今年はきいちの生誕105年に当たります。これにちなみまして、「きいち千夜一夜」と題しまして、きいちについてご紹介いたします。
独身時代、洋服屋や本屋のツケはすべて兄が払ってくれていた。”お洒落は女の特権というわけではない。男だって、きれいな格好をしていたほうがいい”が兄の口癖だった。そんなわけで、洒落者の喜一は兄がひいきにしていた洋服屋に出かけたり、あるいはわざわざ呼び寄せたりして、二十歳になる前から背広をあつらえていた。オーダーのスーツ姿で銀座の町を闊歩すると、見ず知らずの人が振り返り、”そうか、今の流行はあんな感じか”囁く。”モボ”という言われ方は、どこか軽薄な漢字がして喜一自身はあまり好きではなかったが、街行く人にこんなふうに感心されるのは、ちょっと心地よかった。
「働かなくても番頭並の給料が入ってくるなんて、今考えるとすごいですよね。私の給料の決め方なんて実にいいかげんで、”番頭さんが六十円だから、喜一にも六十円あげよう”なんて、そんな感じでしたから」
川端画学校を三年ほどで卒業すると、昭和十年、二十一歳で、今度は有楽町の市毛にの前にあるクロッキー研究所に通いはじめる。クロッキー研究所は、裸婦デッサンを中心に訓練する場で、プロとして活躍する人を対象とした学校だった。特別に指導者がいるわけではないので、それぞれが自分のペースデクロッキー技法を磨いていく。「私はここに夜間だけ行っていたんですが、ぽつりぽつりと顔をだしながら、それでも、七から八年は通い続けたと思いますよ」
ぬりえとの出会いはある日突然やってきた。昭和十五年、喜一が二十六歳の時だ。
「川端時代の友人で、画学校を途中でやめて家業の製本屋を継いだ男がいたんですけれど、彼がひょっこりやって来て、いきなり言うです。
”ぬりえの仕事を持って来てやったよ。こんな仕事は、僕はばかばかしくてできないけれど、君ならちょうどいいと思ってさ”。」友人にすれば、自分は絵の道を諦めて家業を継いだものの、喜一にはなんとかその道で粘り抜いてほしい。ぬりえの仕事を持って来た裏には、そうした気持ちがあったおかもしれない。
(小学館発行「わたしのきいち」より)
今月のエントランス
「ジュースおまちどうさま」
作者:きいち
年代:昭和30年代
スポンサーが不二家のテレビを田舎で見ていて、東京にいけば不二家のコマーシャルにでていたいちごパフェやチョコレートサンデーが食べられるのだろうな、とコマーシャルでさえ楽しみでした。ジュースはオレンジでしょうか?
マスコミ情報
★月刊「旅行読売」臨時増刊「昭和の東京さんぽ」(2/26発売)に掲載されました。