<

東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
開館時間:(3月~10月)12:00~18:00 (11月~2月)11:00~17:00

ぬりえ美術館

前 2019年02月 | ぬりえ美術館のブログ | 2019年04月 次

2019年03月15日の記事

ケーブルテレビ放送のご案内

荒川区、文京区、千代田区のケーブルテレビをご覧の皆さま、下記日程でぬりえ美術館、「きいち生誕105年企画展」がご紹介されますので、是非ご覧ください。
3月18日月曜日~24日日曜日 放送
●番組名 地域情報コミュニティ番組「あらまるNEXT」 29分番組
放送日時 毎週月曜日~日曜日 ※1週間同じ内容を放送しております。
 11ch 6:00~  8:30~ 13:30~
(10ch 11:30~ 14:30~ 22:30~)

Posted: Nurie : 19年03月15日 | お知らせ |

2019年03月10日の記事

まみさんの「あたゝかいえりまき」


斬新な色合いの着物や襟巻きで、とてもお洒落です。これならチコちゃんにも叱られないのでは?(館)

Posted: Nurie : 19年03月10日 | ぬりえギャラリー |

無記名さんの「おさいほう」


黄緑、桜色、オレンジなど春めいてきた今の時期にピッタリの色に心がウキウキしてきます。(館)

Posted: Nurie : 19年03月10日 | ぬりえギャラリー |

RIKAさんの「おようふくのおよめさん」


ピンクのドレスの絵につけられたフレームのピンクが服を引き立てています。(館)

Posted: Nurie : 19年03月10日 | ぬりえギャラリー |

Azusaさんの「かがみのまえ」


昭和20年代のクラシックな絵に相応しい色、塗り方ですね。(館)

Posted: Nurie : 19年03月10日 | ぬりえギャラリー |

Yumiさんの「ゆかた」


浴衣の柄の色合いやタイトルの部分の色合いなど、素敵でした。(館)

Posted: Nurie : 19年03月10日 | ぬりえギャラリー |

2019年03月03日の記事

さとるさんの「てんしのたねまき」


空や天使の羽、種などにピンクや赤が使われていて、良いと思いました。ぬりえですから、常識にとらわれない色でもおかしくありませんので、これからも挑戦してください。(館)

Posted: Nurie : 19年03月03日 | ぬりえギャラリー |

無記名さんの「おせんたく」


赤い色を頬や腕など体に塗っただけですが、子どもらしいいニュアンスがでています。(館)

Posted: Nurie : 19年03月03日 | ぬりえギャラリー |

みるくさんの「まっかなすいか」


全体が赤と緑のすいか色ですね。はずんでいるような水玉がウキウキいたします。(館)

Posted: Nurie : 19年03月03日 | ぬりえギャラリー ぬりえギャラリー |

江美さんの「オルガンひきます」


はっきりとした洋服の色合い、綺麗な肌の色、はっきりとした楽譜の♪、引き込まれてしまいました。(館)

Posted: Nurie : 19年03月03日 | ぬりえギャラリー |

3月の美術館ニュース(2)

今年はきいちの生誕105年に当たります。これにちなみまして、「きいち千夜一夜」と題しまして、きいちについてご紹介いたします。


独身時代、洋服屋や本屋のツケはすべて兄が払ってくれていた。”お洒落は女の特権というわけではない。男だって、きれいな格好をしていたほうがいい”が兄の口癖だった。そんなわけで、洒落者の喜一は兄がひいきにしていた洋服屋に出かけたり、あるいはわざわざ呼び寄せたりして、二十歳になる前から背広をあつらえていた。オーダーのスーツ姿で銀座の町を闊歩すると、見ず知らずの人が振り返り、”そうか、今の流行はあんな感じか”囁く。”モボ”という言われ方は、どこか軽薄な漢字がして喜一自身はあまり好きではなかったが、街行く人にこんなふうに感心されるのは、ちょっと心地よかった。


「働かなくても番頭並の給料が入ってくるなんて、今考えるとすごいですよね。私の給料の決め方なんて実にいいかげんで、”番頭さんが六十円だから、喜一にも六十円あげよう”なんて、そんな感じでしたから」


川端画学校を三年ほどで卒業すると、昭和十年、二十一歳で、今度は有楽町の市毛にの前にあるクロッキー研究所に通いはじめる。クロッキー研究所は、裸婦デッサンを中心に訓練する場で、プロとして活躍する人を対象とした学校だった。特別に指導者がいるわけではないので、それぞれが自分のペースデクロッキー技法を磨いていく。「私はここに夜間だけ行っていたんですが、ぽつりぽつりと顔をだしながら、それでも、七から八年は通い続けたと思いますよ」

ぬりえとの出会いはある日突然やってきた。昭和十五年、喜一が二十六歳の時だ。
「川端時代の友人で、画学校を途中でやめて家業の製本屋を継いだ男がいたんですけれど、彼がひょっこりやって来て、いきなり言うです。
”ぬりえの仕事を持って来てやったよ。こんな仕事は、僕はばかばかしくてできないけれど、君ならちょうどいいと思ってさ”。」友人にすれば、自分は絵の道を諦めて家業を継いだものの、喜一にはなんとかその道で粘り抜いてほしい。ぬりえの仕事を持って来た裏には、そうした気持ちがあったおかもしれない。
(小学館発行「わたしのきいち」より)


今月のエントランス

「ジュースおまちどうさま」
作者:きいち
年代:昭和30年代

スポンサーが不二家のテレビを田舎で見ていて、東京にいけば不二家のコマーシャルにでていたいちごパフェやチョコレートサンデーが食べられるのだろうな、とコマーシャルでさえ楽しみでした。ジュースはオレンジでしょうか?


マスコミ情報
★月刊「旅行読売」臨時増刊「昭和の東京さんぽ」(2/26発売)に掲載されました。

Posted: Nurie : 19年03月03日 | 美術館ニュース |

3月の美術館ニュース(1)

三月と聞くだけで、何だか心がウキウキしてきます。春の明るい青空に暖かい空気、それに草木の青さ。終わりと始まりの時期でもありますから、心が騒ぐのかもしれませんね。

ぬりえのこころ -今月の一枚-
館内に入ってスグ目に留まるぬりえは、その時々の季節のものやテーマを設けて月毎に展示しています。このコーナーでは、月替わりのエントランスのぬりえから1枚を選んでご紹介します。
   

    
タイトル:トースト
作  者:きいち
年  代:昭和30年代


3月のエントランスは、「西洋風は憧れ」をテーマにしたぬりえを展示しています。
朝食時に、トーストしたパンにバターを塗る少女。
今と変わらぬ光景ですが、トースターの形が昭和30年代のものですね。

トースターの歴史を紐解いてみると、昭和30年に、「自動式と手動式のポップアップ型トースターが発売された。どちらも上部にパンを入れる窓があり、手動式は外部に付いているハンドルを操作することでパンを上下させるもので、自動式はパンを入れて焼き上がるとパンが自動的に窓から1/2ほど出てくるものでした」とあります。昭和40年代になって、オーブン式のトースターになっていきます。


昭和35年頃から昭和45年までの1960年代から1970年代の高度経済成長期には、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、これらの製品が急速に家庭に普及していったわけです。これらの家電が入ることにより、日本的な家事が大きく変化をしていくことになりました。これ以降も家電は様々なテーマで、進化を遂げています。


きいちのぬりえの中では、身近にある生活の中から、トースター、掃除機、洗濯機などの最先端な商品を取り上げてぬりえに描いています。当時はどこの家にもあるものではない商品は、やはり少女たちにとっても“憧れ”の物だったことでしょう。
どのような家電に思い出がありますか?(館)

Posted: Nurie : 19年03月03日 | 美術館ニュース |

3月の美術館便り(2)

1.3 文芸春秋 十二月号 (1997年)

People 特集 懐かしの遊び
昭和浪漫復活。集大成の本が完成した「きいちのぬりえ」


昭和二十二年頃から三十年代まで女の子たちの人気を集めた「きいちのぬりえ」
八枚五円の絵が月に百万セットも売れるとは予想もしなかった。

カラーテレビが普及するとともにぬりえは店頭から消えてしまったが、ここ数年続くレトロブームに乗り、ポストカードなどで氏の童女画が復活。また、十年前から日本画で少女を描く「童女百態」シリーズに取り組み、今年二月には埼玉県春日部市で「昭和浪漫童女百態/原画展」を開催した。会場には懐かしさを求める女性を中心に四千五百人が来場。連日長蛇の列ができ、その中には遠路はるばる新幹線で駆けつけたファンも。
「ルーズソックスもかわいい」という氏だが、「平成の女の子を描くとしたら?ロマンを感じられないから難しいですね」

十月には人生の集大成ともいえる作品集「わたしのきいち~ぬりえ作家、蔦谷喜一の世界」(小学館刊)を上梓。これまで表にでることが少なかった氏の素顔と軌跡を知ることができる。

2. きいちの言葉
「持っているだけで楽しい絵」
私は、もっと、心のこもった絵を、小さい子どもたちに見せたかった。一所懸命描いてはいたが、やはり商業ベースだから数をこなさなければ、というところもある。
私は、いい絵が描きたかった。色をぬるためというのは、二の次でよいと思った。色をぬってもぬらなくても、持っているだけで楽しい、という絵を描きたかった。いやな絵を買って、色をぬってもしかたがない。子どもたちが、好きになった絵を選んで、楽しんで、色をつけたいこどもは色をつければよい、と思った。「草思社 きいちのぬりえ」


「美しい絵を描きたかった」
ぬりえは子どもの創造性を阻害すると、悪者視されるのを聞いたりすると、私はふるい立った。ぬりえは、絵画の教育ではない。教育とは無縁のもので、あくまで子どもの遊びである。幼い子どもの情緒を養う、心の遊びだと主張したりした。
もし、私が「ぬるための絵」とだけ考えて絵を描いていたら、もっと違った、教育的なものを描いたと思う。しかし、私は美しい絵を描きたいから描いてきたのだった。美しい大人なり、子どもなりの絵を描きたかったのである。「草思社 きいちのぬりえ」


きいちはぬりえに対して、上述のような気持ち、思いをもって描いていました。
これらの思いを元に生まれたきいちのぬりえは、当時の女の子たちの心を捉えて止みませんでした。
 

今年の五月には新しい年号が制定され、新しい時代が始まります。昭和の時代から時間は経っても、可愛いきいちのぬりえの少女は忘れ去られること無く、新しい時代にも永遠に生き続けることでしょう。きいちのこれらの言葉と共に。(館)

Posted: Nurie : 19年03月03日 | 美術館だより |

3月の美術館便り(1)

きいち生誕105年
蔦谷喜一の生誕105年をお祝いします。
「みんなのそしてわたしのきいちのぬりえ」
2019年3月2日(土)~5月26日(日)


蔦谷喜一の生誕105年を祝いまして、春の企画展では「みんなのそしてわたしのきいちのぬりえ」と題しまして、日頃は展示をしていない生前に取り上げられた雑誌を中心にグッズ類やぬりえが入っていましたぬりえの袋等を展示いたします。
 

ぬりえは子どものころには誰でもしているものですが、成長するにしたがっていつしかぬりえをしていたことも忘れてしまうものです。しかしぬりえは、子どもの心を育む遊びでもあります。子どもにとって大切な「こころの宝物」を昭和、平成そして新しい時代にも残して、日本の文化の一つとして、きいちのぬりえを伝へ、ぬりえ文化として残していきたいと願っています。
今後ともきいちのぬりえにご支援を賜りますよう宜しくお願いいたします。

1.掲載雑誌より

1.1 ミマン 1998年3月号
50年代 ぬりえで遊んだあのころ

少女たちにせっせと夢を送り届けた
ぬりえ作家 蔦谷喜一さん
 林 えり子 作家

ぬりえ作家の蔦谷喜一さんがご健在、ということを聞き知ったときにはすくなからず驚かされた。
蔦谷さんは、
「一晩に三十枚四十枚、最も忙しかった時代は六十枚も描きました」と、いうご本人の驚くべき証言に私は眼を丸くしたが、それも紙に描くのではなく、
「版に直接描くんです。亜鉛版みたいなのに筆ですけれど油の墨で描く。油墨、油煙墨っていうのかな。間違っていても消せないんです」
とおっしゃり、すぐに印刷できる状態での版下描きであった。誤りの訂正は不可能なので、一枚一枚が真剣勝負、しかもそれを日に何十枚と描いたのである。


もちろん彼は、生活の手段としてぬりえを描いたのだが、ぬりえを描くこと自体にある種よろこびを感じていたようなのである。
「私は男であるし大人であるのにね、年齢があるところで、少女、少年というより少女の気持ちで止まっちゃっていたんじゃないかと思うんですよ。夢見るとか憧れるとかね、希望とかいうものが少女のそれと似通っているんじゃないかと思う」

そのうちに、私たちからぬりえを取り上げた戦争はぬりえ作家をも巻き込み、しかし、敵国アメリカに負けたことが「きいち」の誕生につながったとうかがい、戦後文化の成立をあらためて見直さざるを得なかった。
「私は以前からアメリカという国が好きだったんです。戦争が終ると日本中がアメリカ一辺倒になったでしょう。やっと私の時代が来たと思いました。
 

ということで彼の再起はアメリカナイズされた少女像でスタートされた。
眼が以前にもまして大きく、まつ毛は長く、髪はカールし、「きいちのぬりえ」には何か希望の陽が輝いており、明るく清潔で美しい世界があった。
そうした夢を与えてくれたのは、ぬりえだけでなく、いやぬりえ以上に、いまふうに言えばバーチャルリアリティを味わわせたのが「きせかえ」であったと思う。
「きせかえ」も「きいち」の手にかかるとアメリカのホームドラマが再現され、物のない時代の私たちの夢をゆさぶった。

1.2 飛ぶ教室-季刊/児童文学の冒険 1984年10月号

児童文化のパイオニアたち
蔦谷喜一氏に聞く
  尾崎 秀樹  文芸批評家


尾崎 お家は京橋の紙問屋「蔦谷商店」ですね。九人兄弟の七番目、それも男のお子さんでは一番末と聞きました。

蔦谷 新聞社御用達っていうんでしょうか、各新聞社の紙型とかザラ紙の巻取、つまり新聞紙ですね。ああいうものを家では扱っていたんです。私が子どもの頃は「都新聞」とか「国民新聞」といった小さい新聞社がたくさんありましたし、大きいところでは「読売新聞」と「日本経済新聞」の前身にあたる「中外商業新聞」が主な取引先でした。家に紙があるってことは私がぬりえの仕事を始めるようになってからずいぶん助かりましたよ。

尾崎 子どもの時から絵はお好きだったんですね。

蔦谷 人物を描くのが好きだったんです。小学校の時にチャップリンの絵を描いたらうまく描けた。それ以来人間の絵に興味をもったんですね、自分にはこういう絵が描けるんだと。それも真似じゃなく、チャップリンの映画を観て帰ってから、こういう格好してたなとかジャッキー・クーガン(『キッド』の子役)は鳥打帽をななめにこうかぶって、破けたセーターをこう着ていたと記憶で描くんですよ。そうなると単なる真似じゃなく、わりに独創性がありますからね。樺島勝一さんの『正チャンの冒険』なども得意でした。とにかく人物を描きたかったからなんです。一時は高畠華宵の挿絵に見せられ、挿絵画家になりたいと思いつめました。

尾崎 挿絵としては華宵のほかにどういう方たちの作品に関心を持たれましたか。

蔦谷 岩田専太郎さんの絵は、私には少し強すぎてあまり好きじゃなかったんです。志村立美とか、富永謙太郎、それ以前ですと林唯一などですね。

尾崎 戦争中はどうなされたんですか。

蔦谷 昭和十七年の物資統制で必然的にぬりえ屋も廃業。私も徴用されて海軍へ行きました。昭和二十年に終戦で家へ帰ってくると、海軍時代の知り合いの紹介で進駐軍の兵隊さんの家族や恋人などの肖像画を描きました。落下傘に使う羽二重に枠を作りまして日本画のタッチで描いたんです。掛軸に作ったのも受けましてね、聞き伝えに耳にして入れ替わり立ち替わり、毎日のように注文がありました。進駐軍が引き上げるまでの一年間、一日に一枚ぐらいの割で続き、それだけで仕事になりましたね。そして進駐軍が引き揚げて明日から何をしようかななんて思ってた時に、ちょうど入れ替わりのようにフジヲを描いていた時のぬりえ屋さんが訪ねてきて「ぬりえを再開するつもりで、一年間あなたを捜し歩いた」といってくれたんです。

Posted: Nurie : 19年03月03日 | 美術館だより |

カテゴリー

最近のエントリー

月別アーカイブ

エントリーの検索

ぬりえのお店やさん ぬりえのアルバム 最新ぬりえギャラリー 海外のぬりえ研究室
Page Topへ