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ぬりえ美術館便り合併号(8月~10月)

ぬりえ美術館は、2002年8月に開館し、今年で7周年を迎えることができました。これも偏に皆様のご支援の賜物と心より感謝申し上げます。
2002年に開館以来、展示とぬりえについての関係書の出版、海外でぬりえを紹介するぬりえ展開催という3本柱の活動をしてまいりました。これからもこれらの活動を通じて、ぬりえの認識を高め、活発化するように努めてまいりますので、これからもご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

企画展のご案内
蔦谷喜一は、2005年に91歳でなくなりましたが、今年で生誕95年となります。
ぬりえ美術館7周年記念企画展は、これを記念いたしまして、「生誕95年 蔦谷喜一展」を開催いたします。


蔦谷喜一とは、きいちのぬりえとは
戦後の昭和22年から40年ころまで、少女に絶大な人気があったぬりえが
「きいちのぬりえ」でした。当時ぬりえは大変な人気で、40人ほどの作家がいたと、きいちが言っていましたが、その中でも一番人気があったのが、きいちでした。
「きいちのぬりえ」とおもちゃに作家の名前が付いたのもきいちが最初ではなかったでしょうか。

2002年、日本の現代アートの第一人者である村上隆氏がキューレーションをして、パリのカルティエ現代美術財団にて開催された「ぬりえ展」の出品を期に、きいちは今、世界からも関心を集めています。
その村上隆氏が蔦谷喜一を称して、「まだ貧しかったあの時代の、少女たちの美へのあこがれに応え、「想像力」を喚起した。芸術家です」とコメントされています。

きいちのぬりえの特徴
ちょっと四角い大きな顔に、ぱっちりした大きな目、そして太い足の三、四頭身の女の子、というものでした。
あのような少女の顔が、当時の少女の理想像だったのではないか、と私は思っています。
そして、三、四頭身が日本人が考える「可愛らしさ」ではないかと思います。
可愛いの原点は、きいちのぬりえの少女ではないかと思っています。

ぬりえに描かれていたもの
お姫様や花嫁さん、お正月や七夕などの四季の行事、バレエのレッスンやピアノなどの洋風のハイクラスな生活や、誕生日などの特別の日の素敵なファッション等、
日常の暮らしから、おもちゃや家電など当時の流行のものまで描かれていました。そこには当時の女の子が夢みて、憧れたものが沢山描かれていました。

当時のぬりえは今のようなノートではなく、シート状になったぬりえが8枚ほど、袋の中に入って売られていました。きいちのぬりえは毎月、2つの版元、今でいうメーカーから4袋づつ合計8袋発売されていました。
「きいちのぬりえ」だけで、一月に100万部、ピーク時には、160万部売れたといわれています。毎月100万人の少女たちが塗っていたということになります。

ぬりえの中に書かれている小鳥とは
きいちのぬりえには、必ず小鳥のマークが付いています。その小鳥は、「チルチルミチルの青い鳥」の鳥の意味だそうです。子供たちに幸せになってほしいという思いを込めていたのでしょう。
今回、きいちが作成した"しおり"を展示していますが、会社名として「AOITORI」
という名前が書かれています。常に青い鳥を意識していたことがうかがえる資料です。

ぬりえが売れた時期とエリア
ぬりえは毎月販売されていましたが、ぬりえが売れたのは、秋から冬にかけて、暮れの12月が一番売れたそうです。又エリアでいいますと、「北海道」が一番売れたそうです。
今は暖冬になり雪も少なくなりましたが、当時は雪がもっと降って、閉ざされた世界の一番の楽しみだったのではないかと思います。

ぬりえは子どもの大事な情報源
昭和20~30年当時「月刊誌」を購入できる子どもは、クラスの何人でもありませんでした。テレビやマンガの週刊誌もまだない時代です。そのような時代に、東京からやってくるぬりえの中に描かれた世界は、「週刊誌のような情報源」であったと、私は考えています。
東京で流行しているもの、自分と同じような遊びをしている少女など、共通のものを見つけたらり、最先端のものを絵の中に見つけては、胸を躍らせて、ぬりえと取り組んだのではないでしょうか。

きいちのぬりえの少女のパッチリお目目きいちの少女たちは、日本人なのに、大きな、ぱっちりした目をしています。
フランス人形の瞳や、外国映画の女優さんの、くるりとした睫毛の影響を受けて、ああいう目を描くようになったのだそうですが、あの目は、今で言う「マスカラ」を塗った目なのです。
マスカラのような存在に気が付くのも、きいち自身が築地育ちのお洒落なモダンボーイだったから、なせる業だったと思います。

ぬりえの衰退ぬりえは、昭和34年のご成婚、昭和39年の東京オリンピックなどで、テレビが一般家庭に普及するにつれて、古臭いものとして衰退していきます。同じ頃、映画や紙芝居が同じような運命で消えていきました。


「蔦谷喜一」とは、とのような人物だったのでしょうか。
本名は、蔦谷喜一。大正3年に東京は京橋区新佃ということころで、紙問屋の五男で、九人兄弟の七番目として生まれました。
新聞社に紙を納める紙問屋の息子として、何不自由なく育ちます。
流行のファッションに身をつつみ、お隣の銀座を闊歩するモダンボーイでした。

きいちは、子供のころから絵が好きで、特に人物画が得意だったそうです。 
昭和6年。17歳の頃です。帝展に出展されていた山川秀峰の「素踊」をみて、自分の夢は何か、ハッキリと自覚するようになったきいちは、川端画学校で日本画を習い、クロッキー研究所というところで裸婦デッサンなどを勉強しています。

昭和15年。きいちが26歳。川端画学校の友人がぬりえの仕事を持ってきました。歌舞伎が好きだったきいちは、歌舞伎をテーマにしたぬりえや美人画のようなぬりえを描き、人気となっていきました。
戦争になり、中断。
戦後の1年は築地に駐留していた米兵の、恋人や奥さんの肖像画を掛け軸に描く仕事をしていました。100枚くらい描いたそうです。きいちの絵がバタ臭いといわれますが、この頃の影響かもしれませんね。

その後、昭和22年より本名の「きいち」でぬりえを再び開始し、爆発的な人気となったのは、先にお話したとおりでございます。

昭和40年頃には廃れてしまったぬりえですが、昭和53年(1978年)私が以前勤務していました化粧品会社の銀座のギャラリーで、きいちのぬりえの展覧会が開催され、「第二次きいちブーム」が起こることになりました。
それ以来、コマーシャルに使われるなどして、人気は今に続いています。

ぬりえが大人気の時代に、「ぬりえは子どもの創造性を阻害する」とぬりえが悪者扱いをされることもありました。そんなとき、きいちは、
「ぬりえは絵画の教育ではない。幼い子どもの情操を養う、こころの遊びだ」と反論しています。
また、「もし、"ぬるための絵"を考えて絵を描いていたら、もっと違った、教育的なものを描いていたと思う。しかし、私は美しい絵を描きたいから描いてきたのだ。
色を塗っても塗らなくても、持っているだけで楽しい、という絵が描きたかったのだ」とも語っています。

生涯現役で絵を描いたきいちは、2005年91歳でなくなりました。

2006年頃より、大人のぬりえが人気となりました。老人の施設でもぬりえがなされているようですが、ぬりえ専門に描かれたきいちのぬりえはここでも人気となっているそうです。色は脳の中の、感情の部分に直接関与するものだそうですので、ぬりえをするとその色によって、心も元気になるようです。
ぜひ、この機会をきっかけにぬりえを楽しんでみてはいかがでしょうか?

投稿者:Nurie |投稿日:09/08/01 (土)

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