« 2月の美術館便り-1 | メイン | 2月の第二週の館長室から »

2月の美術館便り-2

□きいち生誕97年
今月はきいちのお誕生月になります。2月18日生まれのきいちは、2005年に91歳でなくなりましたが、今年はちょうど生誕97年になります。この機会にきいちの人生を紐解いてみたいと思います。

大正3年、9人兄弟の5男として、築地に生まれました。
父親の家業は新聞社向けの紙の納入する紙問屋。父親は津軽出身で20歳で上京し、一代で蔦谷商店築きあげた人でした。本拠地の築地の店のほかに、麻布や品川に工場を構え、大磯の別荘や人形町の何百坪もある土地に加え、いくつか土地や建物を所有していたといいます。そんな裕福な環境の下で、子ども時代を過したお坊っちゃまでした。
下町に生まれ育っても、下町独特の喧騒にはなぜか溶け込むことができなかったきいちが特に好きだったことが、絵を描くことであり、人物画が好みでした。
17歳の時、帝展で見た山川秀峰の「素踊」の絵を見て画家の道に入ることを決意。文京区春日にあった川端画学校で美人画を学び、川端画学校を3年ほどで卒業すると、昭和10年、21歳で有楽町の日劇の前にあるクロッキー研究所の夜間に通い、デッサンを7~8年学びました。

○ぬりえとの出会い
昭和15年、きいちが26歳の時に、川端画学校の友人がぬりえの仕事を紹介してくれ、良く見ていた歌舞伎をテーマに「フジヲ」の名で描いてみると、たちまち人気となりました。しかし昭和16年には太平洋戦争が勃発、戦争の激化に伴い、いつしかぬりえも消えていき、昭和19年にはきいちも召集されることになりました。

○きいちのぬりえの誕生
昭和20年、終戦。兄の紹介で築地に駐留中の米軍の兵士の恋人や妻の肖像画を描く生活を1年ほどしました。きいちのバタ臭さの原点はここにあるのではないでしょうか。
昭和22年、今度は本名の「きいち」でぬりえを石川松声堂・山村山海堂と一緒に共同経営を始め、その後きいちは絵専門になり、上記の二社にぬりえを描いていきました。
昭和23年ごろからは、袋入りでぬりえを売り出し、「きいちのぬりえ」は、平均すると月に百万セット、最高時には160万セットの大人気のぬりえとなりました。
ぬりえの収入で裕福なその頃のきいちの暮らしぶりといえば、伝統的な稽古に没頭する日々であったそうです。茶道、華道、長唄、お三味線、日舞、時に日舞には力を入れ、40歳で名取となっているほどです。きいちの趣味が全てぬりえには生かされていることが分かります。

○ぬりえの衰退
昭和34年の皇太子殿下のご成婚、昭和39年の東京オリンピックの開催等で、一般家庭にテレビが普及しました。昭和35年、NHKと民放各局がテレビのカラー放送を開始し、テレビ界ではアニメーションブームが起きていきました。
この頃から、ぬりえの人気は下降線を辿り始め、昭和40年頃にはぬりえブームは去っていくことになりました。

その後時代が進めば進むほど、こころの豊かさを求めるようになり、きいちのぬりえが見直され、現在に至っています。

これからも「きいちのぬりえ」の良さを皆さまにご紹介していきたいと思います。(館)

投稿者:Nurie |投稿日:11/02/15 (火)

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
/1427

コメント

コメントしてください



(アドレスは非公開です)


今後の投稿のためにアドレスなどを保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)