《弥 生》
長唄「鏡獅子」の中の御小姓の弥生が正月六日のお鏡曳きの余興に、上様の御所望で踊ることになる。
舞が最高潮に達し、弥生が獅子頭を手にすると、どこからともなく蝶が飛んできて、獅子頭は蝶を追ってひとりでに動き出す、という場面を描いた美人画。
この後、弥生は獅子の精となり、勇壮な姿を見せ、獅子の毛ぶりを見せる。
日本舞踊が好きであったきいちならではの作品である。
《桃子ちゃんのはごいた》
小学館発行の「わたしのきいち」の表紙につかわれた絵である。
《桃子ちゃんのおひなさま》
続けて、桃子ちゃんのために描いたおひなさまの絹本。
《春よこい》
着物に赤いちゃんちゃんこを着た幼子。春が待ち遠しくて外にでてきたのでしょうか。
《はくちょうのおうじ エルザひめ》
「白鳥とエルザ姫」
魔女の呪いで、白鳥にされてしまった11人の兄王子をたすけるため、妹のエルザ姫がイラクサ(トゲがいっぱいあるくさ)を紡いで、11人分のシャツを編んで兄を助けるというアンデルセン童話「白鳥の王子」。
これらの絹本の他に、ぬりえ類は春をテーマにした「花、桜」、「ペット」、「遊ぶやスポーツ」、「お人形」をテーマにした作品を、展示室中央の什器に展示をしております。
きいちのぬりえと晩年の絹本をどうぞごゆっくりご覧ください。
《きいち千夜一夜 No.26》
2021年も引き続き「きいち千夜一夜」と題しまして、きいちについてご紹介をしてまいります。
【きいちのブーム再び②】
長谷川の手元にある程度作品が集まってみると、今度はぬりえを描いている喜一本人に会ってみたくなった。今でも絵を描いていいるとすれば、喜一をアーティストとして、広告に起用することも可能に思えたからだ。しかし、山海堂や石川松声堂と言った発売元はとうにぬりえからは手をひいてしまっていて、きいちの行方はようとしてしれない。交流のあった人間を辿り、喜一の家を突き止めるまでには、かなりの時間を要した。
昭和四十七年、同僚の喜一ファンとともに長谷川が最初に喜一宅を訪ねた時、彼は埼玉県、上福岡市の小さな借家に住んでいた。表札のそばに花柳流の看板がかけられていたのが印象深かった。突然訪ねて来た長谷川たちに、喜一は"今は日本画家として肖像画などを描いている"というと、長谷川が思い描いていたイメージからはかけ離れた、老人の肖像画を見せた。ある会社からの依頼で、社長の肖像画を描いているということだった。
その時の様子を喜一はこう回想する。
「突然電話がかかってきて、これから絵を見に行っていいかってことでしたよ。訪ねてきたのは確か、女性が一人に、男性が三人くらいでしたね。女性のファンならわかりますけどね、男性が多くてね、ちょっと驚きました。それに、いい大人が私の絵を見るたびに歓声を上げるんです。なんだか不思議な気がしましてね。子供ならわかるけど、大人がなぜこんなに喜ぶんだろうって」
これを機に長谷川は、忘れ去られようとしていた喜一の存在を世の中にアピールしようと動き始める。喜一の絵を起用してもらうために出版社に働きかけたり、知り合いに取材を頼んだり、イベントを仕掛けたり、この効果はやがて多方面に波及し、喜一の存在は改めて認識されるようになる。昭和五十三年の資生堂ザ・ギンザホールでのぬりえ展や当時若者に人気だった雑誌<ビックリ・ハウス>を主催のアート展に、常連アーティストに混じって、喜一も数々の作品を発表した。
参考図書「私のきいち」小学館
■今月のエントランス
タイトル:すずがなる
作 者:きいち
年 代:昭和20年代
可愛いダンスにはタンバリンが合います。リンリンと鈴が鳴って、いっそうダンスが楽しくなります。
■ぬりえ美術館マスコミ情報
☆テレビ朝日の「じゅん散歩」で高田純次さんがぬりえ美術館を訪問されました。
■展示室のご案内
☆春の企画展「春はあけぼの」を展示いたします。蔦谷喜一が晩年に描いた童女画の絹本を展示いたします。
☆館内のぬりえコーナーは、コロナ感染防止のためにしばらくお休みをしています。ご了承のほどお願いいたします。
3月の声を聞くと、桜の便りが聞かれるようになります。今年は福岡がトップで3月18日、東京は21日だそうです。コロナの状況によって、お花見ができるかどうか分かりませんが、遠くからでも眺めたいものです。
《ぬりえのこころ -今月の一枚- 》
館内に入ってスグ目に留まるぬりえは、その時々の季節のものやテーマを設けて月毎に展示しています。このコーナーでは、月替わりのエントランスのぬりえから1枚を選んでご紹介します。
タイトル:うたって おどって
作 者:きいち
年 代:昭和30年代
3月のエントランスは、「歌って 踊って」と題しまして歌やダンスがテーマのぬりえを展示しています。
「うたっておどって」と聞きますと、子どもの頃の学芸会や体育の時間が思い出されます。
歌を歌っていると、体が自然に動くことを感じます。足を音に合わせて、トントンと踏んでいたり、手をたたいていたりして、気持ちまで弾んできます。
昭和10年代にはぬりえ美術館の町屋辺りには、長唄のお三味線が流れていたそうです。20年代には歌謡曲がラジオから聞こえていました。
それらの音楽のリズムが時代と共に変わるにつれて、当然それを聞いている私たちの体の反応、動きは変わってくるはずです。
そして現代では、2011年から2013年にかけて、小学校から高校までダンスが必修ということになりました。子どもたちはテレビやスマホ等を通じて、アメリカや韓国のK-POPなどの音楽番組から歌やダンスのすばらしさを感じているはずです。 友人の子どもは2歳くらいから、韓国のブラックピンクという女性グループの歌に合わせて、踊っていたそうです。
そういう子どもたちが中学生になるころには、アメリカ、韓国のグループに負けない歌って、踊れる日本人が多数生まれていることでしょう。楽しみです。(館)
令和3年春の企画展
「春はあけぼの」
~やうやう白くなりゆくやまぎわ~
蔦谷喜一が晩年に描いた童女画の絹本を展示いたします。
2021年3月13日(土)~5月30日(日)
きいちは子どもの頃から得意なことと言えば、絵を描くことだったが、絵描きを目指すきっかけになったのは、上野の美術館で帝展を見たときのことであった。たおやかに舞う女性を描いた。
山川秀峰の「素踊」に心を奪われたからである。山川は鏑木清方の弟子で、伊藤深水の兄弟子に当たる人物。細やかな描写に加え、女性の豊かさを清潔な色香が匂いたつような作品に心底見せられてしまった。と同時に、それまでくすぶっていた自分の夢がハッキリと姿を表したような気がした。
彼が目指したものは「美人画」である。あるいは高畠華宵のような売れっ子の挿絵画家である。
そこで喜一は、勉強の場に、文京区春日にあった川端画学校を選んだ。当時川端は絵を学びたいという人を受け入れる一方で、芸大志望者がデッサンを学ぶ美術学校進学への予備校的存在でもあり、基礎を徹底して学ぶには絶好の場だった。
川端学校を3年ほどで卒業すると、今度は有楽町の日劇の前にあるクロッキー研究所に通いはじめる。クロッキー研究所は、裸婦デッサンを中心に訓練する場で、プロとして活躍する人を対象とした学校だった。きいちはここに夜間だけ行って、7~8年通い続けた。
昭和15年、きいちが26歳の時、ぬりえとの出会いがある日突然やってきた。「川端時代の友人で、画学校を途中でやめて家業の製本屋を継いだ男がひょっこりやって来て、"ぬりえの仕事を持って来てやったよ。"」とこれできいちのぬりえが始まった。その当時は、虞美人草の主人公の名前から名付けた「フジヲ」で描いた。
戦後「きいち」の本名でぬりえを描き始めたのは昭和22年である。戦争が終わり、子どもたちにも自由がやってきた。子どもたちが喜ぶ、可愛いぬりえ、美しいぬりえをきいちは毎月発表していった。何十人もいるぬりえ作家の中でも、きいちは格別に可愛い女子の絵と、子どもたちが憧れる素敵なファッションを提供して、子ども達の絶大な人気を得ていくのである。
そんな生活は昭和40年代ころまでつづき、テレビが生活の中心となり、テレビの中でアニメが見られるようになると、いつしか動きの無いぬりえは子ども達に忘れ去られていくのである。
昭和47年、グラフィックデザイナーの長谷川義太郎が同僚のきいちファンとともにきいち宅を訪ねてきた。突然訪ねてきた長谷川たちにきいちは、"今は日本画家として肖像画などを描いている"と言うと、老人の肖像画を見せた。ある会社からの依頼で、社長の肖像画を描いているとうことだった。
これを機に長谷川は、忘れ去られようとしていたきいちの存在を世の中にアピールしようと動き始める。昭和53年の資生堂ザギンザホールでのぬりえ展や、当時若者に人気だった雑誌
<ビックリ・ハウス>主催のアート展に、常連アーティストに混じって、きいちも数々の作品を発表した。作品展が各地で開催され、広告にも使われたり、テレビの出演などが続いた。
「第二のきいちブームといわれて騒がれて、でも、私としては次なる目標が欲しいと思っていた時に、ヒントを与えてくれたのも、長谷川さんでした。私を表舞台に引っ張りだしてくれた以上、私のほうも自分から自信をもって表にだせる作品を描いていかなくてはならない。それで、少女の姿を絹絵に描く童女百態シリーズに取り組もうと決めたんです」
美人画を勉強し美人画家を目指したきいちだが、ぬりえを20年以上描いていたことから晩年は童女の姿を絹本に描くことにした。それが童女百態シリーズである。
今回はぬりえ美術館が所蔵する童女画と美人画の絹本をご覧頂きます。
「春はあけぼの」~やうやう白くなりゆくやまぎわ~
蔦谷喜一が晩年に描いた童女画の絹本を展示いたします。
開催期間:3月~5月 土・日開館
いつもぬりえ美術館にご愛顧を賜りまして、大変ありがとうございます。
現在臨時休館中でございますが、緊急事態宣言の期間延長を受けまして、臨時休館を3月7日(日)まで延長させていただきます。
今後の営業に関しましては、都度ホームページなどでお知らせしていく予定です。
お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解、ご了承の程宜しくお願いいたします。
《きいち千夜一夜 No.25》
2021年も引き続き「きいち千夜一夜」と題しまして、きいちについてご紹介をしてまいります。
【きいちブーム再び】
ぬりえブームが去って、再び"きいちブーム"がやって来た。人との付き合いは苦手だけど、この時ばかりは、人との出会いも悪くないなってそう思いましたよ。
めまいだけでなく、四十肩や五十肩の痛みもあり、相変わらず体調がすぐれずにいたころ、突然喜一を訪ねて来た青年がいた。おもしろ雑貨の仕掛人、長谷川義太郎である。
彼は、荒物や日用品といった従来の雑貨の概念を覆し、ファンシーグッズやファッショングッズを総括する言葉として雑貨という言葉に新たなる息を吹き込んだ、その第一人者ともいえる人である。現在は渋谷で文化屋雑貨店を経営するが、当時はグラフィックデザイナーとして広告制作会社に勤めていた。
昭和四十年代中ごろ、長谷川の通う事務所の近く、築地周辺にはまだ小さな駄菓子屋が残っていた。取り立てて目当てのものがあったわけではないが、なにかデザインのヒントになるようなものはないかとふらりと立ち寄った駄菓子屋で、古びたぬりえを見つけたのだ。
子供時代の長谷川には、当時少女向けのぬりえで遊んだ経験はなく、従ってぬりえを見ても郷愁にかられるようなことはなかった。しかし、それだけに彼の目には、ぬりえが非常に新鮮な存在として映った。原色中心の大胆な色使い、そして版ずれのなんともいえないキッチュな感じが、デザイナーとしての触角を奮い立たせた。
仕事は忙しさを極め、ほぼ毎日が徹夜ということもあったが、そうした合間を縫って、長谷川は築地や月島界隈の駄菓子屋をくまなくまわり、ぬりえを買い漁った。作品に記されたサインから、何人かのぬりえ作家の存在を知ったが、なかでもひときわ彼の関心を引いたのが「きいちのぬりえ」であった。
他の作品とは違って、少女の放つ色気と線の美しさに心奪われた長谷川は、それから喜一のぬりえだけを集め始める。時には、会社の応接室の壁一面にぬりえを張り、密かに「きいちのぬりえ展」なるものを開いて楽しんだという。
※参考図書「わたしのきいち」小学館
《今月エントランス》
題 名:ゆきやこんこん
年 代:昭和30年代
作 者:きいち
空を見上げて、スカートの裾を広げて降ってくる雪をスカートに集める女の子。
雪を見ると、こんなことをしてみたくなります。
フワフワとした雪は色々なことを想像させますね。
■ぬりえ美術館情報
☆第11回ぬりえコンテストの優秀作品13点を館内に展示しています。同時にHPにも掲載しています。
☆3月からは蔦谷喜一が弁年に描いた童女画の絹本を展示予定です。
■展示室のご案内
☆ぬりえコンテストの優秀作品を展示しえいます。
☆館内のぬりえコーナーは、コロナ感染防止のためにしばらくお休みをしています。ご了承のほどお願いいたします。