東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
開館時間:(3月~10月)12:00~18:00 (11月~2月)11:00~17:00

ぬりえ美術館

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5月の美術館ニュース(2)

きいち千夜一夜 No.17 ☆きいち没後15年☆

ぬりえが売れなくなると、まさは着物の仕立てを商売として本格的に始めえる。まさに苦労をかけまいと、絵で生計を立てる方法を喜一も必死で模索するのだが、そううまくいかない。昭和四十年を過ぎて、いよいよぬりえの収入が途絶えると、喜一は新聞の”美人画の絵描き募集”の文字に望みを託し、十号の美人画を五千円で買い取るという都内の美術販売会社を訪ねるのである。
「ギャラは安かったけど、五十を過ぎて、新たに美人画家として再出発するのもいいかなと思いました。そこで、喜一という名前はぬりえ時代にさんざん使いましたら、今度はちょっと変え、”蔦谷弦月”でいこうと。でも弦月のサインで絵を持っていくと、”確か弦月って名前の大家がいましたよね”と言われ、やはり本名で描くことにしました」


二年ほど美人画を描くと、次はもう少しギャラのいい販売会社を見つけ、ここでも二年ほどリース用と展示会販売用の美人画を描き続ける。しかし、五十代半ばを超え、喜一は体調を崩してしまい、生活が安定するまでにはなかなか至らないのである。

昭和五十年になり、多少体が回復してくると、蔦谷喜一の名前で今度は通信販売の絵や掛け軸を描き始める。当時、広告には、蔦谷喜一画伯による肉筆の掛軸として、宣伝されていたが、これがあのぬりえのきいちと同一人物が描いたものだとは、一体だれが想像しただろうか。長さ約一メートル三十センチの掛軸に、花鳥風月の絵を喜一は来る日も来る日も描き続けた。通販の絵には、歴史絵巻にでてくるような人物も描いたが、掛軸のほうが注文は多く、忙しい時で、一日に二~三枚の風景画を描いた。「仕事は丁寧にやるほうだから、花鳥風月の絵も精一杯描いたけど、あまり気は進まなかったなあ」と当時を回想する。しかも、ギャラのい仕事とも言えなかった。購入者には、喜一の絵を表装し、桐の箱に入れて届けるということで、定価は七~八万円となっていたが、そのうち喜一の手元に入るのは、一点につき一万円から一万五千円ぐらいなものだった。それでも、喜一は必死で描き続けた。肉筆が最大のセールスポイントだから、一つの絵に注文が集中すると、黙々と描き続けなければならなかった。


掛軸の仕事が立て込むと、まさは額に絹をはったり、絵具がにじまないように絹ににかわを塗ったりして、喜一の仕事を手伝った。その代わり、まさの仕立ての仕事のほうが立て込むと、今度は喜一がまさの仕事のサポート役として張り切る。”ここの背縫い、お願いしてもいい?”とまさが頼めば、喜一は予想以上に丁寧な仕事をして彼女を驚かせた。


また並行して、親戚や近所の人などに頼まれて肖像画なども描いていた。入学や結婚のお祝いとして、まったくの無報酬で描くこともあれば、料金を決め、ビジネスとして描くこともある。喜一の描く肖像画が似ているとの情報を聞きつけて、ぜひ描いてほしいという客も少なくない。会社の社長から主婦や子供まで、老若男女、お客は多岐にわたった。


参考図書 「わたしのきいち」小学館


今月のエントランス

「八ミリでさつえい」
年代:昭和30年代
作者:きいち
今でこそ誰もが簡単に写真や動画を撮れるようになりましたが、このぬりえは「8ミリカメラが出てきましたよ」と新しい流行をいち早くぬりえに取り入れた、子供たちに知らせるということでしょう。


ぬりえ美術館メディア情報
○外出自粛などで在宅を余儀なくされている子供たちのために、子供ぬりえコンテストを開催いたします。ぬりえ美術館のHPからも台紙をダウンロードできますので、奮ってご応募ください。お待ちしています。
・締め切りは5月29日(金)です。


展示室のご案内
☆新型コロナウィルスの感染拡大を防止する観点から5月一杯臨時休館中です。今後につきましては、HPでご案内いたします。

Posted: Nurie : 20年05月01日 | 美術館ニュース

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