東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
開館時間:(3月~10月)12:00~18:00 (11月~2月)11:00~17:00

ぬりえ美術館

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1月の美術館たより

今年も皆さまにとって、健やかで幸多い年でありますよう、お祈りいたします。

昨年は、きいち生誕100年の年でしたが、今年は蔦谷喜一没後10年の年であります。
この一年をきいちのぬりえの可愛さ、美しさを伝え、少女の憧れの世界を描いたぬりえをこれからも伝えていく年としたいと思っています。

きいちとぬりえについて
戦後の昭和22年から40年ころまで、少女に絶大な人気があったぬりえが「きいちのぬりえ」でした。当時ぬりえは大変な人気で、40人ほどの作家がいたと、きいちが語っていましたが、その中でも一番人気があったのが、きいちのぬりえでした。
「きいちのぬりえ」とおもちゃに作家の名前が付いたのもきいちが最初だといわれています。


日本の現代アートの第一人者である村上隆氏が蔦谷喜一を称して、「まだ貧しかったあの時代の、少女たちの美へのあこがれに応え、「想像力」を喚起した。芸術家です」ときいちがなくなった時に朝日新聞にコメントされています。


きいちのぬりえの特徴
ちょっと四角い大きな顔に、ぱっちりした大きな目、そして太い足の三、四頭身の女の子、というものでした。あのような少女の顔が、当時の少女の理想像だったのではないか、と私は思っています。
そして、三、四頭身というのは日本人が考える「可愛らしさ」であり、今流行の「可愛い」の原点は、きいちのぬりえの少女ではないかと思っています。

「蔦谷喜一」とは、とのような人物だったのでしょうか。
本名は、蔦谷喜一。大正3年に東京は京橋区新佃ということころで、紙問屋の五男で、九人兄弟の七番目として生まれました。
新聞社に紙を納める紙問屋の息子として、何不自由なく育ちます。流行のファッションに身をつつみ、お隣の銀座を闊歩するモダンボーイでした。


きいちは、子供のころから絵が好きで、特に人物画が得意だったそうです。 
昭和6年。17歳の頃です。帝展に出展されていた山川秀峰の「素踊」をみて、自分の夢は何か、ハッキリと自覚するようになったきいちは、川端画学校で日本画を習い、クロッキー研究所というところで裸婦デッサンなどを勉強しています。


昭和15年。きいちが26歳。川端画学校の友人がぬりえの仕事を持ってきました。歌舞伎が好きだったきいちは、歌舞伎をテーマにしたぬりえや美人画のようなぬりえを描き、人気となっていきました。
戦争になり、中断。
戦後の1年は築地に駐留していた米兵の、恋人や奥さんの肖像画を掛け軸に描く仕事をしていました。100枚くらい描いたそうです。きいちの絵がバタ臭いといわれますが、この頃の影響かもしれませんね。


その後、昭和22年より本名の「きいち」でぬりえに本腰を入れて、毎月100万部、ピーク時には160万部とも220万部とも言われるほど爆発的な人気となりました。


戦後の貧しい日本で、子どものお小遣いでも購入できるぬりえに美しい世界を提供したきいち。生涯現役で絵を描いたきいちは、2005年91歳でなくなりました。


あれから10年。
きいちが亡くなっても、当時の少女の心に様ざまな思いを残しているようです。ぬりえ美術館に来館される方々は、子どもの頃にどれほどきいちのぬりえに憧れ、美しい世界に心が満たされたか、思い出を語ってくださいます。
これからも皆さまの心を熱くしたきいちのぬりえを後世の方々に伝えるべく、ぬりえ美術館を運営していきたいと思っております。


これからもご支援をどうぞよろしくお願いいたします。(館)

Posted: Nurie : 15年01月10日 | 美術館だより

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