祝 きいち生誕100年
「これからも いつまでも」
第二弾
平成26年8月2日(土)~10月26日(日)
蔦谷喜一の生誕100年を祝いまして、春の企画展に引き続きまして「これからも いつまでも」第二弾と題しまして、戦前の「フジヲ」時代のぬりえから「きいち」時代のぬりえときせかえ、そして晩年に喜一が描いておりました絹本に描かれた童女画や美人画などを展示し、きいちの描く世界観を堪能していただきたいと思っております。
ぬりえ美術館では、きいちのぬりえを通して、ぬりえの魅力、価値を伝えて参りたいと思っております。ぬりえは、子どもの心を育む遊びであり、子どもにとって大切な「こころの宝物」です。これからも日本の文化の一つとして、日本のぬりえ文化を育てていきたいと思っております。
今後ともきいちのぬりえのご支援をよろしくお願いいたします。
1.きいちプロフィール
本名は、蔦谷喜一。大正3年(1914年)に東京は京橋区新佃に、紙問屋の五男、九人兄弟の七番目として生まれました。新聞社に紙を納める紙問屋の息子として、何不自由なく育ちます。流行のファッションに身をつつみ、築地のお隣の銀座を闊歩するモダンボーイでした。
昭和6年。17歳の頃、帝展に出展されていた山川秀峰の「素踊」をみて、自分の夢をハッキリと自覚するようになり、川端画学校で日本画を習い、クロッキー研究所で裸婦デッサンなどを勉強します。
昭和15年。26歳。川端画学校の友人の勧めでぬりえの仕事を持ってきました。歌舞伎が好きだったきいちは、歌舞伎をテーマにしたぬりえや美人画のようなぬりえを描き、人気となっていきました。
戦争になり、中断。
戦後の1年は築地に駐留していた米兵の恋人や奥さんの肖像画を、掛け軸に描く仕事をしていました。100枚くらい描いたそうです。日本画の絹本(絹の上に描く)を学んだきいちは、米兵の持参したパラシュート(素材は絹)の上に肖像画を描いたそうです。きいちの絵がバタ臭いといわれますが、この頃の影響と思われます。
昭和22年より本名の「きいち」でぬりえを再び開始し、爆発的な人気となっていきました。最初はバラ売りでしたが、袋入りとなり、きいちのぬりえは、毎月100万袋、ピーク時には160万、220万袋も売れるほどの人気を誇りました。
昭和40年頃、ご成婚や東京オリンピックなどで一般家庭にテレビが普及するようになり、「ぬりえは古臭いもの」として廃れていきました。
昭和53年(1978年)、資生堂の銀座のギャラリー「ザ・ギンザ アート・スペース」で、きいちのぬりえの展覧会が開催され、「第二次きいちブーム」が起こることになりました。それ以降、コマーシャル等に使われるなどして、きいちの人気は現在に続いています。
平成17年(2005年、91歳で逝去。生涯現役で絵を描いていたきいちでした。
2.今回の展示物のご紹介
きいちは元々美人画を学んでおりましたので、美人画家になりたかったと思いますが、戦後の混乱期に戦前にアルバイト的にやっていたぬりえを生活のために始めました。昭和40年代になり、ぬりえが売れなくなり、描けなくなったときも美人画を描けばいいと思ったそうです。
しかし20数年の間ぬりえの少女を描いていたきいちのイメージは「ぬりえ」にありました。そのため日本の伝統的な少女を中心的なテーマとした童女画を描き、美人画は時々描くという生活をしておりました。
絹本に描かれた童女画として、「シンデレラ」、「花嫁」、「てるてるぼうず」を展示しています。「シンデレラ」は、ぬりえ美術館の開館に際しましてきいちよりプレゼントされた絵でございます。ぬりえの美術館であるからと、彩色をしていない白黒の色彩で描いてあります。
「花嫁」は、小学館発行の「わたしのきいち」の中にも同じテーマの「花嫁」がございます。昭和20~30年代のぬりえ全盛の時代、少女の憧れは花嫁さんでしたから、このテーマの絵を再度取り上げたのでしょう。
美人画では、歌舞伎の創始者といわれる御国を描いた「出雲の阿国」を展示しています。
紙本では、舞踊、鏡獅子の「弥生」を描いた美人画を展示しています。歌舞伎や日本舞踊が好きであったきいちには、格好の題材であったと思います。
ぬりえ美術館では、「これからも いつまでも」きいちのぬりえの可愛らしさをお伝えしていきたいと思っております。(館)