蔦谷喜一(つたや きいち)のプロフィール
きいちのぬりえとは
ぬりえは世界の多くの国において、誰もが子ども時代に経験するものであり、子どもの心を豊かに育むものとして親しまれています。
当美術館では、動物、花、童話、景色、歴史などを描いた世界30余ヶ国の多彩なぬりえを収集・展示していますが、その中に美術館の誇る、ひときわ美しい収蔵群があります。
それが昭和の中期に活躍した、ぬりえ作家・蔦谷喜一の作品「きいちのぬりえ」です。
「きいちのぬりえ」は、昭和20年〜30年にかけて日本で大流行し、それから60年以上を経た現在も尚、日本で愛され続けています。
時と世代を超えて愛され続けるその理由には「きいちのぬりえ」が、少女の憧れや夢を描いたものであること、当時のファッションや生活様式等を想起させるものであること、そして描かれた世界が、自然に心が浮き立つような誰の中にも在る懐かしくも温かい世界であることが挙げられるでしょう。
更に付け加えるならば、「きいちのぬりえ」に登場する独創的な少女の顔やしぐさは、現在のメイド・イン・ジャパンのポップカルチャーの源流に通じる「カワイイ」の原点であり、現代を生きる人々をも惹き付けてやみません。
「きいちのぬりえ」は、繊細且つ優美、装飾的且つ神秘的であり、普遍的な美しさを持つ芸術にまで高められた日本のぬりえの白眉であり、世界で最も美しいぬりえであると言えるでしょう。
きいちの幼少の頃
大正3年、9人兄弟の5男として、築地に生まれる。
家業は新聞社向けの紙の納入する紙問屋。父親は津軽出身で20歳で上京し、一代で蔦谷商店築きあげた。きいちの15歳上の長男は、父親に輪をかけて勤勉で、商売にたけていたため、商店は隆盛を極めることになり、本拠地の築地の店のほかに、麻布や品川に工場を構え、大磯の別荘や人形町の何百坪もある土地に加え、いくつか土地や建物を所有していた。そんな裕福な環境の下で、子ども時代を過す。
一番末の男児であるきいちは、母親に可愛がられ、母と姉二人、妹二人と共に過ごすことが多かった。幼少時代のきいちは、大人しく、近所の男の子たちとベーゴマやメンコ遊びをするよりは、母親の着物の端切れや半襟で人形を作ったり、妹たちの人形遊びやままごとを眺めて過ごす方が性にあっていた。
下町に生まれ育っても、下町独特の喧騒にはなぜか溶け込むことができなかった。そんなきいちが好きだったことが絵を描くことであり、特に人物画を好んで描いた。
17歳の時、帝展で見た山川秀峰の「素踊」の絵を見て画家の道に入ることを決意。文京区春日にあった川端画学校で美人画を学ぶ。川端画学校を3年ほどで卒業すると、昭和10年、21歳で有楽町の日劇の前にあるクロッキー研究所の夜間に通い、デッサンを7〜8年学ぶ。
きいちのファッション・センス
「お洒落は女の特権というわけではない。男だって、きれいな格好をしていたほうがいい」というのが兄の口癖だったそうで、独身時代の洋服や本のツケはすべて兄が支払ってくれたという。お蔭で、きいちは、銀座のモダンボーイであり、銀座の街をオーダーのスーツで闊歩すると、「今の流行はあんな感じか」と言われたそうだ。
ぬりえとの出会い
当時売れっ子だった石坂洋次郎が田園調布に家を建てた頃、石坂はきいちの遠い親戚にあたるので、姉についてお祝いを持参して訪ねた。売れっ子の石坂が会ってくれるとは思ってもみなかったが、会って見ると明るく気さくな人で、主婦の友社に挿絵画家としてきいちを紹介してくれることになった。しかし、残念ながら主婦の友からの返事は、「線が硬い」ということで不採用であった。
昭和15年、きいちが26歳の時に、川端画学校の友人がぬりえの仕事を紹介してくれ、良く見ていた歌舞伎をテーマに「フジヲ」の名で描いてみると、たちまち人気となった。しかし昭和16年には太平洋戦争が勃発、戦争の激化に伴い、いつしかぬりえも消えていく。昭和19年にはきいちも召集され、海軍省本部に配属された。
●フジヲ時代のぬりえ作品(左から古い順)

きいちのぬりえの誕生
昭和20年、終戦。兄の紹介で築地に駐留中の米軍の兵士の恋人や妻の肖像画を掛け軸にしてあげて喜ばれる。1年ほど肖像画を描いて生活。肖像画は1枚6円、月に20枚描いて120円となった。給料のいい人で100円の時代、いい仕事であった。
昭和22年、今度は本名の「きいち」でぬりえを石川松声堂・山村山海堂と一緒に共同経営を始める。その後きいちは絵専門にして、石川松声堂と山村山海堂の二社に描いていく。
昭和23年ごろからは、袋入りで売り出すことにした。「きいちのぬりえ」は、平均すると月に百万セット、最高時には160万セットの大人気となった。
きせかえは、昭和23年頃から、描いた。石川松声堂と山村山海堂にそれぞれに毎月4枚描いた。当時ぬりえと違ってきせかえは下火であったので、子どもの遊びにこういうものがあることを知ってほしかったと後年に述べている。
塗らなくても良い、持っているだけで楽しいぬりえ
「ぬりえは子どもの創造性を阻害する」とぬりえが悪者扱いをされることもあった。そんなとき、きいちは、「ぬりえは絵画の教育ではない。教育とは無縁のもので、あくまでも子どもの遊びである。幼い子どもの情操を養う、こころの遊びだ」と主張した。
また、「もし、"ぬるための絵"とだけ考えて絵を描いていたら、もっと違った、教育的なものを描いていたと思う。しかし、私は美しい絵を描きたいから描いてきたのだ。美しい大人なり、子どもなりの絵を描きたかったのである。色を塗っても塗らなくても、持っているだけで楽しい、という絵が描きたかったのであり、子どもたちは、好きになった絵を選んで楽しみ、色をつけたい子どもは色をつければよい。」と自論を語っている。

きいちの好きなもの
ぬりえの収入で裕福なその頃のきいちの暮らしぶりといえば、伝統的な稽古に没頭する日々であった。
茶道、華道、長唄、お三味線、日舞、時に日舞には力を入れ、40歳で名取となっているほどである。
好きな色は、ピンク、赤、紫、ブルー、白。
背景に描きこむ絵で一番よく描いたのものが「さくら」。さくらやコスモス、梅、ガーベラなど、何でも描いたが、どちらかといえば一重の花を好んだ。
花のほかによく描いたものは「蝶」。「蝶」を絵柄や色彩を変えることで、華麗さ、はかなさ、躍動感など、どんな雰囲気にも自在に演出できるものとして捉え、傍らに添えておきたいものとして多用した。
ぬりえの衰退
昭和34年の皇太子殿下のご成婚、昭和39年の東京オリンピックの開催等で、一般家庭にテレビが普及した。昭和35年、NHKと民放各局がテレビのカラー放送を開始する。テレビはアニメーションブームになっていく。
この頃から、ぬりえの人気は下降線を辿り始める。昭和40年頃にはぬりえブームは去り、きいちは通販用の絵や掛け軸を描き始める。
ぬりえの世界から遠のいていたきいちを再び世間の眼の中へと引き戻したのが、今は文化屋雑貨店の社長である長谷川義太郎氏である。同氏は、昭和53年に資生堂ザ・ギンザの「アート・スペース」にきいちを紹介。そこで「キイチのぬりえ展」が開催された。
●ザギンザの展覧会ポスター
その後、この展覧会をきっかけとしてきいちの第二次ブームが訪れ、雑誌「ビックリ・ハウス」のアート展等のイベントが各地で開催されたり、コマーシャルに使用されるなどして、その人気は現在にまで続く。
ぬりえ衰退後のきいちは、日本画でぬりえのような少女を描く「童女画」に取り組み、平成17年、91歳で亡くなるまで、生涯現役の画家として「美しさ」への願望を飽くことなく絵の中に見出そうと筆を取り続けた。