« 電車図書館に感想出る | メイン | 特別展のぬりえ寄贈者来館 »

ぬりえ美術館3周年記念 きいち特別展

きいち特別展◆開催期間 平成17年8月6日(土)~10月30日(日)◆

■はじめに
8月でぬりえ美術館は、3周年を迎えました。7月31日には、4000人目のお客様をむかえることができました。これも偏に皆様方のお蔭でございます。心より御礼申し上げます。
今年の2月に蔦谷喜一が91歳で亡くなりましたが、たくさんの作品を残してくれています。いつまでも皆様の心に残る展示を続けて行きたいと思っております。   
少女にとって大切な宝物であるぬりえ、理想の少女像が描かれたぬりえ、日本人の豊かな心を描いたぬりえ、まだまだいろいろな思いがぬりえにはあると思います。
今回特別展で展示でしていますのは、福井紅子様に寄贈していただいた昭和30年代初期のぬりえです。今まで見たこともなかった珍しい絵が福井さんの素晴らしいセンスで彩色されています。
蔦谷喜一の残した作品を、どうぞ心ゆくまで楽しんでいただきたいと思います。
そしてこれからも、ご支援をよろしくお願い申し上げます。
02277_16.jpg   02285_16.jpg

きいちの仕事
■きいちの人生
きいち(本名蔦谷喜一)は、大正3年京橋区に紙問屋を営む「蔦谷音次郎商店」の5男坊、7番目の子どもとして生まれる。商売は隆盛を極め、経済的に恵まれた生活を送る。きいちは絵が好きで、特に人物を描くことが得意な少年だった。
■母と姉妹の環境がセンスを磨く 
姉と妹に囲まれたきいちは、母親にも溺愛され、母親を含めた姉妹5人がよく一緒に過ごし、呉服屋さんに行ったときには、きいちのセンスが買われたようである。この感覚が後に、ぬりえの中にも生かされてくることになる。
■山川秀峰の絵に目覚める
昭和6年(1931年)17歳の時、上野の帝展で特選をとり評判になっていた山川秀峰(やまかわしゅうほう)の「素踊」に心酔し、川端画学校で日本画を又クロッキー研究所にも通い、絵の勉強を始めることとなる。
■フジヲの名で、ぬりえを始める
昭和15年(1940年)26歳の時、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をアルバイトのような気分で始める。絵は姉妹とよく見ていた歌舞伎をテーマにしたもの。この当時の名前は、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾が好きだったので「フジヲ」である。昭和16年に戦争が勃発。世の中はぬりえどころではなくなり、フジヲ時代は長くは続かなかった。
昭和20年(1945年)敗戦。
■米兵の恋人、奥様の肖像画を掛け軸式に描く
昭和21年(1946年)柔道家の兄の紹介で駐留中の軍人の恋人の肖像画を描く。きいちのぬりえのバタ臭さは、この時代の影響もあるかもしれない。このときの肖像画は、掛け軸に仕立てあげたそうで、それも米軍の方には珍しいので人気となったようである。            
■キイチの名でぬりえを再開
昭和22年(1947年)自分でぬりえを作り販売を始める。
名前はキイチ/KIICHI。
■きいちブームとなる
その後石川松声堂と山海堂との共同経営を経て、昭和23年(1948年)に、「きいち」の名で、絵描きとしてぬりえを描くことに専念することとなる。
 ぬりえはそれまでは、バラ売りをされていたが、昭和23年頃から、袋入りで販売されることになる。これは絵はがきを扱っていた石川松声堂のアイデアだったそうだ。一袋に最初は12枚セットで5円。それから物価の上昇に伴い10枚、8枚、ぬりえの人気が衰退してきた昭和40年ころは5枚入りとなった。
戦後のベビーブームもあり、ぬりえの人気はうなぎのぼり。昭和30年代後半までぬりえ人気が続く。
02079_16.jpg   00680_16.jpg

ぬりえ専門の絵描きの「きいち」が描くぬりえは、マンネリすることもなく、平均すると月100万セット。昭和30年前後の最高時には月160万セット売れたそうだ。(『日曜研究家』)。

 「きいちのぬりえ」は毎週新しいものが、石川松声堂と山海堂の2社から販売された。100万セットということは、毎週1つの袋入りが10万セット以上売れていたということになるわけで、10万人以上の少女が毎週きいちのぬりえを描いていたという数字になる。日本の少女できいちのぬりえを塗ったことのない少女は、少ないのではないだろうか。そのため、この美術館のぬりえを見て、「この絵は、塗ったような記憶がある」と何人もの来館者が言うことがあり、それだけ共感性も大きいのだと感じている。

■その後のきいち
昭和34年(1959年) 皇太子殿下(現天皇陛下)の挙式
昭和35年(1960年) NHKと民放がテレビのカラー放送を開始
昭和39年(1963年) 東京オリンピック開催などの出来事があり、テレビが一般家庭に普及していくこととなる。
昭和38年(1962年) 我が国初のアニメーション『鉄腕アトム』が放映されると、『狼少年ケン』などが後に続き、以後アニメブームへ突入していく。これらのテレビの影響で、ぬりえは下火となって、衰退していく。
昭和40年(1978年) 61歳 リースや即売用の美人画を書き始める。
昭和53年(1978年) 64歳 資生堂ザ・ギンザのギャラリーにて「きいちのぬりえ展」が開催される。第2次きいちブームの火付け役となる展覧会であった。
昭和60年(1985年) 71歳 このころから「童女百態シリーズ」に取り組み始める。ひな祭りや羽根つき、七夕など、主に日本の文化や風習ななどを取り入れた童女の姿を日本画で表したものである。
その後、コマーシャルに使われることが度々あり、人々の記憶を呼び覚ましていく。

平成 5年(1993年) 79歳 テレビ朝日の自社キャンペーンに起用される。
平成 7年(1995年) 81歳 東京駅ギャラリー三田や銀座松坂屋などで「童女百態」の原画展が開催される。
平成 9年(1997年) 83歳 埼玉県春日部市のギャラリー星の館で原画展が開催される。
平成11年(1999年) 85歳 早稲田塾のキャンペーンに起用される。
平成13年(2001年) 87歳 埼玉県小川町で「ぬりえ展」が開催される。
平成14年(2002年6月)88歳 フランスパリのカルティエ現代美術財団にて村上隆がキュレーションする「ぬりえ展」に出品
平成14年(2002年8月)ぬりえ美術館開館
平成15年(2003年) 89歳 早稲田塾のキャンペーンに起用される。
平成16年(2004年) 90歳 喜多方市立美術館にて
「きいちのぬりえ 蔦谷喜一の世界展」が開催される
平成17年(2005年) 2月24日91歳で永眠
平成17年(2005年)7月 春日部市の春日部ロビンソン百貨店において
            「蔦谷喜一の世界展」が開催される。
  
~福井紅子さん寄贈のぬりえ~
02396_16.jpg   02350_16.jpg   02492_16.jpg

今回の「きいち特別展」のぬりえは福井紅子さん寄贈のコレクションを展示しています。
福井紅子さんは、現在82歳。赤ちゃんをあやしながらぬったというぬりえで、昭和31年頃のものです。
福井さんは子供の頃から絵を描くのと色を塗ることが大好きだったそうです。民謡舞踊もなさっていたそうで、そのため、きいちの描く踊りのぬりえなどその背景をご存知のせいか、その踊りに使われるような色を正確に使っていらっしゃいます。
洋服の絵も、今でも素敵に感じる大変モダンな色彩、例えばグレーに臙脂とか、黒の服にピンクのラインをいれるなど、センスの良い配色に見とれてしまいます。
このように丁寧に素敵に塗られたぬりえに、きっときいちも喜んでいることと思います。
福井様、素敵なぬりえを沢山ありがとうございました。

(美術館便り 8月、9月、10月)

投稿者:Nurie |投稿日:05/10/04 (火)

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
/766

コメント

コメントしてください



(アドレスは非公開です)


今後の投稿のためにアドレスなどを保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)