東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
開館時間:(3月~10月)12:00~18:00 (11月~2月)11:00~17:00

ぬりえ美術館

前 春の企画展のご案内 | ぬりえ美術館のブログ | 3月の美術館便り(2) 次

3月の美術館便り(1)

きいち生誕105年
蔦谷喜一の生誕105年をお祝いします。
「みんなのそしてわたしのきいちのぬりえ」
2019年3月2日(土)~5月26日(日)


蔦谷喜一の生誕105年を祝いまして、春の企画展では「みんなのそしてわたしのきいちのぬりえ」と題しまして、日頃は展示をしていない生前に取り上げられた雑誌を中心にグッズ類やぬりえが入っていましたぬりえの袋等を展示いたします。
 

ぬりえは子どものころには誰でもしているものですが、成長するにしたがっていつしかぬりえをしていたことも忘れてしまうものです。しかしぬりえは、子どもの心を育む遊びでもあります。子どもにとって大切な「こころの宝物」を昭和、平成そして新しい時代にも残して、日本の文化の一つとして、きいちのぬりえを伝へ、ぬりえ文化として残していきたいと願っています。
今後ともきいちのぬりえにご支援を賜りますよう宜しくお願いいたします。

1.掲載雑誌より

1.1 ミマン 1998年3月号
50年代 ぬりえで遊んだあのころ

少女たちにせっせと夢を送り届けた
ぬりえ作家 蔦谷喜一さん
 林 えり子 作家

ぬりえ作家の蔦谷喜一さんがご健在、ということを聞き知ったときにはすくなからず驚かされた。
蔦谷さんは、
「一晩に三十枚四十枚、最も忙しかった時代は六十枚も描きました」と、いうご本人の驚くべき証言に私は眼を丸くしたが、それも紙に描くのではなく、
「版に直接描くんです。亜鉛版みたいなのに筆ですけれど油の墨で描く。油墨、油煙墨っていうのかな。間違っていても消せないんです」
とおっしゃり、すぐに印刷できる状態での版下描きであった。誤りの訂正は不可能なので、一枚一枚が真剣勝負、しかもそれを日に何十枚と描いたのである。


もちろん彼は、生活の手段としてぬりえを描いたのだが、ぬりえを描くこと自体にある種よろこびを感じていたようなのである。
「私は男であるし大人であるのにね、年齢があるところで、少女、少年というより少女の気持ちで止まっちゃっていたんじゃないかと思うんですよ。夢見るとか憧れるとかね、希望とかいうものが少女のそれと似通っているんじゃないかと思う」

そのうちに、私たちからぬりえを取り上げた戦争はぬりえ作家をも巻き込み、しかし、敵国アメリカに負けたことが「きいち」の誕生につながったとうかがい、戦後文化の成立をあらためて見直さざるを得なかった。
「私は以前からアメリカという国が好きだったんです。戦争が終ると日本中がアメリカ一辺倒になったでしょう。やっと私の時代が来たと思いました。
 

ということで彼の再起はアメリカナイズされた少女像でスタートされた。
眼が以前にもまして大きく、まつ毛は長く、髪はカールし、「きいちのぬりえ」には何か希望の陽が輝いており、明るく清潔で美しい世界があった。
そうした夢を与えてくれたのは、ぬりえだけでなく、いやぬりえ以上に、いまふうに言えばバーチャルリアリティを味わわせたのが「きせかえ」であったと思う。
「きせかえ」も「きいち」の手にかかるとアメリカのホームドラマが再現され、物のない時代の私たちの夢をゆさぶった。

1.2 飛ぶ教室-季刊/児童文学の冒険 1984年10月号

児童文化のパイオニアたち
蔦谷喜一氏に聞く
  尾崎 秀樹  文芸批評家


尾崎 お家は京橋の紙問屋「蔦谷商店」ですね。九人兄弟の七番目、それも男のお子さんでは一番末と聞きました。

蔦谷 新聞社御用達っていうんでしょうか、各新聞社の紙型とかザラ紙の巻取、つまり新聞紙ですね。ああいうものを家では扱っていたんです。私が子どもの頃は「都新聞」とか「国民新聞」といった小さい新聞社がたくさんありましたし、大きいところでは「読売新聞」と「日本経済新聞」の前身にあたる「中外商業新聞」が主な取引先でした。家に紙があるってことは私がぬりえの仕事を始めるようになってからずいぶん助かりましたよ。

尾崎 子どもの時から絵はお好きだったんですね。

蔦谷 人物を描くのが好きだったんです。小学校の時にチャップリンの絵を描いたらうまく描けた。それ以来人間の絵に興味をもったんですね、自分にはこういう絵が描けるんだと。それも真似じゃなく、チャップリンの映画を観て帰ってから、こういう格好してたなとかジャッキー・クーガン(『キッド』の子役)は鳥打帽をななめにこうかぶって、破けたセーターをこう着ていたと記憶で描くんですよ。そうなると単なる真似じゃなく、わりに独創性がありますからね。樺島勝一さんの『正チャンの冒険』なども得意でした。とにかく人物を描きたかったからなんです。一時は高畠華宵の挿絵に見せられ、挿絵画家になりたいと思いつめました。

尾崎 挿絵としては華宵のほかにどういう方たちの作品に関心を持たれましたか。

蔦谷 岩田専太郎さんの絵は、私には少し強すぎてあまり好きじゃなかったんです。志村立美とか、富永謙太郎、それ以前ですと林唯一などですね。

尾崎 戦争中はどうなされたんですか。

蔦谷 昭和十七年の物資統制で必然的にぬりえ屋も廃業。私も徴用されて海軍へ行きました。昭和二十年に終戦で家へ帰ってくると、海軍時代の知り合いの紹介で進駐軍の兵隊さんの家族や恋人などの肖像画を描きました。落下傘に使う羽二重に枠を作りまして日本画のタッチで描いたんです。掛軸に作ったのも受けましてね、聞き伝えに耳にして入れ替わり立ち替わり、毎日のように注文がありました。進駐軍が引き上げるまでの一年間、一日に一枚ぐらいの割で続き、それだけで仕事になりましたね。そして進駐軍が引き揚げて明日から何をしようかななんて思ってた時に、ちょうど入れ替わりのようにフジヲを描いていた時のぬりえ屋さんが訪ねてきて「ぬりえを再開するつもりで、一年間あなたを捜し歩いた」といってくれたんです。

Posted: Nurie : 19年03月03日 | 美術館だより|

この記事についてのコメント

カテゴリー

最近のエントリー

月別アーカイブ

エントリーの検索

ぬりえのお店やさん ぬりえのアルバム 最新ぬりえギャラリー 海外のぬりえ研究室
Page Topへ