東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
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ぬりえ美術館

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7月の美術館便り

今年も早半年が過ぎました。まだ梅雨の雨模様の日が続いていますが、もうすぐ夏がやってきます。今年の後半も元気に過ごしていきたいものです。


今月は、今年6月6日に91歳で亡くなられた小説家の田辺聖子さんが、ぬりえの魅力について書かれた記事がございますので、この記事をご紹介したいと思います。


「ぬりえの誘惑」 田辺聖子

子供の頃のぬりえには、ベティさんやミッキーマウスがあった。
それからおたばこ盆に髪を結った女の子など。戦前のせいか西洋人はなく、日本髪の女の子が多かった。昭和のはじめから十五、六年まで、つまり、昭和三年生まれの私が、女学校へはいるまで、小学生のあいだじゅう、ぬりえに親しんできた。
教育ママの母は、ぬりえなど幼稚で、ちっとも絵の勉強にならないというのだ。
しかし私は、白地の絵をみると、色がぬりたくてむずむずするのだった。きれいな日本髪の少女や、たもとの長い着物を着た少女をみると、どんな色の髪飾りにしようか、どんな色の着物にしようかと、ぬりえを抱えて帰る道すがら、うれしさで気持ちがわくわくするのであった。


小さいうちはクレヨンであったが、小学校高学年になると色鉛筆を使い出した。こまかい部分までぬれるからであった。だんだん技術も高尚になってきて、着物の柄など、肩から裾にかけてぼかしを用いて、色を変えたりする。
また、ほっぺたには桃色の色鉛筆を塗るが、きれいにぼかして桜色の頬にしたり、目の上にも桃色を塗ったりした。いまのアイシャドウは、ブルーか茶かグリーンであるが、日本古来の化粧法では、頬紅を眼の上へうすく刷くのであった。私は子供なりに絵の女の子にも化粧をさせているのである。
さらに、赤鉛筆を小刀でけずってその粉を散らせ、薄紙や脱脂綿でぼかすという技術まで考え出した。まるでしぼりの着物のようになった。

こういうことを、小学生の私は学校から帰るなり、黙々と机に向かって何時間でもやっていたのだ。洟をすすりながら私は精魂こめて、一心ふらんにぬり埋めていた。ノートの裏表紙などに、ぬりえのつもりではないであろうが、色のない絵がかいてあったりすると、私はすぐさま、ぬりつぶしたくなるのであった。また、ぬりえの線はやわらかく、いかにもぬりたくなる衝動をおこさせ、誘惑するのである。
ぬりえに熱中した後遺症というべきか、いまも私は「源氏物語絵巻」の白描の絵などをみても、つい、色鉛筆でぬりうずめたくなってしまうのだ。私の小説はわりに視覚的だと思うのだが、それとぬりえにしたしんだことと関係があるのだろうか。(作家)
*出典 「メリーちゃん花子さん きいちのぬりえ」 草思社


年代は違っても、ぬりえに対する感覚、考え方は、昭和、平成の人にも共通するものがあるのではないでしょうか。
「色のない絵がかいてあったりすると、私はすぐさま、ぬりつぶしたくなるのであった。」とありますが、授業中に教科書の中のイラストを塗りつぶしたという記憶をもっている方は多いのではないでしょうか。脳の学者に聞いてみたい気もしますが、それは本能のようなものではないかしら、と私は思っています。


田辺聖子さんが亡くなってしまったのは大変残念なことですが、私は田辺さんの古典作品が大好きでした。源氏物語を中心にほとんどすべての古典を読ませていただきました。それらの本は大事にとってあります。それらの古典に通じていらした田辺聖子さんが、子供の頃にはぬりえが大好きだったと知り、大変嬉しくなりました。
田辺聖子さんは、小説、エッセイなどの作品を数多く残されました。田辺さんの文学館は、母校である大阪樟蔭女子大学にあるそうです。文学館には、自筆原稿や作品、また田辺聖子さんの愛蔵品のビーズバッグ、万華鏡、フランス人形、愛用ドレス、宝塚歌劇パンフレット、田辺聖子さんお手作り箱各種や、受賞賞状、副賞である芥川賞正賞「オメガ時計」、日本文芸大賞の盾、紫綬褒章 賞状・勲章、その他写真多数などなど、所蔵されているそうです。これからも田辺さんの作品は多くの方々に読まれていくことでしょう。


きいちはぬりえを残しました。子どもから年配者まで、これからも楽しんでいただきたいと願っています。(館)

Posted: Nurie : 19年07月07日 | 美術館だより

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