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ぬりえ美術館

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美術館便り 秋の企画展 10月~12月合併号 (1)

令和3年秋の企画展
「秋は夕暮れ」~夕日の差して山の端いと近うなりたるに~
蔦谷喜一が晩年に描いた童女画の絹本を展示いたします。


緊急事態宣言のため、休館をしていましたので、秋の企画展は2021年10月2日(土)~12月26日(日)となります。


きいちは子どもの頃から得意なことと言えば、絵を描くことだったが、絵描きを目指すきっかけになったのは、上野の美術館で帝展を見たときのことであった。たおやかに舞う女性を描いた
山川秀峰の「素踊」に心を奪われたからである。山川は鏑木清方の弟子で、伊藤深水の兄弟子に当たる人物。細やかな描写に加え、女性の豊かさを清潔な色香が匂いたつような作品に心底見せられてしまった。と同時に、それまでくすぶっていた自分の夢がハッキリと姿を表したような気がした。


彼が目指したものは「美人画」である。あるいは高畠華宵のような売れっ子の挿絵画家である。
そこで喜一は、勉強の場に、文京区春日にあった川端画学校を選んだ。当時川端は絵を学びたいという人を受け入れる一方で、芸大志望者がデッサンを学ぶ美術学校進学への予備校的存在でもあり、基礎を徹底して学ぶには絶好の場だった。
 

川端画学校を3年ほどで卒業すると、今度は有楽町の日劇の前にあるクロッキー研究所に通いはじめる。クロッキー研究所は、裸婦デッサンを中心に訓練する場で、プロとして活躍する人を対象とした学校だった。きいちはここに夜間だけ行って、7~8年通い続けた。


昭和15年、きいちが26歳の時、ぬりえとの出会いがある日突然やってきた。「川端時代の友人で、画学校を途中でやめて家業の製本屋を継いだ男がひょっこりやって来て、“ぬりえの仕事を持って来てやったよ。”」とこれできいちのぬりえが始まった。その当時は、虞美人草の主人公の名前から名付けた「フジヲ」で描いた。


戦後「きいち」の本名でぬりえを描き始めたのは昭和22年である。戦争が終わり、子どもたちにも自由がやってきた。子どもたちが喜ぶ、可愛いぬりえ、美しいぬりえをきいちは毎月発表していった。何十人もいるぬりえ作家の中でも、きいちは格別に可愛い女子の絵と、子どもたちが憧れる素敵なファッションを提供して、子ども達の絶大な人気を得ていくのである。

そんな生活は昭和40年代ころまでつづき、テレビが生活の中心となり、テレビの中でアニメが見られるようになると、いつしか動きの無いぬりえは子ども達に忘れ去られていくのである。


昭和47年、グラフィックデザイナーの長谷川義太郎が同僚のきいちファンとともにきいち宅を訪ねてきた。突然訪ねてきた長谷川たちにきいちは、“今は日本画家として肖像画などを描いている”と言うと、老人の肖像画を見せた。ある会社からの依頼で、社長の肖像画を描いているとうことだった。


これを機に長谷川は、忘れ去られようとしていたきいちの存在を世の中にアピールしようと動き始める。昭和53年の資生堂ザギンザホールでのぬりえ展や、当時若者に人気だった雑誌<ビックリ・ハウス>主催のアート展に、常連アーティストに混じって、きいちも数々の作品を発表した。作品展が各地で開催され、広告にも使われたり、テレビの出演などが続いた。

 
「第二のきいちブームといわれて騒がれて、でも、私としては次なる目標が欲しいと思っていた時に、ヒントを与えてくれたのも、長谷川さんでした。私を表舞台に引っ張りだしてくれた以上、私のほうも自分から自信をもって表にだせる作品を描いていかなくてはならない。それで、少女の姿を絹絵に描く童女百態シリーズに取り組もうと決めたんです」


美人画を勉強し美人画家を目指したきいちだが、ぬりえを20年以上描いていたことから晩年は童女の姿を絹本に描くことにした。それが童女百態シリーズである。
 

今回はぬりえ美術館が所蔵する童女画と美人画の絹本をご覧頂きます。

Posted: Nurie : 21年10月02日 | 美術館だより

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