東京都荒川区町屋 土日曜のみ開館
開館時間:(3月~10月)12:00~18:00 (11月~2月)11:00~17:00

ぬりえ美術館

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2014年3月23日の記事

3月の大人のぬりえサロン

今月は、珍しい男の子のぬりえです。タイトルは「ワシントンのさくら」 この作品は、ジョージ・ワシントンの桜にまつわる逸話をぬりえにしたものではないかと思います。スーツ姿ですので、いつものドレスのようにデコレーションはできませんが、外国の桜を意識してデコぬりえ®をしてみましたので、ご覧ください。


yun先生の作品

桜の飾りを大小様ざまなサイズで散らしていますが、その中の一つはガラスなどの飾り付けるジェルタイプのシールです。yun先生の素晴らしいところは、このように思いもかけないようなものをデコレーションに使うことです。又外国の桜を意識して背景には、英字新聞をコラージュしています。


ひさよさんの作品

ジョージ・ワシントンが涙を流しているのに、気がつきましたか? 逸話から発送して彼はきっと悲しんでいるのではないかと、涙が頬を伝っています。ひさよさんの素晴らしい点は、このようにストーリーや背景を深く考えて作品作りに生かしているところです。


富塚さんの作品

スーツにリボンを使って、高級感がでています。桜の木が二本ならんでいて、奥行きがでています。

古川さんの作品

淡い桜が全体を覆っているような色合いに纏っています。パンツの水玉の飾りが、元の水玉とはずらしてラインストーンを張っているのも面白いです。


千葉さんの作品

スーツの赤紫色がとても効いています。桜の花びらが髪にも地面にも散って華やかです。


館長の作品

今回のイメージは、ブルーでした。それほどデコレーションはしていませんが、桜の花をいろいろ違った素材でデコレーションして楽しかったです。


きいちは桜の絵を沢山描いていますが、いわゆる日本の桜のイメージをぬりえサロンでは何度か塗っていますので、違うイメージのものとして今回「ワシントンの桜」を選びましたが、横顔、男の子、外国の桜といういくつかの点で今までにないデコぬりえ®になったのではないかと思います。
来月も引き続き珍しいぬりえをデコレーションいたしますので、どうぞお楽しみに。

Posted: Nurie : 14年03月23日 | 大人のぬりえサロン

2014年3月21日の記事

大人のぬりえサロンの作品発表会のご案内

ぬりえ美術館の毎月恒例のサロン、大人のぬりえサロンで現在しています「デコぬりえ®」の作品発表会が開催されます。サロンに参加している7名とyun先生の作品を展示いたします。
デコぬりえ®の関心のある方、お近くの方は是非ご覧ください。

日時:4月3日(木)~4月23日(水)
会場:自家焙煎珈琲 梅の木 (十条商店街の中にあります)
住所:東京都北区上十条2-24-10 2F
電話:03-3905-6078
時間:月:9時~19時、火~金 8時~21時、日 9時~21時

Posted: Nurie : 14年03月21日 | お知らせ

2014年3月15日の記事

無記名さんの「ようはつのおよめさん」

とても大胆な色合いが素敵な花嫁衣裳です。薄い紫のベールもお洒落です。(館)

Posted: Nurie : 14年03月15日 | ぬりえギャラリー

山口さんの「いらすかれーのおきゅうじ」

”人生始めての塗り絵かもしれない”とのコメントがありましたが、とても纏っています。カワンピースの柔らかい感じがでています。(館)

Posted: Nurie : 14年03月15日 | ぬりえギャラリー

無記名さんの「くつをきれいに」

ワンピース、靴、ブラシなどに陰影がはいって、自然な感じがいいですね。(館)

Posted: Nurie : 14年03月15日 | ぬりえギャラリー

さとるさんの「かえるがなくからかえろ」

女の子の好きなピンクや赤が段々使えるようになってきていますね。背景の色も入ってさらに良くなっています。(館)

Posted: Nurie : 14年03月15日 | ぬりえギャラリー

ちよさんの「きれいなかみかざり」

赤とオレンジだけで、素敵な世界観をだしています。(館)

Posted: Nurie : 14年03月15日 | ぬりえギャラリー

2014年3月10日の記事

第35回荒川区産業展

今年も産業展が3月8日、9日の土・日に開催されました。風が冷たい日にも係わらず、大勢の方が来場され、9日には「大入袋」が配布されました。
連日「ぬりえの世界コーナー」には、10時の会場前からお子さん方が机に座ってぬりえをされる程、人気のコーナーとなっていました。
ぬりえ美術館では、今回も「デコぬりえ®」作品を展示、紹介するとともに、荒川ケーブルTVさんに取材していただいたぬりえサロンでの「デコぬりえ®」制作のDVDを放映しました。壁面には、パリでのぬりえ展のバナーやぬりえの少女達をちりばめた赤いバナーで、華やかに壁面を飾りました。
会場を様子は写真の通りです。
      

Posted: Nurie : 14年03月10日 | お知らせ

2014年3月 5日の記事

美術館便り3月~5月合併号 (3)

2-3 MOKU 1998年9月号
・昭和六年、その年の帝展に姉に連れていってもらい、美人画と出合ったのです。ああ、美人画というのは、こんなに美しいものかと感じ、私の行く道はこれだと、一種の霊感に打たれました。それは、鏑木清方の弟子で伊藤深水の兄弟子に当たる、山川秀峰の「素踊」という作品でした。


・昭和十五年にフジヲのペンネームでぬりえを描き始めました。ほんのアルバイト的な取り組みでしたが、美人画を基にしたフジヲのぬりえは、それまでのモノの形を型取っただけのぬりえと違っていたからでしょうか、人気が出かかったのです。でも、すぐ大東亜戦争が始まってしまって、物資統制時代になり、ぬりえ屋は店を閉めてしまいました。


・戦後一年は、進駐軍の兵隊さんが持って来る奥さんや恋人、娘さんなどの写真を基に肖像画を日本画で描きました。
 師団が月島をさると、兄に自宅でぬりえをやってみたらどうだと、印刷だってウチでできるといわれましてね、四枚綴りの「おとぎ絵」を工夫しました。


・シンデレラとか白雪姫とかおとぎ話を四枚のぬりえに仕立てたものをつくって、蔵前の玩具問屋へ持っていき、昔のフジヲですということで店に置いてくれたのです。
それがどんどん売れ出すと、今度は玩具問屋のオーナーのほうから、ぬりえの版元にしてくれという話が出てきました。それも二つのところから。そこで本格的にぬりえに取り組むこととして、ネームも本名の"きいち"で始めました。


・ピークのころには、月に百二十枚。一晩で(ジンク版)八枚。一枚に四区画の絵ですから三十二枚描いていたわけです。
版元は四種の袋をつくって八枚のぬりえを入れて五円でうります。始めのうちはそれが
八十万部ほどでしたが、やがて、百六十万部、二百二十万部と売れたのです。

・小売屋の仕入れは、「きいちのぬりえ」が二円七十銭。ほかの「ぬりえ」は二円五十銭と安いのに、「きいち」のほうが売れたといいます。


・宝塚歌劇団のモットーは「清く正しく美しく」だそうですが、私もこれなんです。モットーは。
昭和四十年にばったりとぬりえが流行らなくなって、もう一度美人画に戻ろうとしたんですけどね。そして、いまもまだ美人画を描いていますが、中心になるのは童女画で、はやりこれはもう生涯この絵柄からは、抜けられないのでしょうね。


・童女画の作業手順
まず鉛筆で仕上げた下書きを木枠に張った絹布の下にきちんと止める。すると布の上から下絵が透けてみえる。
その輪郭を鉛筆でとる。昔はここは筆でいきなり描いたものだという。
筆を入れる順は、まず目。目というよりは瞳の部分。「目がまず決まらないと・・・」
次が眉、鼻のライン、口唇、両頬、顎、頭髪、リボン、耳、襟首と次第に頭部が形をなしていく。


マスコミに取り上げられたお蔭で、きいちのぬりえを描いていていた当時の様子が残され、どのようなことからぬりえの世界に入ることになったのか、どんな思いで描いていたのか、当時の様子を知ることができます。


「持っているだけで楽しい絵」 
私は、もっと、心のこもった絵を、小さい子どもたちに見せたかった。一所懸命描いてはいたが、やはり商業ベースだから数をこなさなければ、というところもある。
 私は、いいえが描きたかった。色をぬるためというのは、二の次でよいと思った。色をぬってもぬらなくても、持っているだけで楽しい、という絵を描きたかった。いやな絵を買って、色をぬってもしかたがない。子どもたちが、好きになった絵を選んで、楽しんで、色をつけたいこどもは色をつければよい、と思った。


「美しい絵を描きたかった」 
ぬりえは子どもの創造性を阻害すると、悪者視されるのを聞いたりすると、私はふるい立った。ぬりえは、絵画の教育ではない。教育とは無縁のもので、あくまで子どもの遊びである。幼い子どもの情緒を養う、心の遊びだと主張したりした。
もし、私が「ぬるための絵」とだけ考えて絵を描いていたら、もっと違った、教育的なものを描いたと思う。しかし、私は美しい絵を描きたいから描いてきたのだった。美しい大人なり、子どもなりの絵を描きたかったのである。


きいちはぬりえに対して、上述のような気持ち、思いをもって描いていました。きいちを言葉は、「きいちのぬりえ」と共に永遠に残っていくものと思います。(館)

Posted: Nurie : 14年03月05日 | 美術館だより

美術館便り3月~5月合併号 (2)

2.掲載雑誌より
2-1 「築地物語」NO.55 1998年11・12月号より
・きいちさんは京橋区新佃(現在の佃2・3丁目辺り)で生まれ、4歳のときに入船町に一家で引越し。昭和3年に築地2丁目11番(玄築地3丁目7番)に新築した店を本家としたが、きいちさんは母親と足立に住む。


・昭和3年明石町にある京橋商業高等学校に進むが、自分に合っていないことに気づいて
画家を目指して、川端画学校に通う。


・きいちさんは、銀ブラを楽しむモボ(モダンボーイ)だった。仕立てのいい服を着て、銀座に繰り出していた。
「キャバレーやカフェには行かないで、名曲喫茶とか、ジャズの店、ダンスホールに行って銀ブラをして帰ってくるんです。当時、銀座に遊びに行くのは、若い人かお金を持っている人。当時は兄が小遣いを余計にくれていたから毎日行っていたんです。一流の喫茶店でコーヒーが五十銭、ダンスホールのチケットが十枚で三円なんです。喫茶店はサボ意とかブランシックとか西銀座にあった大きな名曲喫茶とかに行きました。どうしたわけなのか、銀ブラをしないと、眠れなかった。私の三階の部屋からは銀座の灯りが見えたんですけど、その灯りを見ると、雨でも嵐でも銀座に行かなきゃ気がすまなかったもんです」


・ぬりえを始めると売れてブームを巻き起こした。収入が急激に増えたが、きいちさんはそのほとんどを芸事に注ぎ込んだのである。茶道、華道、長唄、三味線、日舞(花柳流名取となる)
この芸事がぬりえのなかに充分に生かされています。


・「机にむかっているかと思ったら、別なことをしているんですよ。きれいな包装紙をみつけると箱貼りをしたり、カーテンを縫ったりして、既製品の洋服だって着やすいように直したりするんです。」
きいちの器用さがわかる話である。

2-2 町雑誌「千住」Vol.11 2000年8月発行
・「千住は第二のふるさとなんですよ」
手広く商売をしていた実家は震災後すぐ、千住宮元町にも事務所を、足立区本木に工場兼倉庫と住居の一部を構えたので、子どもの頃からきいちさんと千住の関わりは始まるのである。


・きいちさんは使用人の沢山いる裕福な家で不自由なくのびのびと育つ。兄弟の上下が女だったせいもあり女の子と遊ぶことが多かったので、着物の切端で人形つくりをしてはままごとに興じ、母親のお供をして呉服屋にでかけるのが大好きだった。
・きいちさんは、小さいころから美しいものに並外れた憧れをいだいていた。


・「きいちは呉服の生地の名前やなんかすぐに覚えちゃうんだ」って言われていたんですよ。生まれつきのものなんでしょうね。それにまわりから「もっと男らしくしろ」とか
「女の子みたいだ」と言われたこともなかったんです。


・昭和19年12月29日に見合い、翌年1月19日に千住神社で結婚式をあげ、新居は千住緑町に構える。半年後召集令状が届き海軍省本部に配属となる。終戦となり、緑町の家に戻る。


・柔道家だった兄は警察でも仕事をしていたので、その紹介で、月島の進駐軍の米兵の持ち込む家族写真を、肖像画に描く仕事を始めた。1年くらい続けたところで、進駐軍が引き揚げることになり、肖像画の仕事は終わる。


・昭和22年の春、柔道家の兄が千住宮元町につたや道場を開き、その周辺に兄弟があつまって暮らし始めた。それからの2年間、この千住宮元町の居心地のよい小部屋から、日本中の子どもたちに向けてたくさんのぬりえが生み出されていったのである。


・最愛の一人娘をもうけたのも千住宮元町の家だった。


・足立区の梅島に家を建てて引越したが、親兄弟が暮らし、娘が踊りや幼稚園へ通った千住へはたびたび訪れているので、「千住は住んでいなくても自分の土地」だと思っていた。


・きいちさんがのめり込んだ日舞は、一人娘・美絵子がきっかけだった。週二回千住宮元町の花柳喜代先生のところに娘を送り迎えするうちに、きいちは自分でやりたくなり、男ながらに稽古に励んだ。
もともと歌舞伎などがすきだったきいちだが、踊りでみにうけたしぐさや表情が絵に影響を及ぼしたことは想像に難くない。


・「私の絵をモデルに娘の洋服をデザインしたんですよ」筆を持てば次々と洋服のデザインや模様が浮かんできたのだそうだ。

Posted: Nurie : 14年03月05日 | 美術館だより

美術館便り3月~5月合併号 (1)

祝 きいち生誕100年 「これからも いつまでも」
平成26年3月1日(土)~6月1日(日)

蔦谷喜一の生誕100年を祝いまして、春の企画展では「これからも いつまでも」と
題しまして、お祝いがテーマのぬりえを展示するとともに、生前に取り上げられた雑誌を
展示いたします。

 
ぬりえは子どものころにしているものですが、いつしか成長するにしたがってぬりえをしていたことも忘れてしまうものです。しかしぬりえは、子どもの心を育む遊びでもあります。子どもにとって大切な「こころの宝物」をこれからも残して、日本の文化の一つとして、ぬりえ文化として育てていきたいと思っております。


今回の企画展では、昭和20~30年当時のお祝いムードのぬりえを楽しんでいただくとともに、きいちが取り上げられました雑誌をご紹介いたします。

今後ともきいちのぬりえのご支援をよろしくお願いいたします。

1.きいちの人物像
本名は、蔦谷喜一。大正3年(1914年)に東京は京橋区新佃に、紙問屋の五男、九人兄弟の七番目として生まれました。新聞社に紙を納める紙問屋の息子として、何不自由なく育ちます。流行のファッションに身をつつみ、築地のお隣の銀座を闊歩するモダンボーイでした。
 
昭和6年。17歳の頃、帝展に出展されていた山川秀峰の「素踊」をみて、自分の夢をハッキリと自覚するようになり、川端画学校で日本画を習い、クロッキー研究所で裸婦デッサンなどを勉強します。

昭和15年。26歳。川端画学校の友人の勧めでぬりえの仕事を持ってきました。歌舞伎が好きだったきいちは、歌舞伎をテーマにしたぬりえや美人画のようなぬりえを描き、人気となっていきました。

戦争になり、中断。

戦後の1年は築地に駐留していた米兵の恋人や奥さんの肖像画を、掛け軸に描く仕事をしていました。100枚くらい描いたそうです。日本画の絹本(絹の上に描く)を学んだきいちは、米兵の持参したパラシュート(素材は絹)の上に肖像画を描いたそうです。きいちの絵がバタ臭いといわれますが、この頃の影響と思われます。

昭和22年より本名の「きいち」でぬりえを再び開始し、爆発的な人気となっていきました。最初はバラ売りでしたが、袋入りとなり、きいちのぬりえは、毎月100万袋、ピーク時には160万袋も売れるほどの人気を誇りました。

昭和40年頃、ご成婚や東京オリンピックなどで一般家庭にテレビが普及するようになり、「ぬりえは古臭いもの」として廃れていきました。

昭和53年(1978年)、資生堂の銀座のギャラリー「ザ・ギンザ アート・スペース」で、きいちのぬりえの展覧会が開催され、「第二次きいちブーム」が起こることになりました。それ以降、コマーシャル等に使われるなどして、人気が現在に続いています。

平成17年(2005年)、91歳で逝去。生涯現役で絵を描いていたきいちでした。

Posted: Nurie : 14年03月05日 | 美術館だより

3月の美術館ニュース(2)

『海外ぬりえ』 研究室 No.29   今月は、 フランス編です。


今月はフランスのぬりえ本の2回目をご紹介いたします。2012年 1月より「海外ぬりえ」研究室を開始した時の第一号がフランスのぬりえでした。
フランスはヨーロッパの中心に位置し、フランスを訪れる観光客が世界で一番多い観光大国です。


芸術、ファッション、食など多くの視点で世界からの観光客を楽しませています。
日本人にとっては、芸術の都として古くから憧れの地であったと思います。ルーブルを始めオルセー、国立近代美術館、オランジュリー、ギュスターブ・モロー等など数多くの美術館が揃っています。
そして、その美術館のギフトショップには全てと言っていいほど、様々なぬりえ本が置かれています。
美術館を訪れた子どもたちやこれから訪れるであろう子どもたちへのお土産として世界の名画を中心に
ぬりえ本が販売されています。そのような中から、3種類のぬりえ本をご紹介いたします。


①星の王子様

星の王子様(The Little Prince)は、フランス人の飛行士で小説家であるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの代表作である小説です。1943年にアメリカで出版されました。
資料によりますと、2009年現在、全世界で8000万部、日本では600万が売られている大変人気のある「星の王子様」のぬりえ本です。
左ページに色見本があり、右ページにぬりえを塗るようになっています。

②王様と皇帝

ルーブル美術館にある王様、王妃、皇帝などの絵を元にしたぬりえ本です。
ルイ16世やナポレオン1世などが描かれています。他にも美術館にある絵の中から”あるテーマ”を取り上げたぬりえ本が販売されています。


③日本(Le Japon)

日本のイメージを外国の方が描いたぬりえ本です。
舞妓さんのイメージでしょうか、日本髪に簪をさしています。日本人からみると本当の日本ではないと思う部分がありますが、とても個性的なぬりえ本で大好きな本です。
日本の他に、アフリカ、エスキモー、インディアンが発売されています。
子どもたちに外国のイメージを教えるために作られたものだと思います。


日本のぬりえというとアニメのぬりえ一辺倒ですが、外国のぬりえ本には様々なテーマがありますので、楽しいですね。
来月は、イタリアのぬりえ本を紹介したいと思います。

今月のエントランス

『おいしいごはんあげるわね』
年 代 : 昭和30年代 
作 者 : きいち
寄 贈 : 林 包明氏

小さいおわんにいれた犬の餌。
今はもちろんペットフードですが、20~30年代のワンちゃんの餌といえば、家の残りものでしたね。
当時は、犬の散歩などしている家などありませんでした。番犬かわりにどの家にも犬がいたように思います。


メディア掲載情報
●東京リビング3月8日号に掲載されました。

●読売カルチャーの冊子であるよみカル2014年春号、「よみカルのある街”町屋編”」に掲載されました。


【展示室のご案内】
●春の企画展「祝きいち生誕100年 これからも いつまでも」と題しまして、お祝いをテーマのぬりえときいちが掲載されました雑誌を展示しています。
●館内にはぬりえ体験コーナーがあり、ぬりえを塗って楽しんでいただけます。

Posted: Nurie : 14年03月05日 | 美術館ニュース

3月の美術館ニュース(1)

皆さん、3月ですよ。春ですよ。3月と聞いただけで、「春が来た!」という気持ちになりせんか。ところで、皆さまにとって、春の色はどんな色でしょうか。桜の花のピンク?菜の花の黄色?草木の新芽の黄緑?春の色を考えているだけでも、心がウキウキしてきますね。

ぬりえのこころ -今月の一枚-
館内に入ってスグ目に留まるぬりえは、その時々の季節のものや  テーマを設けて月毎に展示しています。このコーナーでは、月替わりのエントランスのぬりえから1枚を選んでご紹介します。
 

   
タイトル:カナリヤにえさを
作  者:きいち
年  代:昭30年代


3月のエントランスは、ペットをテーマにしたぬりえを展示しています。
カナリヤ、手乗り文鳥、十姉妹など小鳥を飼うことが、昭和20~30年代の私の小学生の頃に流行をしていました。伝書鳩などを飼う友人もいました。
私の家では、祖父がカナリヤを専用の小屋で飼っていました。赤い羽の色を色良く出すためにと、人参を食べさせたり、いろいろ工夫をして飼っていたようです。
赤塚不二夫氏の「おそ松くん」の六つ子の名前のなかに「十四松」がありますが、それは鳥の十姉妹からとっていたそうですから、その当時の鳥人気の影響があったのではないでしょうか。

日本も終戦後の貧しさから少しづつ抜け出し、十姉妹やカナリヤ、文鳥などの鳥を飼うような余裕がでてきて、流行したのではないでしょうか。十姉妹やカナリヤ、文鳥には、伝統的な日本的な趣味ではなく、少し洋風のモダンな匂いやお洒落な雰囲気が感じられたものです。
例えば柴犬や秋田犬、土佐犬などは伝統的な昔からいる日本の犬ですが、昭和20~30年代に流行した犬は、スピッツでした。真っ白で、毛がフサフサとして、この犬も洋風な感じがしたものです。
今、美術館の前を様々な種類の犬たちが行きかっていますが、あの当時は、動物の種類も少なくて、上述のように決まりきったものばかりでした。
皆さまの思い出のペット、または今可愛がっているペットは何でしょうか。(館)

Posted: Nurie : 14年03月05日 | 美術館ニュース

2014年3月 2日の記事

LEONAさんの「シンデラひめのようなおよめさん」

お嫁さんの優しさが感じられます。赤いイヤリングと口紅が効いています。(館)

Posted: Nurie : 14年03月02日 | ぬりえギャラリー

橘さんの「あめあめふれふれ」

明るい黄色のレインコートと雨靴がとっても春らしいです。波池にグレーの雨も感じがよくでています。(館)

Posted: Nurie : 14年03月02日 | ぬりえギャラリー

EvTさんの「ねんねこでおんぶ」

鮮やかな今風のねんねこですね。緑に背景に赤が浮き立っています。(館)

Posted: Nurie : 14年03月02日 | ぬりえギャラリー

Sayokoさんの「こんれいのひ」

着物の配色が美しいですね。若いお嬢さんにぴったりの色合いだと思います。(館)

Posted: Nurie : 14年03月02日 | ぬりえギャラリー

みささんの「おんせん」

緑の色が画面を引き締めています。少女たちの肌が柔らかな感じが伝わってきます。(館)

Posted: Nurie : 14年03月02日 | ぬりえギャラリー

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