東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
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ぬりえ美術館

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美術館便り3月~5月合併号 (1)

祝 きいち生誕100年 「これからも いつまでも」
平成26年3月1日(土)~6月1日(日)

蔦谷喜一の生誕100年を祝いまして、春の企画展では「これからも いつまでも」と
題しまして、お祝いがテーマのぬりえを展示するとともに、生前に取り上げられた雑誌を
展示いたします。

 
ぬりえは子どものころにしているものですが、いつしか成長するにしたがってぬりえをしていたことも忘れてしまうものです。しかしぬりえは、子どもの心を育む遊びでもあります。子どもにとって大切な「こころの宝物」をこれからも残して、日本の文化の一つとして、ぬりえ文化として育てていきたいと思っております。


今回の企画展では、昭和20~30年当時のお祝いムードのぬりえを楽しんでいただくとともに、きいちが取り上げられました雑誌をご紹介いたします。

今後ともきいちのぬりえのご支援をよろしくお願いいたします。

1.きいちの人物像
本名は、蔦谷喜一。大正3年(1914年)に東京は京橋区新佃に、紙問屋の五男、九人兄弟の七番目として生まれました。新聞社に紙を納める紙問屋の息子として、何不自由なく育ちます。流行のファッションに身をつつみ、築地のお隣の銀座を闊歩するモダンボーイでした。
 
昭和6年。17歳の頃、帝展に出展されていた山川秀峰の「素踊」をみて、自分の夢をハッキリと自覚するようになり、川端画学校で日本画を習い、クロッキー研究所で裸婦デッサンなどを勉強します。

昭和15年。26歳。川端画学校の友人の勧めでぬりえの仕事を持ってきました。歌舞伎が好きだったきいちは、歌舞伎をテーマにしたぬりえや美人画のようなぬりえを描き、人気となっていきました。

戦争になり、中断。

戦後の1年は築地に駐留していた米兵の恋人や奥さんの肖像画を、掛け軸に描く仕事をしていました。100枚くらい描いたそうです。日本画の絹本(絹の上に描く)を学んだきいちは、米兵の持参したパラシュート(素材は絹)の上に肖像画を描いたそうです。きいちの絵がバタ臭いといわれますが、この頃の影響と思われます。

昭和22年より本名の「きいち」でぬりえを再び開始し、爆発的な人気となっていきました。最初はバラ売りでしたが、袋入りとなり、きいちのぬりえは、毎月100万袋、ピーク時には160万袋も売れるほどの人気を誇りました。

昭和40年頃、ご成婚や東京オリンピックなどで一般家庭にテレビが普及するようになり、「ぬりえは古臭いもの」として廃れていきました。

昭和53年(1978年)、資生堂の銀座のギャラリー「ザ・ギンザ アート・スペース」で、きいちのぬりえの展覧会が開催され、「第二次きいちブーム」が起こることになりました。それ以降、コマーシャル等に使われるなどして、人気が現在に続いています。

平成17年(2005年)、91歳で逝去。生涯現役で絵を描いていたきいちでした。

Posted: Nurie : 14年03月05日 | 美術館だより

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