きいち千夜一夜 No.22 ☆きいち没後15年☆
今年はきいちの没後15年に当たります。これにちなみまして「きいち千夜一夜」と題しまして、きいちについてご紹介していきたいと思います。
【まさの存在】
私は私なりに家族を大切に、特に家内のことはいつも考えていたつもりだけど、実際はどうだったか、ちょっと自信のないところもあるなあ。
小柄でおっとりとした雰囲気のまさは、喜一の妻と紹介されると。ほとんどといっていいほど、「ぬりえのモデルですか?」とお質問を受ける。これについては、常に曖昧な返事でごまかしてきた喜一だが、まさがモデルであることにハッキリとした自覚がないとすれば、それほど彼女の存在が喜一の意識の深層まで達しているからなのだろう。いつもそばにいてこまごまと世話を焼き、小さな手で縫物をするまさは、どんな時も喜一にはかけがえのない存在であり続けたに違いない。
秀峰の「素踊」に心打たれた、女性はこの絵のように美しく、汚れのないものであるべぎだと信じて疑わない喜一の女性に対する神話が、結婚しても崩されることがなかったのは、ひとえにまさのちからといえるだろう。
「話によると、娘時代は、しっかりとして、気の強いほうだったみたいですよ。それが私と結婚したことで、人生観が変わったって言ってますよ。のんびりしちゃたって」
嫁いで二か月も経ったころ、喜一に”なにか着物か帯の端切れのようなものがないかな?”と聞かれたまさは、男物のしゅすの帯を出して渡した。するとまもなく、それが立派なハンドバッグにつくり替えられて、まさにプレゼントされたのである。丁寧に口金まで付いていて、どこへ出しても恥ずかしくないバッグを簡単に仕上げてしまう夫に、まさは大層驚かされた。和裁が得意といっても、教えられたことだけを忠実にやってきた自分と違って、自由な発想でなんでもつくってしまう夫の才能がうらやましいと思った。
「絵を描くだけでなく、昔から、あれこれ考えてものを作り出すというのが好きなんです。娘にも着物の端切れでハンドバッグをつくってあげたりしましたよ。フジヲの名前でぬりえを描き始める少し前だったと思うんですが、フランス人形や日本人形をつくることに夢中だった時期もありました。東京、青山の姉の家に少しの間居候していましてね、暇さえあれば、近所の手芸屋さんに行って、毛糸や布を眺めていました」
日本人形の日本髪用の小さな櫛まで、手づくりで何本もつくるというい熱の入れよう。自己流でつくった人形だったが、少しずつさまになってくると、手芸店の店先に商品として飾られ、それで収入を得ることもあった。
この人形づくりの技は、まさがつわりに苦しんでいた時にも役立った。昭和二十二年~二十三年といえば、戦後でちょうどもののない時代。具合の良くない妻の気持ちを紛らすものはないかと、家中の端切れを縫い合わせて、洋裁の愛らしい人形をつくったのだ。
参考図書 「わたしのきいち」 小学館
「じょうおうさまのようにきれいなくじゃく」
作者:きいち
年代:
昭和30年代
くじゃくが大きく羽根を広げ、まるで女王様のようです。そのくじゃくに負けないお洒落なスカートをはいた女の子は、くじゃくと一緒に私を見て、と言っているようです。
ぬりえ美術館情報
10月5日から開催されたぬりえコンテストの募集が31日に締め切られました。
今年も沢山のご応募をいただきまして、大変ありがとうございました。
11月~12月に厳正なる審査をし、優秀作品を選定いたします。それらの
優秀作品は1月~2月に美術館に展示、ならびにHPに掲載いたします。