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平成19年3月~5月企画展 「きせかえ展」-1-

平成19年3月3日(土)~5月27日(日)開催

きせかえは、ぬりえと共に語られる少女の遊びの定番ではないでしょうか。ぬりえ美術館に来館される方からのご要望に応えまして、きせかえ展を開催することになりました。
きいちのきせかえを中心に、日本のきせかえ、アメリカのきせかえなどを展示しています。どうぞきせかえの美しさ、楽しさをご覧ください。

きせかえの歴史、背景について
ぬりえを研究してみてわかったことですが、ぬりえには批判の文章はあっても、残念ながらぬりえの研究はなされておりませんでした。そこで2005年に『ぬりえ文化』を出版したわけですが、きせかえの歴史についても、ぬりえと同様に研究をされていないようです。今回は、現時点でわかる情報をお伝えしていきたいと思います。

きせかえ遊び (おもちゃ博物館14  1997年京都書院発行 多田敏捷著)より「一般に「着せ替え遊び」とは、人物やいろいろな衣装が印刷された一枚の色刷りの紙から、人や衣装を抜きとり、衣装の着せかえを楽しむ遊びを言うが、広い意味では、市松人形やバービー人形、リカちゃん人形などの衣装の着せかえ、日本人形にいろいろなカツラをつけかえる遊びまで着せかえ遊びという。(中略)
着せかえ遊びのルーツは、人形にいろいろな衣装を着せて遊んだのが最初であろう。昭和17年(1942)刊の『日本人形史』(山田徳兵衛)に「裸人形という言葉、その絵は西鶴の五人女に見える・・・・・、
ふだんの玩び物として広く行われ、姉様や土人形にくらべると高級品であった。衣装をも着せたであろう。」とあり、江戸時代の初期には広く裸人形で着せかえ遊びが行われていた事がわかる。
また『日本人形史』には、「裸人形に次いで、衣装着の人形を子供がふだん玩ぶことが普通になった。衣装を着せてあるのを買ったり、また家庭で縫って着せたりした。それを市松人形などと呼んだ」とあり、裸人形に次いで、市松人形の着せかえ遊びが、より広く家庭に普及していった事がわかる。しかし、いかに普及したとはいえ、市松人形などの着せかえ人形は、一般庶民、特に裏店の子供たちにとっては高値の花、姉様人形に、紙製の衣装が精一杯であったであろう。しかし姉様人形といえども、姉様の製作には技術が必要であり、小さな子供達には製作が困難であろう。
そこで考えたのが紙製の着せかえであろう。まず一枚の紙に木版で刷るので、人形とくらべると非常に値段が安く、一枚の紙から人や衣装を切りとるだけですむので、姉様をつくったり、衣装をつくったりする技術も手間がかからず、その上、木版で刷るため、どんな人形でも、どんな立派な衣装や調度品でも思うままである。これらの事が、紙製の着せかえが着せかえの主流になった原因であろう。
紙製の着せかえは江戸後期頃から現われ、明治時代初期には文部省製本所発行の西洋着せ替えなどもつくられ、また、おもちゃ絵の普及にともない、木版刷りの安価な着せかえが一般に広まった。大正、昭和と、紙製の着せかえは、時代、世相を反映した図柄が印刷され、多くの幼女達に愛用された。しかしテレビの普及や、バービー、リカちゃんなどの人形の普及により紙製着せかえは廃れ、現在では駄菓子屋や、文具店の片隅でほそぼそと売られている状態である。安価な紙製着せかえが再び日の目を見る日を期待したい。」
おもちゃ博物館24巻を発行した多田敏捷氏は、本の中でこのように語っています。
お人形遊びや姉様遊びとして遊ばれたきせかえが、おもちゃ絵の普及によって、紙に刷られた紙製のきせかえに発展をしていったもののようです。

明治時代に、「教育少女きせかえ」と題された紙製きせかえがありますが、明治から大正時代にかけて完成した形として、解説されております。
(「立版古」解説=山本駿次朗 誠文堂新光社より)(尚、展示品には、このきせかえはございません)
描かれた着物姿から明治時代と時代を感じますが、その形は昭和20年代のきいち世代のぬりえと変わりません。 手ぬぐい、金魚鉢、朝顔などの小物も描かれていますので、季節感が伝わってきます。着物や小物によって、1年を通じて、季節ごとに遊ぶことができます。

投稿者:Nurie |投稿日:07/02/25 (日)

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