教育がされていないのではないかと感じました。
バンコクの国立博物館は8つのパビリオンがありました。残念ながらすべてを見ることができませんでしたが、国の歴史を大切にし、理解をしてもらいたいということがこちらにも伝わってきました。
○アイルランドの変化
昨年訪れたアイルランドは、昔は移民や出稼ぎをしていた国でした。「タイタニック」の映画のワンシーンに、船の下でダンスをしていた映像があったと思いますが、あのダンスはアイルランドの人びとが踊っていたアイリッシュダンスでした。
その国が、EU に加盟した際にもらった助成金を教育とITにそそぎ、そのお蔭で今ではヨーロッパのシリコンバレーといわれるほどになり、年10%もの成長率を遂げる国に変化していました。
ITという目の付け所も良かったと思いますが、教育に力を注いだことが、この国の発展に大きく貢献したものと思います。
日本でも教育基本法の改正や教育再生会議など教育に関する問題が取りざたされていますが、国の発展のためには、子どもたちの教育が非常に大事であり、その中で文化ということに対しても、教育をしていくことが大変重要だと思います。
その教育の大切さを昨年、今年の出張で強く感じたのでした。(館)

投稿者 Nurie : 18:36 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月28日

ニューヨーク報告第二弾 12月の美術館便り

今年最後の美術館便りは、"ニューヨーク報告第二弾"をお伝えいたします。
 
■日本ブーム
ニューヨーク(以下NY)ばかりではなく、今欧米では 日本的なものが大変流行しています。
アニメ、マンガは、紀伊國屋書店などのような日本の書店だけでなく、アメリカの本屋さんにも置いてあります。大人の方でも、日本のアニメの「ナルト」が好きなど、具体的なタイトルが出てきたり、私も知らない名前がでるなど、驚かされることがありました。
日本のアニメは1960年代から輸出が始まっているようですが、その後もずっと日本のアニメが世界の人々の楽しまれています。
今やドイツでは、日本製アニメが1326時間、30分のアニメ番組に換算すると、毎週51本、イタリアでは週40本、フランスでは、自国産業の保護政策をとったために、EU圏外からの番組は制限されているので、週10本の日本製アニメが放送されているということになっているそうです。これは、知らず、知らずに日本文化、精神が受け入れられ、浸透していっていることではないでしょうか。(参考:「クール・ジャパン世界が買いたがる日本」)

そして、日本の食文化です。滞在中に、和食のお店に出かけることが多がったのですが、そこで見たものは、外国人の店かしらと思うように、日本人より外国人のほうが多いということでした。
従来の日本食というものは、すき焼き、てんぷら、寿司というようなものでしたが、現在は、それらのほかに、より大衆的なものや、寿司などが一般的に流通していることが従来とは変わっていることでした。
牛丼、ラーメン、焼き鳥、居酒屋などのお店が繁華街や若者が集まる街に増えています。かつて、私は1980年代初期にアメリカに出張で行った頃には、日本食レストランといえば、駐在員や観光客の日本人を対象にしたお店でした。ところが現在は、お店側がターゲットを現地の人を対象にしています。はっきり、日本人を相手にしていないというお店もあるほどでした。
イースト・ビレッジのある居酒屋に行ったときのことですが、そこで注文したのはおにぎり、ヤキトリ、キンピラゴボウ、おひたし、焼きそば、シシャモ、ポテトサラダ、菜の花のオイスター炒め、さつま揚げ、肉じゃが、ハマグリの塩焼き、湯豆腐、これに日本の瓶ビール三本を注文しました。私一人ではありません。五人分です。さて、お会計は、合計120ドル×119円で14,280円でした。五人ですから一人当たり2,856円。日本と同じくらいの価格でした。
お隣は外国人の四人連れで、熱燗三本がテーブルの上にありましたが、他のテーブルを見ても、外国人の方々で、一杯になり、居酒屋の雰囲気に馴染んでいました。
これは一例ですが、他の居酒屋や焼き鳥屋に行っても、同じような光景が見られました。

■居酒屋の流行の理由:
 どうして、このように居酒屋が流行なのでしょうか?
欧米では、昔は、お酒はパブで飲むものでしたが、パブはお酒がメインで、食べるものというといわばつまみだけ。お食事をするときには、レストランですが、こちらは料理がメインでした。
ところが、居酒屋はお酒が飲めて、料理も楽しめる。その上、日本の居酒屋の場合には、料理の幅が広く、和食、中華、イタリアン、コーリアンなどが混在しています。このような食事の業態が、今まで欧米にはなかったのです。それで、人気となっていったものと思います。

第二の理由は、日本人のおもてなしの心、受け入れられていっているのではないかと思います。
初めて、日本食レストランに行ったアメリカ人の知人は、その和食の店のサービスが大変良いのにびっくりしてしまいました。「グレートサービス!!」と感激しました。
NYでは、高級店、高い店に行けば、良いサービスが受けられますが、手ごろなお店では、
サービスがあまりよくないのが普通、当たり前なのです。居酒屋のような、安い大衆的な店にもかかわらず、良いサービスをしてもらえたら、誰でも気持ちが良くなり、又行きたいと思うのは人情ではないでしょうか。これが、居酒屋なり、日本食レストランがNYに浸透していっている理由のひとつではないかと思います。

更に、三つ目の理由として、日本の良い商品をつくろうとする物造りの精神も、日本ブームに一役買っていると思います。NYにも、ユニクロが出店されました。そのユニクロとアメリカのGAP(ギャップ)と比較してみると、ユニクロのほうが、品質、デザイン性、縫製がよくて、値段が安いので、ユニクロの方が良いという声を聞きました。
日本の工業製品は、機能と品質の高さが特長ですが、家電や車ばかりでなく、ファッションの世界でも、日本は基本的に、今より更によい物を作ろうという物造りの考えをもって、商品を作っています。その考えから生まれた商品がNYでも認められているのです。
そのほかにも、音楽、建築、現代アートなど、新しい日本の文化が世界の中で、魅力的なものとして、受け入れらているのです。

ぬりえは子供の遊びであり、塗ったら棄ててしまうものですが、そのようなものにまで、手を抜かずに描いている「ぬりえ」。 そこには、上記のような日本人のこころ反映されているのです。
子供のものでありながら、美しく、芸術性がたかく、しかもNYでも馴染んで着ている日本のアニメやマンガの原点といえるものであったので、ギャラリーに来た人は感銘を受けているのではないかと思いました。
日本的なものの流行の背景を考えるとき、日本のぬりえは、アニメ、マンガのように世界に広がっていくことを確信した次第です。(館)
館)

投稿者 Nurie : 18:22 | コメント (0) | トラックバック

2006年12月01日

NY報告

11月に入りましたが例年にない暖かさですね。これからは紅葉が楽しみです。

9月の末から10月末まで、ニューヨーク(以下NY)でぬりえ展を開催いたしました。初めての海外におけるぬりえの展覧会でした。今月はその様子をご報告させていただきます。  
 

■開催会場・期間
1.日系人会     2006年9月25日(月)~9月29日(金) 1週間
2.紀伊国屋書店  2006年9月28日(木)~10月11日(水) 2週間
3.大西ギャラリー  2006年10月3日(火)~10月21日(土) 3週間
             2006年10月5日(木)オープニングレセプション

●何故海外で展覧会を開催するのか? 何故NYなのか?外国にもあるの?と質問されました。
 ぬりえは日本だけでなく、外国にも子供のするものとして昔からあります。しかし、日本では従来より子どもの遊びということで研究はされず、放って置かれてきました。そのため、ぬりえに対する認識はまだまだ低いままです。
そのぬりえを研究して、ぬりえを文化にしていきたいとぬりえの専門書「ぬりえ文化」を2005年に発行しました。この「ぬりえ文化」を書くために海外からのぬりえも含めて分析をしてみましたら、文化といえるすばらしいぬりえは、きいち以外にはないということが分かりました。
ぬりえを文化にする活動の次の一歩として、“世界の中でも最も素晴らしいぬりえ”を紹介したいと思い、海外で展覧会を開催することにいたしました。

NYは現代において、政治、経済の中心地というばかりでなく、芸術の中心なのです。日本画家でNYに住んで芸術活動をされていらっしゃる千住博さんも、
「NYというのは、『センター・フォー・ジ・アーツ』芸術において世界の中心である。NYには、全世界の美術館のディレクターや関係者たちがひんぱんに絵を見にやってくる。」と言われています。
その世界の芸術の中心で、最初に紹介し、目の肥えたNYの方々に見てもらいたいと考えたのです。
●NYのアートの中心は、今はチェルシー
NYには、メトロポリタン美術館、グッケンハイム美術館、ニューヨーク近代美術館など美術館やギャラリーがありますが、なかでも芸術家を育てるのは、ギャラリーです。
70年代~80年代にはソーホーというエリアに多くの芸術家が住み、ギャラリーが数多くありました。ソーホーはその後人気の街となり、観光客も多くなり、レストランや高級ブランドのブティックもできるようになり、アーティストやギャラリーはチェルシーに移りました。
現在は、チェルシーがギャラリーの中心街となり、文化人や芸術家が移り住んできて、文化、芸術の街となっています。

今回ぬりえ展を開催した「大西ギャラリー」は、このチェルシーの中の26丁目に位置し、向かいにはロバート・ミラー・ギャラリーがあり、今回は日本の草間弥生氏の作品を展示していました。アンディーウォーホールの作品など、美術館で展示するような作品を展示する有名ギャラリーも周りにいくつも点在しています。
大西ギャラリーは、オーナーが日本女性で、日本とイタリアの芸術、美術を中心に紹介するギャラリーとして、2005年12月に開館した新鋭のギャラリーです。

●チェルシーでのぬりえ展の反響・評価
ギャラリーにいらっしゃる人はNYに住んでいるひとばかりでなく、世界からの観光客など様々です。その方たちは、ギャラリーガイドの本を持って、自分の関心のあるギャライーを訪れたり、ぐるぐると1軒ごとにギャラリーを見学したりしています。ギャラリー巡りをする人々で、チェルシーのストリートは毎日、特に土曜日は賑わっています。

大西ギャラリーを訪れた人々は、まずぬりえの表紙絵のバナー(旗)のカラフルさに目を奪われ、次にぬりえ絵を見て、ぬりえの表現の繊細さ、しっかり構築された点、手が込んでいる点、手描きの魅力などなど、しっかりと評価されていました。
きいちでなければ描けない少女の可愛さ、ぬりえの繊細さ、表紙絵のカラフルなデザイン性等がきちんと伝わり、理解してもらえたことは、展覧会を開催の意義が達成できたものと思っています。

●新聞での評価
このレセプションの模様は共同通信の記者を通じて、ジャパンタイムズをはじめ日本そして海外の邦人向け新聞(インドネシア・ジャカルタ新聞)に流されました。
ジャパンタイムズでは:
○「来場者はきいちのぬりえの”かわいさ”を認め、同時にきいちの芸術性とそのディテールに感銘を受けていた」と全体的印象を書いています。
○子どものイラストレターをしているLiz Eck氏は、
「すべての顔が同じポジションであるのは非常に珍しい。きいち氏が描いたよう単純な子どもの態度の可愛らしさ、デリケートさを捕らえるのは、非常に難しいものだ」ときいちのぬりえの魅力に惹きつけられたようです。

●NYは「ぬりえ」である。
 今回は、35日間NYに滞在しました。そして、そのNYはどのような街であったか、考えて見ますと、NYはまさに「ぬりえ」であると解りました。
 NYは今年の10月17日で、人口が3億人になったそうです。移民が多く、出生率もたかいので、世界第三の人口になっています。なかでも、NYには、いろいろな国から、短期、長期に学ぶ人、働く人、住む人、旅行者などなど、様々な思いを持って、NYに来ています。
NYという下絵をどのように仕上げるか、塗っていくのかは、その人の志、思い、生き方、考え方、国民性など、その人が選び取ってきた人生から生まれる色、塗り方で幾つもの色に塗られ、それぞれのNYに完成させられていくのです。
そんなまさに「ぬりえのNY」で、海外初のぬりえ展を開催したことは、本当に正しい選択であったと思います。これを海外の第一歩として、これからも海外に日本のNURIEを紹介していきたいと思います。来年は、ドイツ、08年はフランスで開催する予定です。
日本では、大人のぬりえが人気ですが、これは世界の中でも進んだ現象です。どうぞこれからも、お好きなぬりえを楽しんでください。
(館)

投稿者 staff : 12:50 | コメント (0) | トラックバック

2006年11月05日

アメリカのぬりえ展

ニューヨークでのぬりえ展を記念して
「アメリカのぬりえ展」
会期:平成18年8月5日(土)~10月29日(日)

皆様のお蔭をもちまして、ぬりえ美術館は4周年を迎えることができました。
ぬりえは子どもなら誰でもがするものであり、大事な子ども時代を一緒にすごす大切なものでありながら、ぬりえに関する文献もありませんでした。
しかし同じ時期に楽しむ絵本とぬりえでありながら、どうでしょうか?
絵本は素晴らしい文献に恵まれ、博物館も各地にあり、世界に向って発信をしています。海外の絵本の原画展では、日本人がグランプリを獲得するなど、多くの日本人の絵本作家が活躍をしています。
 最近、子どもばかりでなく大人がぬりえをすることが人気となりつつありますが、これは大人たちが、やっとぬりえの文化性に気がつきはじめているのではないかと思っているといるところです。

ぬりえ美術館では、「ぬりえを文化に!」を目標に活動をしています。昨年は、ぬりえの源流からぬりえの未来までを書いた初めてのぬりえの専門書の「ぬりえ文化」を出版いたしました。
 最近では、大学生が卒論などでぬりえを研究する際にこの本を参考にしたり、ぬりえ美術館を訪れたりと、新たな動きも出てまいりました。
 そして、4周年目となります今年は、「ぬりえを文化に!」の活動の一環として、世界に飛び出します。まずは、ニューヨークです。
 これまで、世界各国のぬりえを研究してまいりましたが、きいちのぬりえは世界中で最も優れたぬりえであることを確信いたしました。
 きいちが描く繊細な輪郭線、50年代のファッションや生活が思い起こさせるノスタルジー、独創的な少女の顔、そしてそのしぐさ…。これらが世界で認められている日本のポップカルチャーの「かわいい」の源流となっているのです。
 きいちのぬりえを、日本発の、時を越えて人々の心を惹きつける普遍の美しさを備えた、独創的なアートとして、世界に発信していこうと思います。

 ニューヨークは、ビジネスばかりでなく現代アート、エンターテイメントにおいても世界の中心地となっており、アートが非常に大きな影響力をもっているところであります。是非大勢のニューヨークの人々の見ていただきたいと思っています。

 このニューヨークでの展覧会を記念して、今回の企画展は「アメリカのぬりえ展」と題しまして開催し、皆様にアメリカのぬりえをご覧いただきます。ここに展示されているのは、今アメリカで売られている現代のぬりえでございます。
テーマがいろいろあるという、幅広さが海外のぬりえの特徴の一つですが、アメリカらしいテーマ、絵を存分にお楽しみください。


1.アメリカのぬりえの歴史
 ~ぬりえ本の収集より -Dian Zillner 1992年-~

アメリカの出版界に子供の塗り絵本が登場して既に100年以上になります。
塗り絵本は当時アメリカでは「Painting book」と言われていました。

1.1 マクローリン社
1890年代、子供向出版の競争の激化に伴いマクローリン社は値段を安く抑えた子供向の読み物や塗り絵本の出版のが必要だと感じ、子ども向けの本を出版いたします。
「こどもの塗り絵(The Little Folk's Painting boo)」の本の中で、にマクローリン社は以下のように書いています。
「面白くて実用的で、子供のお絵かきの技量が試せ、同時に値段が安い子供向の塗り絵本が必要であると長い間感じてきました。子たちが黙って夢中になれる本は世のお父さんお母さんたちがずっと待ち望んでいたものです。私たちは絵をできるだけ多くするためは全く読物のない本が良いと考えました。読み書き練習本のように、自分の絵の具で塗り絵することは世の子供たちに最も好きなことです」と言っています。

当時は、塗り絵本には先ずカラーのイラスト頁があり、続く頁に子供が自分で色を塗る小さな白黒のイラストの頁が続きます。それぞれの絵の大きさは3インチ×3インチ(7.5cm×7.5cm)と小さく、子供には塗るのが難しいものでした。使われたケイト・グリーンアゥエイの絵に細かなディテールが多く描かれていたこともこれらの塗り絵をさらに難しくしていたようです。1890年代初期には他の出版社からも安価な塗り絵本が出版されていました。

見本のようなカラーページがついていて、白黒のイラストページからなるぬりえ本が初期のぬりえといえるようです。絵は、イギリスで人気であったケイト・グリーンアゥエイをコピーしたようですが、子どものぬりえには、小さくて細かい線ということで難しかったようです。


2.画材
1903年、ビニー・スミス社(Binney and Smith Co.)が始めて子供用のボックス入クレヨンセット(クレイオウラ、またはクレヨラとも)を製造販売しています。
しかしその後ずっと「絵の具箱」は子供たちのお気に入りの塗り絵道具であり続けました。クレヨンが絵の具箱にとって替わったのは20年後のことで、1930年まで多くの塗り絵本には「絵の具(paint)またはクレヨンで使用します」という表示がされていました。
アメリカでpainting book とぬりえが言われた背景には、画材の影響もあったのですね。絵の具(paint)を使ったのでpainting book だったのです。
今年の7月から、この、ビニー・スミス社のクレヨラは、日本のぬりえの出版社の㈱セイカから新発売されました。子どもの画材として、ぴったりということのようです。
日本では明治時代に外国の図画の翻訳教科書をなぞるところからぬりえが発祥していますが、大正期にクレヨンが外国から入り、日本でも生産するようになり、子どもの画材として相応しいというこでクレヨンにより、ぬりえも格段に普及していくことになります。

2.1サールフィールド出版社
子供向出版業界でもう1社重要な会社は1900年に設立されたサールフィールド出版社(Saalfield Publishing Co.)があります。1902年に最初の子供向の本や紙人形や塗り絵などの読み物以外の出版を始めています。
1934年、サールフィールド社はシャーリー・テンプル(Shirley Temple)の独占出版社として成功し、シャーリー・テンプルの塗り絵本、紙人形その他を出版しました。

1930年代の世界のアイドルはシャーリー・テンプルでした。彼女は、きいちの絵の一つの参考でもありますが、ぬりえ本まででていたのです。

2.2 メリル社
メリル出版社(Merrill Publishing Company)は比較的遅くこの子供向出版の分野に入った会社ですが、紙人形、塗り絵本双方の市場で今日最も求められた本のいくつかを出版しています。
メリル社は1935年に始めて紙人形と塗り絵本を出版します。レジンスタイナー社で使われた美しいインクとその抜きん出た美しい絵によってメリル社の絵本がそれまでにアメリカで出版された塗り絵本の中の最高の塗り絵本のいくつかに位置付けられ、この高品質の塗り絵本でメリル出版社は1930年代から1950年代まで2番目に大きな子供向出版社となります。
メリル社の塗り絵本はその美しさに加えて絵が大きくシンプルで全ての頁が子供にとって色塗りし易いものでした。メリル社の塗り絵本にはもはや子供のお手本にするカラーの絵はなく、その代りに子供たちには自分が思い描く絵の完成品に最も合った絵を完成させるために自分自身の想像力を使うことが求められました。
1935年までには今日私たちが知っている塗り絵の形式が確立され、この形が今日まで変わる又、メリル社の出版物で最も有名で記憶にとどめられているものは多くの著名人の塗り絵本です。

従来のカラーの見本がついているものから、やっとこのメリル社の登場で今のぬりえ本のスタイルが生まれてきます。カラー見本がありませんから、自由に自分の創造力を発揮してぬりえを楽しめるようになっていきます。
この本によりますと、エリザベス・テーラーやチャップリン、ドリス・デイ、ジョン・ウェインなど1940~50年代にハリウッドで活躍した俳優や歌手のぬりえ本が沢山出版されていたようです。
日本でも古くは美空ひばりのぬりえや80年代の郷ひろみなど、芸能人のぬりえがありますが、アメリカは日本の比でなく、著名人が数多く売れれていたようです。今で言えば、キャラクターぬりえに相当するようなイメージではなかったでしょうか。

3.新発見!

A00311A_web.jpg


アメリカのぬりえ本の整理しているときに、大発見をしました。ぬりえの発生時期が大幅に遡るという新説がでてきたのです。
「Aesop's Fable Coloring book」の中の編集者の編集後記のようなページに、
「15世の人々も家でこのようなcolor bookをしていた!」と!マーク付きで解説がされていたのです。
私が調べて書いた「ぬりえ文化」の二章において、ぬりえの源流を書いていますが、その中で、17世に絵のある本、挿絵入りの本がでてきて一般的な人まで本を読むようになって、その挿絵に色をつけたものがみえるということを発表してきています。
ところが、これよるさらに遡ること200年、15世紀にすでにあったとかかれていますので、
この件は、今後調べて行きたいと思います。


4.アメリカのぬりえの展示
1.自然・動植物       2.自然、動植物・キャラクター
3.キャラクター・歴史・地理 4.人物・その他

今回の展示は、展示室の中央の什器を使って展示されていますが、テーマごとに4つに分類されています。
   
4.1自然・動植物
A00014A_web.jpg

子どもの教育的な面を考えますと、自然や動植物のぬりえが多いことは当然かと思われます。馬や鯨など一般的に興味の高いものが描かれています。今年ドイツの出版社を訪れたときにも、「なぜ馬が多いのか」をお聞きしたことがありますが、ヨーロッパでは一般的によく乗馬をしたりするそうなので、子どものころから馬を身近に感じているという回答がありました。そうした人々にとって、馬は大変身近な動物ということになります。
ハワイの花のぬりえは、ハワイのお土産でした。その土地
独特のものをぬりえにしているいいアイデアだと思います。

4.2自然、動植物・キャラクター
A00057A_web.jpg

レインボーフィッシュは、すでに絵本としてお馴染みかもしれません。その他赤鼻のトナカイ、マザーグース、スクービーなどのキャラクターを展示しています。
日本でもレストランでぬりえが出されるようですが、ファーストフード店、ステーキ屋さん、メキシコ料理店からも子どもさんが飽きないようにぬりえが用意されています。


4.3キャラクター・歴史・地理
A00017A_web.jpg

「スターウォーズ エピソード1」のようなキャラクターや歴史に関係するもの、タイタニックや南北戦争の著名女性(その他のぬりえ参照)、世界の地理など、これらは勉強も兼ねたぬりえ本のようです。


4.4 人物・その他
A00302A_web.jpg

人物やその他ちょっと変わったぬりえをご紹介しています。日本でも水ぬりえというものがありますが、「Paint with Water」というタイトルで、水で塗らすと色がでてくる仕掛けになっています。3D幾何学的デザインやゴーギャンなど、名画のぬりえに属するものを展示しています。


現代のぬりえの殆どがA4サイズの本のタイプになっているため、たくさんの本を展示することができませんでしたが、それでもいわゆるキャラクター一辺倒でないということを感じていただけるものと思います。
絵の内容によっては、特にアメリカ(ヨーロッパでもそうですが)では、大人のぬりえと言っているものはまだありませんが、充分に大人がぬってもよさそうなものがあります。私も、バレエや妖精の話など、塗ってみたいと思います。地域の特性や歴史など、ぬりえをとおして子どもたちに学んでもらえるいい手段だと思います。

これからも海外のぬりえを収集し、皆様にご紹介をしていきたいと思っています。来年は、ドイツでのぬりえ展の開催を計画しています。ドイツのぬりえを見ていただく機会がくると思います。どうぞお楽しみに。
それでは、平成18年8月~10月まで開催の「アメリカのぬりえ展」をごゆっくりご覧ください。(館)

その他のアメリカのぬりえ
A00015A_web.jpg
「ベルベットうさぎ」

A00304A_web.jpg
「南北戦争の有名な女性」

A00309A_web.jpg
「小人、木の神様と妖精たち」

投稿者 Nurie : 12:19 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月18日

7月の美術館便り アイコンタクトとが大事

今年の初夏は雨が多く、日照不足でした。7月もまだ雨や曇りの日が多いようですので、健康管理に注意してすごしていきましょう。
ワールドカップは、日本が負けてしまって残念でした。それでも、「ウワ~!すごいプレー」と唸ってしまうような世界のレベルの高い試合をみると本当に感動してしまいます。スポーツや芸術は、言葉がわからなくても、人のこころに直球で訴えることができますから、素晴らしいですね。さて、どの国が世界のナンバーワンになるでしょうか?
  
6月号の美術館便りで、アイコンタクトのお話をしました。きいちのぬりえの少女の目とのアイコンタクトのことです。
● ぬりえの少女の目とのアイコンタクトが大事。
昭和20年~30年代にきいちのぬりえを塗った世代は、あの頃世の中が貧しく、物も豊富になかったので、絵の中の素敵なドレスや着物、上流の生活に憧れて、夢のような世界に自分を投影してぬりえをしてきたと思っていました。その憧れのドレスや着物の裏に、実は、ぬりえの少女との、「アイコンタクト」の秘密が隠されていたのです

ぬりえの少女の目は、私(塗る人)を見ているのです。この少女と私たちぬっている少女たちは、知らずに「アイコンタクト」をしているのです。洋服を塗っているとき、背景を塗っているとき、いつしか少女の目とアイコンタクトをしながら、その少女と会話をしたり、そこまでいかなくても、少女の目や顔から意識がはなれれいることはありません。アイコンタクトがあるいことにより、私たちは、少女に受け入れられている感じをもつことができ、心が安心するようになります。

そして、このことが既に研究をされていることもお伝えしました。
茂木健一郎先生の「脳の中の人生」)中公新書ラクレ)の中でそれが書かれていました。
●「魅力的な女性の顔の写真に対して、脳がどのように反応するかと調べた実験がある。興味深いことに、目と目が合うこと、すなわちアイコンタクトが、脳の活動に影響を与える最も重要な要素であることがわかった。fMRI(機能的磁気共鳴影像法)を持ちいた研究により、女性がこちらを見ている写真に対してだけ、脳の中の「報酬」を表す部分が活動することが明らかになったのである。
「報酬」とは、脳内において、生きる上で必要な水や食べ物、他者とのかかわりなどを、好ましいこととして認識するメカニズムである。魅力的な人と目が合うことが、脳にとっては大切な報酬になるらしい。
日常生活の中でも、魅力的な人と目が合うとドキン!とする。その一方で、自分が一生懸命みつめているのに、向こうが見てくれないとジリジリする。実際、脳の報酬を表す部分の活動は、アイコンタクトが成立していないときには、写真の顔が魅力的であればあるほど、低下する。この活動の低下が、「こっちを見てくれない」というジリジリした気持ちと関係しているらしいと考えられる。」とお伝えしました。

●ドーパミンとは
この報酬というのは、別の言葉でいうと「うれしいこと」だそうで、その報酬を表す物質が「ドーパミン」というものです。ドーパミンという言葉を聞いたことがありませんか?
ドーパミンは、上述のようなドキドキするようなアイコンタクト、「やった~!」というような成功体験、「ああ、そうか!」とひらめいたりするとき、人間はとっても嬉しいものです。そのようなときに脳の中では、ドーパミンが放出されるのだそうです。ドーパミンがでてくると、とても心地よい状態になるそうで、その報酬をだすことになった行動を強化するようになるのだそうです。 たしかに成功したときには、気持ちが高揚しますね。
 ぬりえの中で、少女たちとアイコンタクトを知らず、知らずのうちにしていて、心地よくなっていた。だから、毎日、毎日飽きもせず、ぬりえを塗っていたのです。

●回想療法
さらに、茂木先生の脳のお話によれば、【昔のことを思い出す】ことも脳の活性化に良いということです。
ぬりえ美術館に来ますと、館内に入ったとたんに、子供時代に一気にタイムスリップして、昔の時代に戻ってしまう方がほとんどです。ぬりえをしていた頃の自分の両親の顔、兄弟や友人の顔が浮かんでくるようです。その時に流行していた物や事柄など次から次への話がでてきます。 昔を思い出すキッカケがこの美術館にはいくつもあるのです。
  
回想療法で、昔のことを思い出したら、つい最近起こったことを一緒に思い出すとさらに脳を活性化することができるそうです。昔と今を交互に思い出すのです。
「一昨日の昼は何を食べたかな?」というようなことで、いいのです。すぐに思い出せなくてもよいそうで、大事なことは、思い出そうとすること。出そうででないあのいらいらした気持ちも大事なことなのだそうです。
逆にいけないのは、「思い出せないヮ」と簡単に思い出そうとすることをやめてしまうことだそうです。
ぬりえ美術館に遊びにきて、見学をして、ぬりえをぬる、そして、昔の感慨にふけって、昨日は何をしていたかしらと思い出してみる。これだけで、楽しく脳を活性化することができます。ぜひ、ぜひ、皆様、遊びにいらしてくださいませ。

●最近の大人のぬりえの傾向
さて、日本では、急に大人のぬりえが人気になりました。最近(6月末)の情報では、48社の出版社が、大人向けのぬりえを出版しているそうです。この人気を受けて、出版社以外の会社が「大人のぬりえのぬりえ本」を発行するということも始まっています。
内容的には、作家物が増えてきています。作家であれば、大勢の作家の方や題材が考えられますので、ますます新しいぬりえがでてきて、多くの人に楽しんでもらえるのではないかと思いますので、期待しているところです。
 
このような難しいことを考えなくても、「ぬりえ」の本質は、楽しさです。楽しんでいただければ、 それが一番、脳にもこころにもよいことだと思います。 (館)             

投稿者 Nurie : 15:11 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月03日

6月の美術館便り ぬりえと脳

梅雨の時期がやってきました。ぬりえ美術館の金子でございます。雨に負けずに、雨の日の小物を明るい色にしてみたり、雨を使って網戸を洗うなど、雨の日を楽しんでみてはいかがでしょうか? 美術館へのお出かけは、足元に気をつけていらしてくださいませ。
  
このところ「大人のぬりえ」が人気ですね。ぬりえ美術館への取材テーマも「大人のぬりえ」が殆どですので、人気の程を肌で実感しています。
今年の4月に、私もぬりをしているときに「脳」がどうなるのかを測定していただきました。

その結果は、
1.結果として、頭部全体に血流が活発になっている。特に前頭葉右側の血流の活発化が大きいということは、脳が活性化したことを示している、という結果が得られました。
その結果、痴呆やうつなどに予防効果があると考えられることが分かりました。
 
その他にも、ぬりえを塗るといろいろな良い点が分かってきました。

2.ぬりえの前後の心理テストの項目の数値が下がったが、これは、「のんびり、楽になる、俗世を忘れる」という効果が見られると推測される。
ぬりえをした後に、気分が楽になり、自由な気分になるのを感じていたのですが、それが測定結果にも表れました。

「色」についても、重要なことがわかりました。
3.ぬりえは、色を塗ることに意味がある。色を塗ることにも反応しているようなのです。
それは、人間の目からの入力には、"対象物の形質"と"色"を感じる部分とあるのだそうですが、その中でも色は、脳の感情、情動、心を司る部分に入力される(直接関与する)のだ
そうです。色が心を揺さぶるのはそのためなのです。輪郭や形は感情にたいして影響が小さいそうです。

さらに、「きいちのぬりえ」の場合のような人物を塗るとき、こんなことが言えます。
4.塗る素材に「顔」があることも重要な意味を持っているのです。
私たち、昭和20年~30年代にきいちのぬりえを塗って人たちは、あの頃は貧しかったので、素敵な服や着物、アクセサリーなどを塗ることが憧れであり、楽しかったと思っていました。ところが、どんなに素敵なドレスや着物でも、あのきいちの少女の顔がなかったなら、ドレスや着物の素敵さが半減してしまうのです。
なぜなら、人間は形状認識の中で、顔を認識することは特別なのだそうです。それは、人は、ある人を認識するのに、顔をもって認識、区別するからです。服でもって、その人が誰それとは認識をできるものではないのです。
ですから、顔があるとないとでは大きな違いがあるようなのです。服ばかりが大事だったわけではなかったのです。

5.さらに、私の私見ですが、少女と目が大事だと思います。
きいちの少女の目が私を見ているのです。この少女との「アイコンタクト」が大変重要だと思います。
洋服を塗っているとき、背景を塗っているとき、少女の目とアイコンタクトをして、その少女と会話をしたり、そこまでいかなくても、少女の目や顔から意識がはなれれいることはありません。アイコンタクトがあるいことにより、私たちは少女に受け入れられている感じをもつことができ、心が安心するようになります。

ところで、熟年離婚の最大理由のNO.1は、「私の言うことを聞いてくれなかった」ということだそうです。新聞や、テレビを見ながら返事をしても、駄目なのです。しっかり奥様の目を見ながら、返事をしないかぎり、「言うことを聞いてくれた」にはならないのです。
ですから、アイコンタクトはとても重要です。

私の私見と思っていたことが、何と、既に研究をされていました。茂木健一郎先生の「脳の中の人生」)中公新書ラクレ)の中でそれが書かれていました。
「魅力的な女性の顔の写真に対して、脳がどのように反応するかと調べた実験がある。興味深いことに、目と目が合うこと、すなわちアイコンタクトが、脳の活動に影響を与える最も重要な要素であることがわかった。fMRI(機能的磁気共鳴影像法)を持ちいた研究により、女性がこちらを見ている写真に対してだけ、脳の中の「報酬」を表す部分が活動することが明らかになったのである。
「報酬」とは、脳内において、生きる上で必要な水や食べ物、他者とのかかわりなどを、好ましいこととして認識するメカニズムである。魅力的な人と目が合うことが、脳にとっては大切な報酬になるらしい。
日常生活の中でも、魅力的な人と目が合うとドキン!とする。その一方で、自分が一生懸命みつめているのに、向こうが見てくれないとジリジリする。実際、脳の報酬を表す部分の活動は、アイコンタクトが成立していないときには、写真の顔が魅力的であればあるほど、定価することも見いだされた。この活動の低下が、「こっちを見てくれない」というジリジリした気持ちと関係しているらしいと考えられる。」
ぬりえは、実は、アイコンタクトが人気の秘密だったのですね。

ぬりえと脳の関係のまとめ
1.単純作業でリズムの持続する反復運動が集中に関係する。
2.顔。特に少女。自分を投影し、現実ではない、少女のイメージの世界を想像する(イメージの世界に入る)例えば、飛行機のぬりえでは、この世界に入り込めないのではないでしょうか。
3.色を塗ることが心に影響する。

様々なことが分かってきました。ぜひ、雨の日の一日、机に座ってぬりえをしてみては
いかがでしょうか?お好きな絵を見つけて、チャレンジをしていただきたいと思っております。

投稿者 Nurie : 00:34 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月23日

3月美術館便り(4月、5月合併号)

18年3月の企画展「昭和のぬりえ展」 ~昭和10年代から昭和30年代~
平成18年3月4日(土)~5月28日(日)

平成18年3月の企画展では、きいちのぬりえを通して昭和のぬりえをご紹介いたします。
戦後61年、時代は平成となりました、戦前とか戦後という言葉も、だんだん聞かれなくなりつつあります。遠い昔のように感じますが、これらの時代のぬりえを見てみますと、レトロなイメージではありますが、同時に新鮮さを感じます。
そして、このぬりえの中に、今大人気のアニメやマンガの原点があったことをご紹介していきたいと思います。

【昭和10年代】
戦前の日本の生活は、大正デモクラシーの自由な雰囲気の影響で、昭和初期には文化住宅が誕生したり、ハイカラな洋食を食べたり、生活も西洋化が進み、デパートや遊園地、動物園、映画館などの様々な娯楽施設が誕生しました。
芸術の世界でも、西欧の文化や芸術運動から刺激を受けた多くの作家や画家、知識人たちが子供たちのために詩、絵本、雑誌などを生みだしました。
戦後の合言葉に「昭和8年に戻ろう」という言葉があったそうですが、昭和8年は、戦前の大消費の時代だったのです。戦争がしのびよる時代ではありましたが、昭和10年代というのは、消費の時代であり、読み物やラジオ番組など、最も豊富で面白かった時代であったようです。
   
【昭和10年代のフジヲのぬりえ】この頃は、夏目漱石の虞美人草の主人公の名前からとった「フジヲ」というペンネームで描いていました。
フジヲ時代のぬりえには、自分が勉強した日本画の影響が色濃く出ています。特に役者絵のような女性を描いたぬりえに美人画の影響が見て取れます。特に着物の模様の描き方、桜や鹿の子絞りなどの文様のひとつ、ひとつが日本画で描く描き方で描いています。ぶれる事のない線で、丁寧に細かく描かれた絵は、ぬりえとは思えない美しさであり、気品のある絵に仕上がっています。

洋風の絵は、足が太く、ぱっちりとした目のきいちのぬりえの特徴が、既に現われています。髪はパーマネントのクリクリしたヘアで、どの少女も、大変豪華なドレス姿で、エレガントに描かれています。
ぬりえに描かれたものは、歌舞伎の役者絵風、童話、お人形遊びやままごとなどの子供の遊びなど、その後のきいちのぬりえに続く絵が描かれています。これは、青少年時代から恵まれた育ったきいちならではの豊かさが絵に表れていると思われます。
和風と洋風と全く違う画風であることにご注目ください。
きいちは美人画家か挿絵画家になりたかったようですが、アルバイトでぬりえを始め、歌舞伎絵風のぬりえで人気となりました。日本画風の繊細で、丁寧に描かれた絵にきいちの良さが一番表れていて、魅力になったと思われます。
フジヲで人気となりましたが、戦争が激しくなり、本人も召集され、ぬりえどころではなくなり、フジヲ時代は、僅か3年ほどで終わることになります。

この時代の他の作家のぬりえには、フジヲと同じように歌舞伎の役者絵風なものやすずめ、兎、象の等を擬人化したぬりえが数多く描かれています。また洋風なものでは、和製ベティーさんのぬりえが非常に多く描かれています。ベティーさんは、洋風、和風(着物姿)の両方に描かれています。

きいちはベティさんを描いてはいないようですが、シャリー・テンプルのヘアスタイルは、ぬりえの少女の憧れのパーマネントヘアとして、描かれることになります。きいちもぬりえを描く際に、「シャリー・テンプルが頭にあった」とインタビューで語っています。


【昭和20年代】
昭和は、10年ごとに変わるといわれますが、20年代は戦争に負けて、灰燼からの出発を余儀なくされ、日本全体が貧しく、戦勝国のアメリカに追いつき、追い越せと復興に向け努力をしていた時代です。
今までの価値観が180度変わり、アメリカ文化がどっと入ってくることになります。

   


【昭和20年代のきいちのぬりえ】
戦後昭和21年からキイチの名前で自費出版することからきいちのぬりえが始まります。
自費出版、共同経営時代をへて、「きいちのぬりえ」が人気となっていきます。
きいちは、昭和20年に駐留していた米兵の奥さんや恋人の写真を肖像画にするという仕事を1年ほどしていました。その影響が少なからずきいちのぬりえには見られ、日本の女の子なのに、外国人の女の子のような外国の雰囲気が絵の中から感じられます。


この頃のぬりえには、非常に上品で、お淑やかな、少女が描かれています。描かれたものは外国の童話、四季を描いたもの、お人形遊びなどです。
戦争が終わって、自由に遊ぶことができるようになったとはいえ、日本はまだ貧しく、物のない時代でしたので、きいちのぬりえに描かれた世界は、自分の生活とは遠くはなれた別世界だったことだと思います。
ぬりえは5円から10円でしたが、それでも買えないという少女たちが沢山いたということも忘れてはなりません。その少女は、文房具店のガラス越しに、きいちのぬりえの袋を眺めてさらに夢を描いていたことでしょう。
貧しくて、物がなかった時代に、少女たちに夢と芸術の世界をみせてあげたぬりえでした。


【昭和30年代】
「もはや戦後ではない」と昭和31年の経済白書で言われ流行語になったが、復興期が終了して、高度成長へ入っていった時代です。
洗濯機、冷蔵庫、テレビが家庭における三種の神器といわれ、普及していき、生活革新が進みました。インスタント・ラーメン誕生し、新幹線が開通し、高速道路が開始して、次、次に新しいものがでてきたこの高度成長期の10年で、社会は大きく様変わりすることになりました。30年の東京オリンピックの開催は、復興を成し遂げた日本人の証を表す夢の祭典でしたが、この10年を象徴しているようです。

   
【昭和30年代のきいちのぬりえ】きいちのぬりえは、ベビーブームもあり、ますます人気となっていきます。大きな目に、太い足は変わりませんが、20年代より目がまん丸でパッチリとして、愛らしい顔になっていきます。
当時の少女のなりたいものは、花嫁さんでした。花嫁姿を一番人気に、お姫様、舞妓さんなど自分たちとは別世界の美しいぬりえが沢山描かれています。
少女の日常生活を描いたぬりえでは、流行の遊びはもちろん、普段子供たちがしている遊びや生活風景を様々な角度から捉えてぬりえにしています。そのような普段生活、風俗を描いたぬりえでも、自分の生活では着られないような素敵なファッションが描かれています。                            
当時のぬりえは袋に入れられて売られていましたが、一袋に、8枚から、ぬりえが終わる昭和40年頃は5枚入りになっていました。この袋の絵の色彩が原色を使いながら、けばけばしくなく、明るい元気さに溢れています。
この色使いにも、昭和30年代が表れています。


袋の書かれた「ぬりえ」という文字は、表紙のために毎回描いているものです。そのため、袋の絵によって、その文字は相応しい場所に描かれています。例えば、おままごとの袋のぬりえの「え」の字は、女の子のリボンの後ろに隠れています。
このような変化も、肉筆で描いていたぬりえの魅力のひとつではないでしょうか。


ぬりえは明治時代の翻訳教科書の絵をなぞっていたところから、発生してきますが、爆発的な人気を誇り、ぬりえ作家として残っているのは、きいちを置いて他にありません。
線で描かれたぬりえの中に、日本の伝統的テクニックを駆使しつつも、単純化した線でシンボリックに少女や風俗を明快に表現しています。
ここがポップといわれ、マンガ、アニメを刺激し影響したポイントではないかと思います。

さらに、きいちのぬりえの少女の可愛さは、戦後の日本の少女の理想像を描いていると考えられますが、今や「かわいい」という言葉が日本だけでなく、世界的に好まれるような時代になっています。「かわいい」が「KAWAII」として日本語で通じるようになっている時、まさにその原点はきいちのぬりえです。
世界の「KAWAII」の発祥は、きいちのぬりえではないでしょうか?
永遠のカワイイ!! きいちのぬりえ

投稿者 Nurie : 11:05 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月19日

2月の美術館便り NY出張報告

鬼やらいがすんで、立春となりましたが、まだまだ寒さが厳しい日がつづいています。
それでも、日差しの明るさに春の兆しが感じられまます。きっと春は、もうそこまで来ているはず。
楽しみに待ちましょう。

●NYの小学校訪問
 NYの展覧会の準備とぬりえの調査のために、1月末からNYに行ってきましたので、
今月は、そこで訪問した小学校を、ご紹介をいたします。
この学校は、ブルーミングデール小学校と言って、セントラルパークのずっと北の方にある移民の人たちが多い町の小学校でした。ここには、幼稚園クラスがある小学校で、生徒数は、幼稚園から5年生までで、625人。
ここで勉強するものは、国語、算数、社会、歴史、科学、市民権(いかにもアメリカ的ですね)と、教養面では、体育、アート、音楽だそうです。
そして、この生徒たちの構成は、65%がヒスパニック(メキシコ、プエルトリコなどの中南米のスペイン語圏諸国からの移民)、25%アフリカンアメリカン、10%アララブ系、ロシア系、中米というまさに人種のるつぼです。そのために学校では、先生は英語とスペイン語のバイリンガル(二カ国語)で授業をしていました。


マルティネ先生と子供たち
●幼稚園クラスのマルティネ先生の教室訪問
マルティネ先生のクラスは、5歳から6歳児のクラスで、生徒数は20名。
このクラスにも、ヒスパニック、アフリカンアメリカン、バングラディシュ、など様々な子供たちがいました。そして先生を囲んで、床のマットの上に座って勉強していました。
ぬりえについて、先生にお話を伺いましたところ、
ぬりえは"自由時間"にするそうです。どのようにするのかといいますと、
・自分で線を描きます。
・そこに色をぬる(カラリング)。
・そして解説をさせる(文章を書いたりする)
ぬりえのことを英語では、カラー(色とか色を塗る)に由来してカラリングといいますが、なんだか、これは作文の絵画版のようなものではないかなと思いました。
 いわゆるぬりえ帳をぬるようなものではありませんが、ここでは、上記のように塗ることをぬりえと捉えられていました。

●ぬりえの効用(1)について、先生は、
集中力」と「自分と他の子どもとの違いを認識すること」と上げられました。
 「自分と他の子どもとの違いを認識すること」というのは、今までのアンケーとのどの国にもなかった、初めて聞く回答でした。
アメリカでは、様々な人種がアメリカ人として暮らしているわけですから、その違いを認識するところが基本にあるのだと感じましたが、そのことを幼稚園クラスの子供たちがぬりえを通じて体験していくわけです。
違いがあることを前提にして、アメリカでは自分たちの個性を伸ばしていくのですが、日本では、対人関係に悩む若者の問題が取り上げられますが、同じ日本人でも、人はそれぞれ違いがあることを理解して、恐れずに人間関係を築いていってほしいですね。
   
廊下に張り出された子供たちの作品。自分たちで描いて、塗って、お話をつけています。

●ぬりえの効用(2)
創造力を養う
創作力
オリジナルな表現力を養う」という回答でした。
日本では、「沈黙は金」ですが、外国では、沈黙は評価されないのです。
自分と他人の違いを認識して、自分独自の考えを創りだし、それを表現する力をもつことが、この国では重要なことと考えられているのです。この点にもぬりえが貢献しているわけです。

●絵本について
「完成したもの」
「コンセプトがすでにあるものが絵本である」
その点ぬりえは、自分で想像し、創造する点がよろしいと評価しているのではないかと思いました。

●子供や父兄からの質問
子供達は日本からの珍しいお客様に興味シンシンで私たちを見ていました。そして私たちからの質問の後に、質問がありますといわれたのです。やはり、NYは積極的ですね。
子供たちからの質問は、
・色をいつ学ぶのですか。・えんぴつの使い方をどう学ぶのですか。
→色も鉛筆の使い方も、日本では学校に上がる前から家で覚えてしまいます。日本人はお箸などを使い、器用なので特に学ばなくても鉛筆を使えるようになります。
親からの質問は、
・いくつからぬりえをするのですか。
→2、3歳からしますが、3歳でもとても上手にぬりえをできます。
これらの質問には、驚かされました。日本では、子供が学校に上がる前に、自分の名前
や数字や色など、家で遊んでいる間に覚えてしまうのではないでしょうか?

●愛情と工夫、強い絆
この小学校では、生徒の独自性や個性の育成をはかるために、自分で調べて、作って、展示する、発表するという先生方の愛情と工夫が一杯つまった密度の高い教育と先生と子供たちの強いつながりを感じました。
先生方の就職というものは、先生が自分で就職する学校を選ぶのだそうです。移民の多いこのような学校に来ている先生方は、教育に大変熱心な先生なのですと通訳の方の説明でした。
今回は、小学校を訪問して、ほんの少しだけNYの普通の生活の一部を垣間見ることができました。ぬりえに関するアメリカらしい意見も沢山でてきました。これからも、ぬりえで他者との違いを認識して、創造性を養ってほしいですね。

投稿者 Nurie : 21:41 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月09日

1月の美術館便り 今年の目標はぬりえNY展の成功

●元旦は、新しい一日
毎年思うことですが、1月1日になると、昨日とはうって変わって本当に新しい年の日の始まりと感じるのは、私たち日本人だからでしょうか。空気までも12月31日とは違って、爽やかながら重々しく、とても新鮮な一日と感じます。
●今年の目標はニューヨーク(NY)でぬりえの展覧会の成功
「一年の計は元旦にあり」 初参りで、NYでのぬりえ展の成功を願ってきました。

昨年は、「ぬりえを文化に!」の最初の年として、「ぬりえ文化」というぬりえの専門書を出版しました。ぬりえは昔からあるにも係わらず、ぬりえが研究されていなかったからです。
国立歴史民俗博物館の名誉教授の高橋敏氏が、「研究者というのは、教科書に書いていること(正史)を研究する」とおっしゃっていましたが、 そのために、ぬりえのような子どもの遊び、それも駄菓子屋さんや文房具店で売っているようなものは、教科書上にはないので、研究対象から洩れてしまい、研究されてこなかったのだろうということが分かりました。
教科書にはでていなくても、子どもなら誰でもがぬりえをするもの、通り道であります。子ども文化にとって、特に女の子にとって欠かすことの出来ないものです。
それで、昨年は「ぬりえ文化」を出版しました。ぬりえについての最初と言ってよい専門書です。 ぬりえを文化にしていくために、さらなる活動を今年はしていきたいと思い、ニューヨークで展覧会を開催することにいたしました。
●日本は文化大国
文化の定義はいろいろな定義があると思いますが、ぬりえを文化にしたいと考える私にとって、大変興味深い記事がありました。 
「人間がもっている、キラキラ輝く光の部分を生き生きと創造に生かす。それが芸術であり、文化なのです」。とこれは、フランスの元文化相のジャック・ラング氏の言葉です。
「超一流の最高のものだけが必ずしも尊いのではない。市民や若者や労働者が持つ創造する力をいかに引き出し、どう表にだすのか。それが問われています」と文化庁が開催した国際文化フォーラムのゲストとして来日した際に、日経新聞で語っています。
さらに、 「文化や芸術を高尚なものだけに限定せずに複眼でみれば、日本は文化大国です」とも言っています。
●従来は伝統文化、今は生活文化
従来は、文化というと伝統的な歌舞伎、能、茶道、華道、などでした。しかし、今、世界中で日本のアニメやマンガや和食が人気となっています。伝統や高尚といわれてものから、日本の生活文化、庶民文化から生まれたものが、世界で先端のものとして受け入れられています。
その背景には、庶民の日常の生活の中で、創造性の高い生活をしているということがあるのではないでしょうか。例えば、職人さんの仕事として、日常品の中に、日本の手わざを見ることができます。物づくりの際に、心構えの基本に日本的な「勤勉」「謙虚」「誠実」という考えを持っていますので、その考え方から生まれるものは、日常品であっても、文化につながる物が出来上がってくるのだろうと思います。
 ジャック・ラング氏の言葉に、私たちは大変勇気付けられます。もっと文化を広い意味で受け入れていけば、私たち日本人の生活がすべて文化につながっていくのではないかと思います。
●ぬりえは文化
ぬりえの発生は、西欧の翻訳教科書からでした。ですから初めは教育的なものだったのですが、楽しいので、いつしか子供の遊びになりました。子供の遊びといっても、きいちのぬりえに見るような美しい絵は、遊びや生活の中の芸術であり、子どもたちに芸術とふれさせていた大事な機会だったのだと考えます。
子どもたちに美しい世界をみせ、子どもたちの想像力を掻きたたせ、さらには塗らなくても持っているだけで嬉しい絵になったぬりえは、やはりひとつの文化といえるのではないでしょうか。
●NYは世界のビジネスの中心、そしてアートの世界でもナンバーワン
パリは芸術、NYもビジネスという概念がありますが、最近のNYは、アートでも大きな力をもって、世界をリードしているのです。NYを訪れる観光客は、04年には3960万人、そのうちNYにある美術館を見学する人は1600万人に上ります。アートの魅力が街を牽引している、と言ってもいいすぎではありません。
そういうNYで、まず最初にぬりえを紹介したいと思いました。
日本のこころが表現されている日本の美しいぬりえを、NYの人々に新しい日本の文化として伝えたいとおもっています

投稿者 Nurie : 18:25 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月25日

12月の美術館便り クール・ジャパン

ぬりえ美術館の金子でございます。早、師走になりました。今年も沢山の方々にご来館をいただきまして、大変ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
年末年始にむけての準備で何かと気ぜわしくなりますが、こころを落ち着けて過ごしましょう。

●イルミネーションとイラストレーション
 クリスマスのイルミネーションが町を美しく彩る時期となりました。このイルミネーション、実はぬりえの源流と関係があるのです。
 ぬりえの源流は挿絵にありますが、挿絵はイラストレーションと呼びます。イラストの一番的確な訳語は「図説」であり、ともすれば難解になりがちな文章を、誰にもわかる絵で補足説明したものという意味です。そしてこのイラストレーションのラストレは「光り輝かせる」というラテン語に由来するもので、すなわち挿絵は文章を光り輝かせるといものということになります。 そして、いまや「電飾」という意味になっているイルミネーションは、もともとは中世の羊皮紙の書面を美しく装飾することでした。このイルミネーションのルミネの語源も「光らせる」にあります。同じ光らせるでも、イルミネーションは、ベージを光らせるということになります。
 街中の美しいクリスマス飾りを見たら、「イルミネーションは、ベージを光らせるもの、イラストレーションは文章を光らせるもの」と、友人、知人に語ってみたら、株が上がるかもしれませんよ。

●NYは日本ブーム
 来年の9月の末から10月にかけて、NYでぬりえ展を開催する予定です。そのために今年の9月にNYに視察に行ってきました。 マンハッタンの中心に位置する紀伊国屋書店の1階の真ん中あたりにマンガ、アニメコーナーがありますが、 5年前にNYに住んでいた人の話によるとその時は2階にあったそうですが、今や1階にあり、売り場も大きくなったそうです。
アニメは日本で使われているアニメーションの省略形ですが、世界中で日本製アニメーションをさす言葉となり、マンガもマンガで世界中で通用するようになっています。
 マンガ、アニメのほかにも日本ブームがあります。和食人気です。従来のすきやき、てんぷら、寿司はもちろんのこと、いまはやきとり、牛丼、ラーメンで特にラーメン店が人気だそうです。 マンガ、アニメの文化的なものも、従来の日本の伝統文化から広がりをもってきているように、和食のほうも、伝統的なものから一般的なもの、庶民的なものへすそ野が広がってきているように感じました。

●クール・ジャパン
 クール・ジャパンという言葉をご存知ですか?
国民総生産はGDP(グロス ドメスティック プロダクツ)といいますが、GNC(グロス ナショナル クール)、COOLとは「かっこいい」という意味で、GNCでは日本が極めて高い国であるとアメリカの若いジャーナリストのダグラス・マグレイが書いています。日本人が発する文化を世界の人々が、今、新しい感覚文化として取り入れているのです。その健闘している分野はマンガとアニメで、その分野が世界から「クール・ジャパン」と高い評価を受けているというわけです。その人気の高さをNYで肌で感じてきました。

●クールジャパンの背景
このクールジャパンの背景には、実は昔からの日本の子供に対する考え方があったのです。
《明治3年、雇われ教師として来日したアメリカ人、W・グリフィスによると「日本ほど子供の喜ぶものを売る玩具屋や縁日が多い国はない」》「日本人は子供の楽しむものの開発に抜きん出ている。大人でさえ何時間も楽しむことができる(江戸幕末滞在記)」《イギリスの初代駐日総領事は、日本を「子供の楽園」と呼んだ》日本は、江戸時代より子供を大事に可愛がって育てる習慣があるということを、幕末から明治にかけて来日した外人が発見し、認め、その子供を大事に可愛がって育てる習慣が、次のような結果を生んだのです。
「子供天国」と言われてきた日本では、子供のために費やされる金額は大きく、その大きな市場をもとに開発される子供の商品は、国際市場でもあまり競争力が強く、子供をとりこにしてしまう商品だというわけです。この傾向は、今でも続いていて、それが今のNY、いや世界のアニメブームになって、世界中で大人気となっているのです。

来年のぬりえ展は、この日本人が子供を大事に可愛がった背景から生まれたものの一つであり、日本の子供たちのこころを作ってきたもの、そして日本の文化の一側面として紹介してきたいと思っています。

投稿者 staff : 16:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月15日

大人のぬりえ

美術館便り11月号
ぬりえ美術館の金子でございます。今年も紅葉が遅れているようですね。地球の温暖化の影響ですね。先日白金の八芳園に行きました。素晴らしい庭園でしたが、紅葉は見られず、まだ葉は青々としていました。都内は下旬が見ごろだそうです。

●3周年「きいち特別展」終了
今回の企画展の最中、9月に東京新聞、NHKラジオ深夜便、読売新聞に記事が掲載され、10月には、都営線のポスターでぬりえ美術館が紹介されました。そのお蔭で、ぬりえ美術館を知っていただいて、数多くの方にご来館いただきました。本当にありがとうございました。
●福井さんのぬりえ
3周年記念には、寄贈していただいたぬりえの中から、大変素晴らしい色彩の福井さんのぬりえを 展示いたしました。そうしましたら、小学館から新発売されたA4サイズの大判のぬりえの裏表紙に、福井さんのぬりえの一部を掲載することになりました。普通の人が塗ったぬりえが本に掲載されるのです。素晴らしい出来事です。この大判ぬりえは、10月22日(土)から発売されています。

●最近の取材傾向
昨年から「大人のぬりえ」に関する取材が続いていますが、この半月の間に2ヶ所から大人のぬりえについて取材がありました。まず東海ラジオ、ジャパンエフエムネットワーク。そしてまだ検討中の1件も「大人のぬりえ」です。
質問の多くは、大人のぬりえの人気の秘密は何かということです。
●大人のぬりえの人気の秘密
まだまだ研究をしつくしたわけではありませんが、今現在考えていることは
1.高齢者の問題がまず挙げられます。老人保健施設で、リハビリや活動の一環として
ぬりえをされているところがあるようです。この点に関しては、脳の研究がすすんで、
ぬりえをすることは脳全体を使うので脳の活性化によいというが分ってきました。
ことから、高齢者にぬりえをしてもらったり、認知症防止のためにぬりえをしたらいいのではという考えから、ぬりえをするようになっていることが考えられます。
2.2007年問題
団塊世代が60歳を迎え、退職する年齢になりした。今まで世の中の流行を作って引っ張ってきた、そして高学歴をもった高齢者の人たちが生まれてきます。それらの大人たちは、従来の高齢者とは違ったライフスタイルをしていくと思われます。
昔には出来なかったけれど、今昔したかったことを実現したい、今ならできるということにチャレンジしています。例えば音楽。昔には買えなかった高級楽器を手に入れ、今まで楽器をならったことが無かった人は、ピアノやバイオリンをならってみたりして、大人向けの音楽クラスが人気になっています。
絵を描いてみたいと願っている人は沢山いると思います。絵画クラスにチャレンジする人もいるでしょうが、やはりまだ絵を描くのは難しいというひとには、ぬりえは簡単に取り組むことができ、誰にでも簡単にできるものだと思います。
3.昔とった杵柄
団塊世代の女性であれば、「昔とった杵柄」です。子供の頃に描いていた経験が体に染み付いています。それにもともと人間は、色をぬるという色彩感覚を本能的にもっているので、ぬりえをするということは、本能であるといえるのです。
ぬりえでなくても、黒い線で縁取りされた絵をみると、色をつけたくなったということはありませんか?
4.大人は時代のキーワード
「大人」という言葉をつかったものが溢れています。「大人の科学マガジン」(gakkenmook)
「大人のロック」(日経BP社・雑誌)大人組」(㈱プラネットジアース・雑誌)
「大人のウォーカー」(角川・雑誌)「日経おとなのOFF」(日経ホーム出版社・雑誌)
「大人のツボ」(BSジャパン・テレビ番組)「大人のコンソメ」(TV東京・テレビ番組)「
「大人の音楽レッスン」(ヤマハ)
購買対象としての、大きな市場性を見込まれていると思われます。
4.ぬりえ美術館の存在
大人になるとすっかり子供のころにしていたことを忘れてしまうものです。ぬりえもそのひとつですが、ぬりえ美術館の名を新聞、雑誌、テレビ、ラジオで見たり、聞いたりしたときに、ピピッと頭に響くものがあり、「そうだ、子供の頃にいっぱいしたことがある」と思い出すのです。ぬりえ美術館は3年前に開館したのですが、それ以前にはぬりえはほどんど話題にも上ったことがなかったと言ってよいでしょう。
ぬりえ美術館が大人のぬりえの影の立役者とは言えないでしょうか?

大人の意味も幅広い言葉ですが、子供以外という意味を込めて、大人の方こそぬりえの楽しさをもう一度味わっていただきたいと思います。ぬりえの本質は、「楽しさ」です。

投稿者 Nurie : 23:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月02日

ぬりえ美術館3周年記念 きいち特別展

きいち特別展◆開催期間 平成17年8月6日(土)~10月30日(日)◆

■はじめに
8月でぬりえ美術館は、3周年を迎えました。7月31日には、4000人目のお客様をむかえることができました。これも偏に皆様方のお蔭でございます。心より御礼申し上げます。
今年の2月に蔦谷喜一が91歳で亡くなりましたが、たくさんの作品を残してくれています。いつまでも皆様の心に残る展示を続けて行きたいと思っております。   
少女にとって大切な宝物であるぬりえ、理想の少女像が描かれたぬりえ、日本人の豊かな心を描いたぬりえ、まだまだいろいろな思いがぬりえにはあると思います。
今回特別展で展示でしていますのは、福井紅子様に寄贈していただいた昭和30年代初期のぬりえです。今まで見たこともなかった珍しい絵が福井さんの素晴らしいセンスで彩色されています。
蔦谷喜一の残した作品を、どうぞ心ゆくまで楽しんでいただきたいと思います。
そしてこれからも、ご支援をよろしくお願い申し上げます。
02277_16.jpg   02285_16.jpg

きいちの仕事
■きいちの人生
きいち(本名蔦谷喜一)は、大正3年京橋区に紙問屋を営む「蔦谷音次郎商店」の5男坊、7番目の子どもとして生まれる。商売は隆盛を極め、経済的に恵まれた生活を送る。きいちは絵が好きで、特に人物を描くことが得意な少年だった。
■母と姉妹の環境がセンスを磨く 
姉と妹に囲まれたきいちは、母親にも溺愛され、母親を含めた姉妹5人がよく一緒に過ごし、呉服屋さんに行ったときには、きいちのセンスが買われたようである。この感覚が後に、ぬりえの中にも生かされてくることになる。
■山川秀峰の絵に目覚める
昭和6年(1931年)17歳の時、上野の帝展で特選をとり評判になっていた山川秀峰(やまかわしゅうほう)の「素踊」に心酔し、川端画学校で日本画を又クロッキー研究所にも通い、絵の勉強を始めることとなる。
■フジヲの名で、ぬりえを始める
昭和15年(1940年)26歳の時、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をアルバイトのような気分で始める。絵は姉妹とよく見ていた歌舞伎をテーマにしたもの。この当時の名前は、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾が好きだったので「フジヲ」である。昭和16年に戦争が勃発。世の中はぬりえどころではなくなり、フジヲ時代は長くは続かなかった。
昭和20年(1945年)敗戦。
■米兵の恋人、奥様の肖像画を掛け軸式に描く
昭和21年(1946年)柔道家の兄の紹介で駐留中の軍人の恋人の肖像画を描く。きいちのぬりえのバタ臭さは、この時代の影響もあるかもしれない。このときの肖像画は、掛け軸に仕立てあげたそうで、それも米軍の方には珍しいので人気となったようである。            
■キイチの名でぬりえを再開
昭和22年(1947年)自分でぬりえを作り販売を始める。
名前はキイチ/KIICHI。
■きいちブームとなる
その後石川松声堂と山海堂との共同経営を経て、昭和23年(1948年)に、「きいち」の名で、絵描きとしてぬりえを描くことに専念することとなる。
 ぬりえはそれまでは、バラ売りをされていたが、昭和23年頃から、袋入りで販売されることになる。これは絵はがきを扱っていた石川松声堂のアイデアだったそうだ。一袋に最初は12枚セットで5円。それから物価の上昇に伴い10枚、8枚、ぬりえの人気が衰退してきた昭和40年ころは5枚入りとなった。
戦後のベビーブームもあり、ぬりえの人気はうなぎのぼり。昭和30年代後半までぬりえ人気が続く。
02079_16.jpg   00680_16.jpg

ぬりえ専門の絵描きの「きいち」が描くぬりえは、マンネリすることもなく、平均すると月100万セット。昭和30年前後の最高時には月160万セット売れたそうだ。(『日曜研究家』)。

 「きいちのぬりえ」は毎週新しいものが、石川松声堂と山海堂の2社から販売された。100万セットということは、毎週1つの袋入りが10万セット以上売れていたということになるわけで、10万人以上の少女が毎週きいちのぬりえを描いていたという数字になる。日本の少女できいちのぬりえを塗ったことのない少女は、少ないのではないだろうか。そのため、この美術館のぬりえを見て、「この絵は、塗ったような記憶がある」と何人もの来館者が言うことがあり、それだけ共感性も大きいのだと感じている。

■その後のきいち
昭和34年(1959年) 皇太子殿下(現天皇陛下)の挙式
昭和35年(1960年) NHKと民放がテレビのカラー放送を開始
昭和39年(1963年) 東京オリンピック開催などの出来事があり、テレビが一般家庭に普及していくこととなる。
昭和38年(1962年) 我が国初のアニメーション『鉄腕アトム』が放映されると、『狼少年ケン』などが後に続き、以後アニメブームへ突入していく。これらのテレビの影響で、ぬりえは下火となって、衰退していく。
昭和40年(1978年) 61歳 リースや即売用の美人画を書き始める。
昭和53年(1978年) 64歳 資生堂ザ・ギンザのギャラリーにて「きいちのぬりえ展」が開催される。第2次きいちブームの火付け役となる展覧会であった。
昭和60年(1985年) 71歳 このころから「童女百態シリーズ」に取り組み始める。ひな祭りや羽根つき、七夕など、主に日本の文化や風習ななどを取り入れた童女の姿を日本画で表したものである。
その後、コマーシャルに使われることが度々あり、人々の記憶を呼び覚ましていく。

平成 5年(1993年) 79歳 テレビ朝日の自社キャンペーンに起用される。
平成 7年(1995年) 81歳 東京駅ギャラリー三田や銀座松坂屋などで「童女百態」の原画展が開催される。
平成 9年(1997年) 83歳 埼玉県春日部市のギャラリー星の館で原画展が開催される。
平成11年(1999年) 85歳 早稲田塾のキャンペーンに起用される。
平成13年(2001年) 87歳 埼玉県小川町で「ぬりえ展」が開催される。
平成14年(2002年6月)88歳 フランスパリのカルティエ現代美術財団にて村上隆がキュレーションする「ぬりえ展」に出品
平成14年(2002年8月)ぬりえ美術館開館
平成15年(2003年) 89歳 早稲田塾のキャンペーンに起用される。
平成16年(2004年) 90歳 喜多方市立美術館にて
「きいちのぬりえ 蔦谷喜一の世界展」が開催される
平成17年(2005年) 2月24日91歳で永眠
平成17年(2005年)7月 春日部市の春日部ロビンソン百貨店において
            「蔦谷喜一の世界展」が開催される。
  
~福井紅子さん寄贈のぬりえ~
02396_16.jpg   02350_16.jpg   02492_16.jpg

今回の「きいち特別展」のぬりえは福井紅子さん寄贈のコレクションを展示しています。
福井紅子さんは、現在82歳。赤ちゃんをあやしながらぬったというぬりえで、昭和31年頃のものです。
福井さんは子供の頃から絵を描くのと色を塗ることが大好きだったそうです。民謡舞踊もなさっていたそうで、そのため、きいちの描く踊りのぬりえなどその背景をご存知のせいか、その踊りに使われるような色を正確に使っていらっしゃいます。
洋服の絵も、今でも素敵に感じる大変モダンな色彩、例えばグレーに臙脂とか、黒の服にピンクのラインをいれるなど、センスの良い配色に見とれてしまいます。
このように丁寧に素敵に塗られたぬりえに、きっときいちも喜んでいることと思います。
福井様、素敵なぬりえを沢山ありがとうございました。

(美術館便り 8月、9月、10月)

投稿者 Nurie : 12:07 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月04日

きいちの追悼展ご来館の御礼

ぬりえ美術館の金子でございます。紫陽花の花が雨に映え、梔子の花が香る季節となりました。梅雨の季節も楽しみ、充実した一日を過ごしていきたいものですね。

2月に亡くなりました蔦谷喜一を偲び、3月から5月まで「きいち追悼展」を開催いたしましたところ、きいちファンの方々から、お花やお線香、お悔やみのお手紙をいただきました。そして美術館まで足を運んでくださいました多くのファンの方々、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。
これからも少女の夢と憧れであった「ぬりえ」を、次の世代まで残していきたいと強く思っているところです。
ぬりえ美術館は、今年8月で3周年を迎えます。3周年記念としてぬりえについての本「ぬりえ文化」を9月に出版いたします。この本によって、皆様方のぬりえに対する理解を深めていけたらと思っています。
この内容に関しましては、必要なページでご紹介をしていこうと考えておりますので、乞うご期待!

今月は「きいち追悼展」来館者の声をご紹介したいと思います。

3月13日 NAOKO様
体が弱くて外で遊べなかった私に祖母が病院に行く度にぬりえを買ってくれました。
現役のまま旅立たれた喜一氏万歳。死にざま、生きざまが見事です。あっぱれ。涙がとまらないのは皆さんも一緒ですか?みんなの昭和が喜一氏のぬりえと共に眠りにつきました。

4月17日 SETSUKO様
名古屋から来ました。願いがかなって感動しました。いつまでも、夢と希望を与えてくださいませ。

4月23日 EN様 AIKO様
ぬりえときせかえが私の幼児期の最大のお友達でした。今も、その頃のわくわくする気持ち・・・忘れていません。

4月23日 KONNO様
喜一先生が亡くなられた事、残念でたまりません。子どもの頃、やさしい心、温かい心をぬりえをとうして母から教えてもらったように思います。再びここで、心安らぐ気持ちです。
どうぞ安らかにとお祈りします。

4月29日 YUKI様(10才)
昔ってかんじがしたけど、またブームがきそうなかんじでした。私もきいちのぬりえをさせてもらいました。とてもこまかくてびっくりしました。絵はきいちさんどくとくでした。絵のほかに、横にかいてある文もすてきでした。

5月4日 U.MASAAKI様
今日、はじめて拝見してぬりえもARTであることが再認識されてとても興味深く鑑賞させていただきました。さして興味がなかったのですが、やはり日本の文化、更にはアートの世界へと導いてくれたような気がして楽しく拝見することができました。

5月5日 RIE様
丸いものにはヒトがよってくるときいたことがあるけれど、カオや目だけでなく雰囲気がマルい。だからひかれるのかなーとおもった。

5月5日 K.SUMIE様
このようななつかしい温かい文化が見直される日が続くように、絶対平和な日本でありますように、ねがいます。憲法記念日もすぎました。声高にではありませんが、この美術館も静かに平和の尊さを訴えているように思います。

5月7日 K.KAZUKO様
新聞で"きいち"の名前を見て、はじめて人の名前だと知りました。小さいときからのなぞがとけたような気持ちでした。ぬり絵は私が絵に出合った原点です。ありがとうございました。

5月29日 SAKAMOTO様
きいちさんの絵のおしゃれなことに感心しています。ありがとうございました。

これからも、皆様のこころの原点でありたいと思っています。金子マサ

投稿者 Nurie : 22:04 | コメント (1) | トラックバック

2005年06月22日

永遠なりきいちのぬりえ展(1)

昭和のぬりえ作家 蔦谷喜一追悼展
開催期間:平成17年3月12日(土)~5月29日(日)

050307 (2)_15.jpg

平成17年2月24日、91歳で老衰のため蔦谷喜一が永眠いたしました。2月18日に91歳の誕生日を迎えたばかりでした。
蔦谷喜一という昭和のぬりえ作家が伯父であるということが、私にとってこのぬりえ美術館を開館するきっかけでした。
戦後の少女、団塊世代の少女にとって、ぬりえは欠くことのできない遊びでした。「ぬりえが宝物だった」と表現してやまない昔の少女たちがどれほどいることでしょう。ぬりえから沢山の夢をもらい、貧しいけれど心豊かに、情緒や仕草を学んでこれたことでしょうか。
ぬりえは子供の遊びですが、心を育む遊びでもあります。きいちは、「塗らなくてもいい、美しい絵を持ってもらいたい」と言って、美しい、本物の絵を描いていました。
少女にとって大切な宝物をこれからも残して、ぬりえ文化として育てていきたいと思ってこのぬりえ美術館を開館しました。ぬりえ美術館の使命はこれからです。
永遠なりきいちのぬりえ!!
蔦谷喜一の残した作品を、どうぞ心ゆくまで楽しんでいただきたいと思います。そしてこれからも、ご支援をよろしくお願い申し上げます。

きいちの仕事
きいち(本名蔦谷喜一)は、大正3年京橋区に紙問屋を営む「蔦谷音次郎商店」の5男坊、7番目の子どもとして生まれる。商売は隆盛を極め、経済的に恵まれた生活を送る。きいちは絵が好きで、特に人物を描くことが得意な少年だった。
昭和6年(1931年)17歳の時、上野の帝展で特選をとり評判になっていた山川秀峰(やまかわしゅうほう)の「素踊」に心酔し、川端画学校で日本画を又クロッキー研究所にも通い、絵の勉強を始めることとなる。
昭和15年(1940年)26歳の時、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をアルバイトのような気分で始める。絵は姉妹とよく見ていた歌舞伎をテーマにしたもの。この当時の名前は、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾が好きだったので「フジヲ」である。昭和16年に戦争が勃発。世の中はぬりえどころではなくなり、フジヲ時代は長くは続かなかった。
050307 (1)_15.jpg
●絵は、フジヲ時代のぬりえの「お舟」

昭和20年(1945年)敗戦。
昭和21年(1946年)柔道家の兄の紹介で駐留中の軍人の恋人の肖像画を描く。
きいちのぬりえのバタ臭さは、この時代の影響もあるかもしれない。
昭和22年(1947年)自分でぬりえを作り販売を始める。名前はキイチ/KIICHI。
その後石川松声堂と山海堂との共同経営を経て、昭和23年(1948年)に、「きいち」の名で、絵描きとしてぬりえを描くことに専念することとなる。
ぬりえはそれまでは、バラ売りをされていたが、昭和23年頃から、袋入りで販売されることになる。これは絵はがきを扱っていた石川松声堂のアイデアだったそうだ。一袋に最初は12枚セットで5円。それから物価の上昇に伴い10枚、8枚、ぬりえの人気が衰退してきた昭和40年ころは5枚入りとなった。
戦後のベビーブームもあり、ぬりえの人気はうなぎのぼり。昭和30年代後半までぬりえ人気が続く。
ぬりえ専門の絵描きの「きいち」が描くぬりえは、マンネリすることもなく、平均すると月100万セット。昭和30年前後の最高時には月160万セット売れたそうだ。
(『日曜研究家』)。
     
「きいちのぬりえ」は毎週新しいものが、石川松声堂と山海堂の2社から販売された。100万セットということは、毎週1つの袋入りが10万セット以上売れていたということになるわけで、10万人以上の少女が毎週きいちのぬりえを描いていたという数字になる。     
そのため、この美術館のぬりえを見て、「この絵は、塗ったような記憶がある」と何人もの来館者が言うことがあり、それだけ共感性も大きいのだと感じている。
       

投稿者 Nurie : 12:59 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月20日

まだまだ続く大人のぬりえ人気

美術館便り3月号

●大人のぬりえ人気の秘密を探るー日経トレンディー3月号―
「日経トレンディー3月号」に、「ぬりえ」の記事が取り上げられました。最近大人がぬりえをするのが流行しているらしい。「不思議ヒットを斬る」というコラムでその人気の秘密をさぐって、4人の識者がその理由を語っています。

■ぬりえは脳をバランスよく使う。"ほどほどの創造力"がストレス解消に効果的
―杏林大学医学部精神神経科教授 古賀良彦氏―

ぬりえを脳科学的に見ると「見る」と「描く」という2つの作業をバランスよく行う「視運動強調」を保つ運動といえる。見ることは脳の後ろ半分、描くことは脳の前半分をよく使うので、ぬりえをすることによって脳全体が活性化されることになる。

ポイントは、"ほどほどの創造力"。単純作業だが図柄が多く、色を使うので飽きない。12色、24色程度の色の認知能力を使うことで、程よいリラックス感も得られる。塗っているときは集中するが、終わったらさっと忘れられるところも良い。
「たかがぬりえ、されどぬりえ」なのだ。

050205tredy02.jpg050205tredy01.jpg
日経トレンディー3月号 「不思議ヒットを斬る」

■気軽に有名アーティストとのコラボレーション気分を楽しめる。参加型アートのひとつ。
―ワーカホリックス代表取締役 柏木 篤氏―

最近の現代美術の世界でも、ファンが「色」に強く反応する傾向があり、村上隆氏の作品など一見平面的であり、そのままでもどこか"ぬりえ"っぽい。
ファンも作品を高尚な芸術として見るのではなく「カッコいい」「カワイイ」という身近な感覚で惹かれていることが多いので、好きな作家の作品に自分の好きな色をつけることにも抵抗がないのではないか

あらかじめアウトラインが引かれているぬりえなら、デッサン力は必要ない。自分の感覚で色をぬるだけで、好きな作家とコラボレートしているような気分が味わえるのだろう。
参加型のアートの楽しみ方が、若い世代を中心に定着しつつある。

■絵に自信がなくても、作品ができる「達成感」が人気。手ごろな生涯教育ツール。
―学研 用事教育研究所主任研究員 加藤 信巳氏―

大人のぬりえは絵が苦手な人でも枠内をきれいにぬれば鑑賞に堪える作品ができるという「達成感」が人気なのではないか。一時絵手紙がブームになったのと似て、特別な才能がなくてもちょっとしたコツさえつかめば作品と呼べる水準のものができる。

手先をつかうことは、前頭葉の機能を高め、認知症(痴呆)予防に有効ともいわれていることから、ぬりえは高齢化社会のコミュニケーションツールとしても有効ではないかと考えられる。
性別や年齢に関係なく楽しめるのもぬりえの良さ。ぬりえを使った高齢者と子供など異世代の交流も可能なのではないだろうか。

■団塊世代には懐かしく、若者には新鮮な遊び。ぬりえの楽しみは世代を超える。
―ぬりえ美術館館長 金子 マサー

団塊世代の女性のほとんどが、子供の頃にぬりえで遊んでいる。きいちのぬりえだけでも毎月100万部、ピーク時には160万部売れていた、大ベストセラー。それだけあの当時の女の子は、ぬりえで遊んでいたのだ。
色や画材、ぬり方で十人十色の出来上がりになる。ぬりながら、色の世界に没頭することでストレス解消にも役立っているようだ。
キャラクターもののぬりえで育った若い世代は、自由に好きな色を塗れることが新鮮で楽しいという。キャラクターは色が決まっているからだ。若者ならではのポップな色使いで、レトロなぬりえも新しい表情を見せる。ぬりえは世代の壁も軽々と超えてしまうのだ。

●ぬりえ美術館開館以来、ぬりえの注目度がアップ!
いままで忘れられていたぬりえが注目され、ぬりえの効用や活用の幅が広がってきたようです。ぬりえの脳への効果の研究はまだ必要のようですが、画家が高齢になっても元気に現役で活躍しているのは、よく知れていることです。ちなみにきいちも今年91歳。

2007年には、団塊世代の定年が来ます。昔とった杵柄で、60代からの趣味のひとつとしてぬりえにチャレンジしてみては、いかがでしょうか?

投稿者 Nurie : 17:10 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月10日

平成17年1月美術館便り

タイ出張報告!!
昨年8月に「アジアの中のタイのぬりえ展」を開催しました。そのお礼と報告を兼ねて年末に友人と二人でタイへ行く計画していました。12月26日、スマトラ沖地震が発生。そのような中、タイ行きを決行してきました。TSUNAMIのことも含めて、報告をさせていただきます。

●ぬりえ作家シティポーン氏に展示会のお礼と報告をしました。
050107tayori02_30.jpg 050107tayori01_30.jpg

写真は、シティポーン氏と上司昨年の展覧会でもお見せしたタイの伝統の子供たちを描いたシティポーン氏の絵は、2005年度のドイツの製薬会社BYER社のタイ向けカレンダーにも使用されました。ぬりえ美術館で、彼の展覧会を開催したのは、"先見の明がある"と上司の方から言われました。
シティポーン氏は、2005年度のために、新しい作風にチャレンジしていました。どのような本ができるのか楽しみです。ますますのご活躍を期待しています。

●タイの高僧の蝋人形に感激
050107tayori03_30.jpg

以前アユタヤ観光に行ったときに、ある寺院にあるお坊さんの蝋人形を見たときに、余りの精巧さに眼を見張ったことがありました。その後、タイのテレビで蝋人形館があることを知り、やっと今回見学が実現しました。この蝋人形は、タイが誇る芸術家のドュアンケウ・ピタヤコーンシン氏の作品によるものだそうです。






050107tayori04_30.jpg
誰が蝋人形でしょう?
●特に精巧だと思ったものは、お坊さんの人形です。これらのお坊さんはタイの歴代の高僧の姿を模しているわけですが、高僧らしい立派な顔つき、さらには老人特有の肌の感じや頭髪が芸術的だと思いました。頭髪は毛を1本、1本植えられていますが、坊主刈りの髪の伸び具合や白髪の感じなど、驚くほど精巧です。人形に近づいたら、お坊さんが動き出してくるのではないかと思ったほどでした。
タイの伝統的な遊びをする子供たちの姿も、大変よくできていて、子供らしい表情がよく捉えられていました。この美術館では、これらの他に、タイの歴代の国王の群像やタイの物語の人形などがありますが、タイの伝統的な生活様式を伝えていこうとするタイの方針をここでも感じることができました
050107tayori05_30.jpg 050107tayori06_30.jpg


●12月27日バンコクに向けて出発・現地でクラビ行きを中止
今回の予定は、バンコクで仕事をして、南のクラビで後半過ごすという予定でした。最初の滞在地のバンコクで情報収集してから、南の滞在をどうするか決めることにして、出発しました。結局クラビにいくことは中止しました。毎日テレビで報告される被害が日を追うごとに拡大していくのに、心を痛めながら過ごしました。日本ではプーケットの方が有名なため、プーケット情報が多いのですが、実はクラビの方がプーケットの倍も、被害を受けています。

●TSUNAMIの影響はホテルにも
定宿にしているホテルは、いつもより朝食時の食堂が込んでいました。受付のカウンターには「大使館・領事館へのコンタクト」なる名札もでていました。聞いてみると、TSUNAMIの被害にあった方々が20部屋宿泊しているとのこと。足を骨折している人、エレベーターの中で急に泣き出すご婦人などを見かけました。しかし、この名札も2日ほどでなくなり、ホテルも静かになりました。

●タイでは王様のお孫さんが死去
タイでは王室もこの災害に巻き込まれていました。国王のお孫さんが無くなったのです。
クリスマスシーズンということもあり、外国の観光客が多く巻き込まれていたのも、今回の災害の特長でした。

●バンコクでの日本情報
定宿のホテルではNHKを見ることができませんでしたので、CNNの情報を聞きました。すべての英語を理解することはできませんでしたが、残念ながらそれらの情報の中では、余り日本が話題になることがありませんでした。日本からの先遣隊の出動を聞いたときホッとしましたが、バンコクで情報を聞いていると「遅いな」と感じました。やはり、日本との距離感があるのだと感じました。

●海外では、地震といわずに、"TSUNAMI災害"と表現
TSUNAMIが使われるように、地震、津波に関しては、日本は知識も経験もあるのですから、今後の大活躍を期待したいと思います。そして災害にあわれた方々が早く落ち着いた生活ができるように願っています。

投稿者 Nurie : 10:47 | コメント (1)

2005年01月25日